第4話 14年分の想い
連れて来られたのは、庭園の奥にある温室だった。
アレクは私を椅子へ座らせると、使用人から受け取った救急箱を開けた。
消毒液を含ませた布を、そっと頬に当てる。
「……しみる?」
「平気よ。かすり傷だもの」
「傷が残ったら、どうするの」
「残らないわよ、こんなの。それより見た? 私の反論。我ながら会心の出来だったと思わない?」
えっへん、と胸を張ってみせる。
空気を軽くしたつもりだったのに、アレクは笑わなかった。
頬に触れる指先が、まだ震えている。
「……アレク?」
「――怖かった」
絞り出すような声だった。
「エレナが傷つけられたのを見た瞬間、頭が真っ白になった。あのまま誰も止めなかったら、僕は多分、あの男を本気で傷つけていた」
言葉を切って、彼は俯いた。
「ごめん。エレナは自分で解決するって言っていたのに、僕が台無しにした。それに王太子としても、あんなふうに感情を表へ出すべきじゃなかった」
「……いいえ」
気づけば、そう答えていた。
「今回のは、その……嬉しかったから。ノーカウントにしてあげる」
アレクが、ぱっと顔を上げる。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
「今、嬉しかったって言った?」
「言ってない」
「言った。一回だけ言った」
「揚げ足を取らないの!」
(この切り替えの早さ、本当にずるいと思う)
アレクは濡れた布を置くと、私の前に膝をついた。
「エレナ。今度こそ、ちゃんと聞いてほしい」
温室の柔らかな光の中で、彼は言った。
「四歳のときから十四年間、君だけが好きだ」
心臓が、大きく跳ねた。
「軽口だと思っていたでしょ。三回とも全部本気だよ。口に出したのが三回なだけで、本当は毎日思ってた」
「ま、毎日……」
「エレナが『頼りになる大人の男が好き』って言うから、僕を好きになってもらえるように、ずっと頑張ってきた。剣の稽古を始めたのだって、君を守れる男になりたかったからだ。歴史も法律も、途中で投げ出さずに学んだ。君が王家へ来ても、ひとりで何もかも背負わなくていいように」
「私のために、王太子の勉強をしたと言うの?」
「それは少し違う」
アレクは静かに首を横へ振った。
「僕はこの国の王太子だ。民に対する責任は、君と出会う前から僕のものだよ。君のために地位を捨てるなんて、無責任なことを言うつもりはない」
その答えに、私は少し驚いた。
甘い言葉だけを並べるのなら、何もかも捨てると言ったほうが簡単だろう。
「でも、王太子だから君を諦めるつもりもない。君が恐れていることを、僕にも一緒に背負わせてほしい」
アレクは、私の手を両手で包んだ。
「君が一番不安なのは、僕がほかの女性を妃に迎えることでしょう?」
私は小さく頷いた。
「僕は側室を持たない」
迷いのない声だった。
「君に求婚するためだけの思いつきじゃないよ。十一人の弟や妹と育って、母上や側妃たちが後宮の均衡を保つためにどれだけ苦労してきたか、ずっと見てきた。側室制度は、継承争いの火種にもなる。だから僕は、王の妃はひとりとする制度への改革案を、成人前から母上と準備してきた」
「そんな大変なことを……」
「すぐにすべてを変えられるとは約束できない。反対する貴族もいる。でも、僕自身が側室を持たないことだけは、今ここで誓える」
「それでも……私に王妃が務まるとは思えないわ」
「母上は、エレナが八歳の頃から知っている。王宮で歴史も礼法も学び、僕たちを守りながら、伯爵家のことまで勉強していた君をね」
アレクは私の手を、そっと握り直した。
「それに、僕だってまだ完成した王太子じゃない。足りないものがあるなら、二人で学んでいけばいい」
「でも、五歳年上の私が妃になれば、あなたまで笑われるわ。今日だって、私が幼いあなたをたぶらかしたと――」
「それなら、僕が十四年間追いかけ続けたと何度でも説明する」
「説明して納得する人ばかりではないでしょう?」
「うん。だから、言葉だけじゃなくて、僕が選んだ人がどんな女性なのか、君と一緒に示していく」
彼は簡単に「大丈夫」とは言わなかった。
変えるのが難しいことも、時間がかかることも認めたうえで、それでも私の隣に立つと言った。
年上だから、落ち着いているわけではない。
優しい言葉を使うから、誠実なわけでもない。
本当に頼れる人とは、相手の不安を笑わず、自分の責任からも逃げず、できないことまで軽々しく約束しない人なのかもしれない。
「それから、これだけは覚えていて」
見上げた彼は、もう子犬のようには笑っていなかった。
「君が自分で立てる人だって、ちゃんと知ってる。それでも、つらいときくらいは俺を頼って」
――また、「僕」が「俺」になった。
声も、眼差しも、私が知っている弟のものではなかった。
胸の奥が熱くなり、思わず目を逸らす。
「……そんな顔で言うのは、ずるいわ」
「年下だから?」
「弟だと思っていた人に、こんなふうに口説かれる心の準備なんてないのよ」
「じゃあ、準備ができるまで待つよ」
アレクは私の手の甲に、ゆっくりと唇を落とした。
「それに、燃えるような恋がしたいんでしょ?」
「そうだけど……」
「僕の想いなら、十四年分ある。君の想いが今は小さくても、これから二人で育てていけばいい」
不覚にも。
本当に、不覚にも。
人生で一番、ときめいてしまった。
「〜〜〜っ、返事は! 保留! 保留です!」
真っ赤な顔でそう叫ぶのが、私の精一杯だった。
アレクは一瞬きょとんとしたあと、心底嬉しそうに破顔した。
「うん。待つのは得意だよ。なにせ、十四年待ったからね」
◆
翌朝。
父の書斎へ呼ばれた私は、机に置かれた一通の釣書を前に固まっていた。
「昨日の今日で申し訳ないと思うのだが……お前に、新しい縁談が来ている」
「え?」
「先方は二十八歳。穏やかで仕事にも堅実な、評判のいい方だ。もちろん、会いたくなければ断ってかまわない」
二十八歳。穏やかで、堅実。
ほんの少し前まで、私が探し求めていた理想そのものだ。
それなのに。
釣書に記された見知らぬ男性の名前を見ても、胸は少しも動かなかった。
代わりに浮かんだのは、昨日、私の前に跪いていた白銀の髪。
――これは一時のときめきなのか。
それとも、もう恋が始まっているのか。
私は自分の気持ちを確かめるため、一度だけ、その方とお会いしてみることにした。
今日もお読みいただきありがとうございます!
次回エレナは自分の気持ちに気付くのか…?




