第3話 俺のエレナに、何をした
それから数日、私は寝不足だった。
目を閉じると、髪に口づける横顔が浮かんでくるのだ。誰の、とは言わないけれど。
(違う違う違う。あれはノーカウント。あの子は昔から距離が近いだけ!)
けれど、昔のアレクなら、髪に触れられたくらいで眠れなくなるはずがない。
枕に顔を埋めてじたばたしていた私のもとに、王宮から一通の招待状が届いた。
差出人は、王妃殿下。
内容は――アレクシス王太子殿下の成人を祝う、王宮ガーデンパーティー。
そして招待状の隅には、王妃殿下の流麗な手書きで一言。
『貴族の若い方々がたくさんいらっしゃいますよ。素敵な出会いがあるといいわねぇ。うふふ』
(王妃様……その「うふふ」は何ですか……)
「事実上の、婚約者候補のお披露目会だってさ」
招待状を覗き込んだユリウスが、こともなげに言った。
「国中の令嬢が着飾って集まるらしいよ。まぁ、あいつは全員袖にするだろうけど」
「……ふぅん」
胸の奥を、ざらりとした何かが撫でた。
(何、これ。リンゴタルトを食べ損ねたときの感じに、少し似てる)
いやいや。めでたい話ではないか。
アレクにちゃんとした婚約者ができれば、私も心置きなく婚活に励める。彼の十四年間を幼い憧れのままで終わらせて、もっと相応しい女性と幸せになってもらえる。
それでいい。そうすべきだ。
「姉様、今、ぜんぜん納得してない顔してる」
「うるさいわね!」
◆
パーティー当日。
王宮の庭園は、色とりどりのドレスで埋め尽くされていた。
その中心にいるのは、もちろん今日の主役。
正装に身を包んだアレクは、遠目にもわかるほど輝いていた。白銀の髪が陽光を弾き、令嬢たちに囲まれて、一分の隙もない微笑みを浮かべている。
――あ。
気づいて、しまった。
口元だけで美しく笑う「王太子殿下」の顔。
私やユリウスの前で見せる、子犬みたいにくしゃりと崩れる笑顔とは、まるで別人だ。
令嬢のひとりが、アレクへ顔を寄せる。彼女は頬を染め、扇の陰で嬉しそうに微笑んだ。
(近い。近すぎるわ。話なら、もう少し離れても聞こえるでしょうに)
自分の考えに、私は愕然とした。
これではまるで、嫉妬しているみたいではないか。
だめだ。今日の私はおかしい。
私は逃げるように、庭園の外れにある薔薇のアーチへ避難した。給仕から失敬してきたリンゴタルトを、皿ごと抱えて。
「――おや。噂のご令嬢が、こんなところにおひとりですか」
声に振り向き、後悔した。
シグリッド・ロイエルが、酒杯を片手に立っていた。その背後には数人の招待客がいる。
「噂とは、何のお話でしょう?」
「とぼけるのがお上手だ。皆さんもお気をつけなさい。この方は、王妃殿下との縁を利用して王太子殿下へ近づき、妃の座を狙っているのですよ」
周囲がざわめく。
「俺との結婚話を一方的に破談にしたのも、殿下に乗り換えるためだ。これまでにも何人もの男を値踏みしては捨てている。五歳年下の殿下までたぶらかすとは、恐れ入るよ」
なるほど。
私に振られたのではなく、王太子を狙う悪女に捨てられたことにしたいらしい。
ただの悪口なら笑い飛ばせる。けれど、王太子妃候補が集う場で「王妃殿下との縁を利用した」と吹聴されれば、王家にまで迷惑がかかる。
それに、この噂が広がれば、今後まともな縁談は望めない。
先日の意趣返しとしては、ずいぶん卑怯な手を選んだものだ。
私は皿を給仕へ返し、淑女の微笑みを浮かべた。
「ずいぶん想像力が豊かでいらっしゃるのね。では、事実を確認いたしましょうか」
私は指を一本立てた。
「あなたが『母親に従えないなら別れる』とおっしゃった。私はその条件を拒否した。ゆえに、お話は終わりました。ここまではよろしい?」
「それは、君が謝れば――」
