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こえ  作者: 水川かずみ
先生と遺書
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46/48

二十九

 先生とは、三日後に会った。


 病院ではなく、先生の自宅だった。


 奈緒さんから連絡が来た。


 夫が会いたいと言っています。


 私は故郷へ戻っていなかった。


 父の容体は安定していると、母から短いメッセージが来ていた。


 私はそれを、戻らなくてよいという意味に受け取った。


 先生の家は、思っていたより普通だった。


 政治家の家というより、長く暮らした夫婦の家だった。


 棚に本があり、古い食器があり、廊下に生活用品が置かれていた。


 奈緒さんが私を居間へ案内した。


 先生はソファに座っていた。


 顔色は悪かった。


「来てくれて、ありがとう。」


 先生が言った。


「先生。」


 私は、何を言えばいいか分からなかった。


 生きていてよかった。


 なぜ死のうとした。


 記録を読みました。


 父を置いて来ました。


 どれも、最初の言葉には適さないように思えた。


「読みましたか。」


 先生から尋ねた。


「はい。」


「全部。」


「はい。」


「そうですか。」


 先生はそれだけ言った。


「先生は、死ぬつもりだったんですか。」


 私は尋ねた。


 奈緒さんは部屋を出なかった。


 先生は、すぐに答えなかった。


「そのつもりで、書きました。」


「では、なぜ。」


「できなかったんです。」


「怖くなった。」


「それもあります。」


「他には。」


「桐谷の墓へ行きました。」


「はい。」


「墓の前で、死ぬことを考えました。」


 先生は両手を見た。


「その時、自分が死ねば、桐谷と同じ場所へ行けるような気がしていることに気付きました。」


「同じ場所。」


「死者としてです。」


 先生は言った。


「私は、生きている間ずっと、桐谷の死を自分の罪にしてきました。死ねば、最後まで彼と結び付けられる。自分の人生の結末として、彼を使える。」


 奈緒さんは黙っていた。


「それで、死ねなかった。」


「はい。」


「では、公園で何を。」


「座っていました。」


「見つかるのを待っていたんですか。」


「分かりません。」


「分からない。」


「分かりません。」


 動画の中では決して言わなかった言葉を、先生は何度も使った。


「記録には、死のうとしていると。」


「書いた時は、そう思っていました。」


「私を呼ぶ手紙ではないとも。」


「はい。」


「でも、送った。」


「送りました。」


「私が来ると思いましたか。」


「思いました。」


 私は息を止めた。


「では、来てほしかったんですか。」


「それは分かりません。」


「先生。」


「来てほしくないなら、送らなければよかった。」


 先生は言った。


「それでも送った。だから、どこかでは来てほしかったのでしょう。」


「なぜ私に。」


「あなたなら、読むと思ったからです。」


「奈緒さんではなく。」


 先生は奈緒さんを見た。


「奈緒には、読ませたくなかった。」


「今も。」


「今もです。」


 奈緒さんが笑った。


「私の前で言うのね。」


「隠しても、もう意味がない。」


「意味はあるでしょう。あなたはいつも、隠すことに意味を付けてきた。」


「奈緒。」


「私を守るため。傷つけないため。桐谷さんの死を私たちのものにしないため。」


 先生は黙った。


「あなたは、私が何を知っているか、一度も聞かなかった。」


 奈緒さんが言った。


「聞けなかった。」


「違う。聞かなかったの。」


「同じでは。」


「違うわ。」


 奈緒さんは先生の正面へ座った。


「聞けなかったなら、自分の弱さでしょう。聞かなかったなら、私の答えを必要としなかったということ。」


「必要でした。」


「なら、なぜ。」


「答えが怖かった。」


「どちらの。」


 先生は顔を上げなかった。


「私が桐谷を愛していたという答え。」


「それだけ。」


「愛していなかったという答えも。」


 先生の声は小さかった。


「愛していなければ、私は桐谷を必要以上に恐れていたことになる。愛していれば、私は本当に奪ったことになる。」


「どちらでも、自分の罪になるのね。」


 奈緒さんは言った。


「私の気持ちは、あなたが自分を裁くためにしか使われない。」


 先生は何も言わなかった。


「私は。」


 奈緒さんは言葉を切った。


「桐谷さんを愛していたか、今はもう分からない。」


 先生が顔を上げた。


「分からないの。」


「分からない。」


「でも。」


「あなたは、何でも答えがあると思うのね。」


 奈緒さんは静かに言った。


「私は桐谷さんと話すのが好きだった。腹が立つことも多かった。あなたより信用していた時もある。あなたに選ばれたいと思っていた時もある。桐谷さんに分かってほしいと思った時もある。」


 先生は動かなかった。


「それを愛と呼ぶかどうか、今の私には分からない。」


「当時は。」


「当時の私に聞かなかったでしょう。」


 先生は、長く黙った。


 私はその場にいるべきではないと思った。


 しかし立てなかった。


 先生の記録の続きを見ているような気がしていた。


 奈緒さんが私を見た。


「水野さん。」


「はい。」


「今の話も、使えますか。」


 私は顔が熱くなった。


「使いません。」


「本当に。」


「はい。」


「では、忘れられますか。」


 答えられなかった。


「使わないことと、残らないことは違うでしょう。」


 奈緒さんは言った。


 私は、先生の記録を持ったままだった。


 聞いたことも、見たことも、もう戻せなかった。

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