四
私は、峰岸先生の妻に会うまで、先生が結婚していることを意識していなかった。
プロフィールには書いてあった。選挙用の冊子にも、家族とともに困難を乗り越えたとあった。けれど、先生の動画に家族は出なかった。
政治家の家族は、出れば利用だと言われ、出なければ隠していると言われる。
先生は妻を出さない方を選んでいた。
奈緒さんが事務所へ来たのは、雨の午後だった。
私は編集室で、委員会映像に字幕を付けていた。入口で小川さんの声がし、その後に女性の笑い声がした。
「水野さん。」
先生に呼ばれた。
応接室へ行くと、四十代くらいの女性が座っていた。
先生より少し若く見えた。髪を後ろで束ね、紺色のシャツを着ていた。化粧は薄かった。
「妻の奈緒です。」
「初めまして。」
「動画の方ですよね。」
奈緒さんは言った。
「いつも拝見しています。」
私は、ありがとうございますと言った。
「あなたの動画を見て、若い方から連絡をいただくことが増えました。」
「奈緒さんの活動についても、いつか取り上げたいと思っています。」
私が言うと、先生がすぐに口を挟んだ。
「その予定はありません。」
奈緒さんは先生を見た。
「別に、私は構わないけれど。」
「必要がない。」
「必要があるかどうかは、私が決めることではないの。」
「今さら出れば、別の意味になる。」
「何の。」
「選挙が近い。」
奈緒さんは少し笑った。
「あなたは、昔からそうね。私の話を使う時は、必要だからと言ったのに。」
先生の顔がわずかに固くなった。
私は見てはいけないものを見た気がした。
「昔の話です。」
「昔の話だから、今は使わないの。」
「そういう意味ではない。」
「では、どういう意味。」
先生は答えなかった。
奈緒さんは私に向き直った。
「ごめんなさい。夫婦の話をしてしまって。」
「いえ。」
「先生は、動画ではずいぶん強く見えるでしょう。」
「実際にも、強い方だと思います。」
奈緒さんは、少し考えるように先生を見た。
「強い、というより、決めてしまう人です。」
「決断力があるということですか。」
「そう言えば、褒め言葉になりますね。」
先生は立ったままだった。
「奈緒。」
「分かっています。邪魔をしに来たわけじゃないの。」
奈緒さんは鞄から封筒を出した。
「桐谷さんのところへ行く日でしょう。」
先生は封筒を受け取らなかった。
「来週です。」
「今月は今日だと聞いたけれど。」
「誰に。」
「小川さん。」
先生は小川さんのいる部屋を見た。
「お花代です。持って行って。」
「いりません。」
「私からです。」
「なおさら、いりません。」
奈緒さんは封筒を机に置いた。
「私は行ってはいけないのね。」
先生は何も言わなかった。
「分かりました。」
奈緒さんは立ち上がった。
「水野さん。また、いつかゆっくり。」
「はい。」
帰り際、奈緒さんは額の言葉を見た。
人は、自分の言葉でしか、責任を負えない。
「まだ、これを飾っているのね。」
先生は答えなかった。
奈緒さんが出て行った後、部屋には封筒だけが残った。
「桐谷さんという方の墓参りですか。」
私は尋ねた。
「そうです。」
「毎月。」
「毎月です。」
「一人で。」
「一人で。」
「奈緒さんは。」
「関係ありません。」
先生の声は、それまで聞いたことがないほど冷たかった。
私は謝った。
「謝る必要はありません。」
先生は封筒を手に取った。
「聞かれたくないなら、人の見えるところで話すべきではない。」
先生はそう言ったが、封筒を開けなかった。
そのまま机の引き出しに入れた。
私は、その封筒が翌月も、同じ場所にあるのを見た。