「二つ。過去にお付き合いした方々とは、それぞれ暴力、賭け事、既婚の隠蔽、借金、複数交際が判明したため、ご縁をお断りいたしました。確かに私には見る目がありませんでしたけれど、裏切られても黙って耐えることが淑女の美徳だとは存じませんでしたわ」
聞いていたご婦人方の視線が、シグリッドへ冷たく突き刺さる。
「そして三つ。王太子殿下は、私が八歳の頃から家族同然に親しくさせていただいている方です。私が妃の座を狙って近づいたとおっしゃるなら、十五年前から計画していたことになりますわね」
周囲から、くすくすと笑いが漏れた。
「この……可愛げのない女が!」
シグリッドの顔が赤黒く染まる。
彼は酒杯を芝生へ投げ捨てると、私の手首を掴んだ。
「離してください」
「母親がいない女を、お母様が娘として育ててやると言ったんだぞ! それを――」
「必要ありません。私には、立派な父と弟がいます」
「だから、その生意気な口を――!」
彼が乱暴に腕を振り上げる。
咄嗟に顔をかばおうと突き出した私の手を、力任せに払った。その指輪が頬をかすめる。
ぴりっ、とした熱。
指先で触れると、赤いものがついていた。
切れた――と認識するより早く、視界からシグリッドが消えた。
正確には、襟首を掴まれ、宙に浮いていた。
「――俺のエレナに、何をした」
地を這うような、低い声。
シグリッドを片手で吊り上げていたのは、今日の主役、アレクシス王太子殿下その人だった。
いつもの柔らかな雰囲気は、どこにもない。銀の髪の下で、光のない瞳が据わっている。
場が凍りつく中、私の頭は半分ほど、明後日の方向に引っかかっていた。
(お、「俺の」……? というより、この子普段は「僕」ではなかった!?)
「で、殿下、これは違うのです! その女が私を弄び、王太子殿下を狙って――」
「違わない」
アレクは、冷え切った声で遮った。
「僕が最初から聞いていた。ロイエル卿。君は王家の正式な賓客を公衆の面前で侮辱し、虚偽の噂を流し、さらに暴力を振るった」
一瞬で、いつもの「僕」に戻っている。
けれどその声は、氷のままだった。
そして集まった招待客を、まっすぐに見渡す。
「誤解がないよう、ここで明言しておく。エレナが僕を誘惑した事実は一切ない。幼い頃から僕が一方的に想い続け、今も求愛している。断られているのは僕のほうだ」
「ちょ、アレク!?」
ざわめきが爆発した。
これで私の名誉は回復したかもしれない。
代わりに、明日から「王太子殿下の求愛を断り続ける行き遅れ令嬢」として国中に知れ渡るだろう。
(回復のさせ方が豪快すぎるのよ!)
「で、殿下、私は……っ」
「言い訳は、しかるべき場所で聞く」
ミシリ、と襟が嫌な音を立てる。シグリッドの顔が、恐怖に歪んだ。
――まずい。このままだと、いろいろとまずい。
「アレク、だめ!」
考えるより先に体が動いた。
宙吊りの元恋人と、鬼の形相の王太子の間へ割って入り、アレクの腕にしがみつく。
「その男の骨より、あなたの立場のほうが大事なの! 離しなさい!」
アレクの瞳が、ゆっくりと私に焦点を合わせた。
数秒の沈黙ののち、彼はシグリッドを芝生の上に放り捨てた。
「……衛兵。ロイエル卿を丁重にお送りしろ。エレナへの謝罪と、虚偽の訂正が確認できるまで、ロイエル家の王宮への出入りを禁じる。処分は後日、法に従って正式に下す」
腰を抜かしたシグリッドが引きずられていく。
それを見届けると、アレクは無言で私の手を取り、ざわめく会場を大股で横切っていった。
先ほど彼を囲んでいた令嬢たちの視線が、痛いなんてものではない。
けれど、それよりも。
傷つけられた本人より青ざめ、私の手を握るアレクの指先が、かすかに震えていることが気になった。
第3話ありがとうございます!
折り返し地点になりました。
全6話ですのでよろしくお願いします。




