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こえ  作者: 水川かずみ
先生と遺書
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43/48

二十六

 事務所には、小川さんと奈緒さん、それから警察官が二人いた。


 若林さんもいた。


 皆、私を見ると立ち上がった。


「端末を。」


 小川さんが言った。


 私は鞄を抱えたまま、奈緒さんを見た。


 奈緒さんは、選挙の時より痩せて見えた。


「先生から、何か聞いていませんか。」


 私が尋ねた。


「それを、あなたに聞きたいの。」


 奈緒さんは言った。


「何を送ってきたの。」


 私は答えなかった。


「桐谷さんのこと。」


 奈緒さんが続けた。


「書いてあったんでしょう。」


 私は小川さんを見た。


 小川さんは何も言わなかった。


「はい。」


「どこまで。」


「全部だと思います。」


「全部。」


 奈緒さんは笑った。


 笑ったように見えただけかもしれない。


「全部なんて、あの人に分かるの。」


 私は黙った。


「見せて。」


「先生は、奈緒さんには見せないと。」


「だから、あなたには見せたのね。」


 声は静かだった。


「私には隠して、あなたには話した。」


「先生は、奈緒さんを傷つけないために。」


「そう書いてあったの。」


「はい。」


「それを、あなたは信じたの。」


 私は答えられなかった。


 奈緒さんは私へ近づいた。


「見せてください。」


 私は鞄から端末を出さなかった。


「先生が、見せないと決めたものです。」


「先生が決めた。」


「はい。」


「死ぬつもりの人が、一人で決めたことを、あなたは守るの。」


 その言葉に、私は何も返せなかった。


 小川さんが間へ入った。


「まず、警察に確認してもらいます。」


「個人的な記録です。」


 私は言った。


「失踪者の所在確認に関わる可能性があります。」


 警察官が答えた。


 私は端末を渡した。


 渡した瞬間、何かを失った気がした。


 先生から私へ届いた記録が、私の手を離れた。


 それは当然だった。


 私は先生の遺言執行人でも、家族でも、弁護士でもない。


 ただ動画を作っていた人間だった。


 しかし先生は、私に送った。


 その事実だけが、私に特別な権利を与えているように思えていた。


 奈緒さんは、私の空いた手を見ていた。


「あなたに送ったのは。」


 奈緒さんが言った。


「若いからではないと思う。」


「では、なぜ。」


「編集する人だからでしょう。」


 私は顔を上げた。


「自分で、自分の最後を編集できなかったから。」


 奈緒さんは言った。


「あなたにさせたのよ。」


「先生は、公開してほしいとは。」


「公開するかどうかだけが編集じゃないでしょう。」


 私は先生の言葉を思い出した。


 あなたは判断するでしょう。


 人は、そうせずにはいられない。


 奈緒さんは椅子へ座った。


「桐谷さんが、私を愛していたって書いてあった。」


 私は驚いた。


「知っていたんですか。」


「知らなかったと思う。」


「思う。」


「そういう目で見ていたかもしれない。そうでなかったかもしれない。」


 奈緒さんは両手を重ねた。


「後からなら、何でも意味にできるから。」


 私は黙って聞いた。


「あの人は、私と桐谷さんを一つの話にしたのね。」


「先生は、自分が先回りして。」


「そう。」


「奈緒さんは。」


「何を聞きたいの。」


「桐谷さんを、どう思っていたんですか。」


 奈緒さんは私を見た。


「それを知って、何が変わるの。」


「先生の記録の意味が。」


「ほら。」


 奈緒さんは言った。


「あなたも同じ。」


 私は言葉を失った。


「私が桐谷さんを愛していたと言えば、夫の罪は重くなる。愛していなかったと言えば、少し軽くなる。どちらを答えても、あなたは夫の話を完成させる。」


「そんなつもりでは。」


「つもりは、関係ないのよ。」


 先生も同じことを言っていた。


 意図は後から作れる。


 したことを説明するために。


「ごめんなさい。」


 私は言った。


「謝らなくていい。」


 奈緒さんは疲れたように笑った。


「夫も、よくそう言ったわ。」


 謝らなくていい。


 無理をしなくていい。


 少し休め。


 落ち着いたら話そう。


 適切な言葉は、誰が使っても似ていた。

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