七
選挙が始まると、事務所は眠らなくなった。
朝は駅前。
昼は街頭演説。
夕方は個人演説会。
夜は配信。
その合間に短い動画を上げた。
先生は、失われた三十年について話した。
国民の所得が伸びなかったこと。
非正規雇用が増えたこと。
地域の病院や学校が失われたこと。
若者が将来を信じられなくなったこと。
既存政治が決断を避けてきたこと。
どれも、聞いたことのある言葉だった。
しかし先生が話すと、自分のことのように聞こえた。
「日本には力があります。」
先生は街頭で言った。
「技術がある。文化がある。勤勉な人がいる。にもかかわらず、三十年も成長できなかった。これは国民が悪いのではありません。政治が、国民の力を生かさなかったのです。」
拍手が起きた。
私は演説の一部を切り抜いた。
日本には力がある。
政治が生かしていない。
その二文を前後につなげ、音楽を付けた。
映像のコメントには、
やっと日本を取り戻せる。
日本人は本来優秀。
この国を駄目にした政治家を追い出せ。
と並んだ。
数日後、先生は別の場所で言った。
「日本が特別に優れているという物語へ逃げてはいけません。私たちが失敗してきた事実を直視しなければ、同じことを繰り返します。」
この部分も動画にした。
再生数は、最初の動画の十分の一だった。
コメント欄では、
急に日本を否定し始めた。
外国に媚びた。
言っていることが違う。
と批判された。
私は二つの演説を続けて見た。
先生の中では矛盾していないのだろう。
日本には力がある。
日本が特別に優れているという物語へ逃げてはいけない。
二つは同時に成り立つ。
けれど、別々の動画として見ると、別々の先生がいた。
私は若林さんに相談した。
「一本にまとめた方がよかったでしょうか。」
「長くなります。」
「でも、片方だけでは意味が変わります。」
「両方上げたでしょう。」
「見る人が違います。」
「それは私たちにはどうしようもない。」
「おすすめに出す動画を選べます。」
「選ぶのは運営会社です。」
「私たちが題名やサムネイルを変えれば。」
「伸びる方を伸ばさない理由がありますか。」
私は答えられなかった。
「水野さん。」
若林さんは言った。
「あなたは、政治を正しく伝えたいんですか。それとも、有権者に選ばれる政治を作りたいんですか。」
「私は編集者です。」
「それが答えになっていると思いますか。」
先生と同じようなことを言う人が増えた。
私が答えられないことも増えた。
選挙終盤、奈緒さんが応援演説に立つことになった。
先生は最後まで反対した。
しかし党本部が求めた。奈緒さんの存在は、先生がなぜ政治家になったかを分かりやすく示した。
会場には大勢の人が集まった。
奈緒さんは、制度によって家族が傷ついた過去を話した。
「誰に相談しても、制度上は問題がないと言われました。個別の事情だと言われました。けれど、私たちにとっては、個別の人生が全てでした。」
拍手が起きた。
「その時、私たちの話を最後まで聞いてくれたのが、峰岸でした。」
先生は奈緒さんの後ろに立っていた。
奈緒さんは続けた。
「峰岸は、私たちの声を国会へ持って行ってくれました。」
私はカメラ越しに先生を見た。
先生は笑っていなかった。
「私は、峰岸を信じています。」
大きな拍手が起きた。
その演説動画は、選挙期間中で最も再生された。
私たちは勝った。
議席は大きく増えた。
開票日の夜、事務所では歓声が上がった。
先生は当選の花を付け、支持者と握手をした。
記者が尋ねた。
「躍進の要因を、どう分析されていますか。」
「国民が、既存政治に答えを求めた結果だと思います。」
「峰岸先生が、その答えを示したと。」
先生は少し間を置いた。
「私たちが示したのは、問いです。」
記者は次の質問へ移った。
後で、記事の見出しには、
国民が答えを求めた結果。
とだけ書かれていた。
私はそれを先生に見せた。
「また切られましたね。」
先生は言った。
「抗議しますか。」
「しません。」
「なぜ。」
「私も同じことをしていますから。」
「何を。」
「国会で。」
先生は祝いの声が響く部屋を見た。
「相手の長い答えから、都合の悪い部分を切る。切ったものへ、答えていないと言う。」
「でも、質問時間には限りがあります。」
「そうです。」
「仕方がないのでは。」
「仕方がないことは、責任がないという意味ではありません。」
その時、奈緒さんが近づいてきた。
「おめでとう。」
先生は振り返った。
「ありがとう。」
「嬉しくないの。」
「嬉しいです。」
「そう見えない。」
「疲れているだけです。」
奈緒さんは先生の胸の花を直した。
「桐谷さんも、喜んでいるかしら。」
先生の顔が変わった。
ほんの一瞬だった。
けれど、私は見た。
「今、その話をする必要がありますか。」
「今だからするの。」
「奈緒。」
「この議席は、あの人が作ったものでもあるでしょう。」
先生は周囲を見た。
誰も二人の会話を聞いていないようだった。
「帰ってから話そう。」
「帰ったら、あなたは話さないでしょう。」
「今は、やめてくれ。」
奈緒さんは先生を見つめた。
「あなたは、あの人の何を引き継いだの。」
先生は答えなかった。
奈緒さんは私に気付いた。
私たちの目が合った。
私は咄嗟にカメラを下げた。
撮ってはいなかった。
けれど奈緒さんには、撮られたように見えたのだと思う。
「ごめんなさい。」
奈緒さんは言った。
何について謝ったのか、分からなかった。
その夜、先生は最後まで支持者の前にいた。
笑い、握手をし、写真を撮った。
私はその姿を編集し、勝利の動画を作った。
動画の最後に、先生が言った。
「ここからが始まりです。」
歓声が上がった。
私は、その直前に先生が一人で目を閉じていた三秒間を切った。




