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こえ  作者: 水川かずみ
先生と私
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4/20

 私は、峰岸先生の妻に会うまで、先生が結婚していることを意識していなかった。


 プロフィールには書いてあった。選挙用の冊子にも、家族とともに困難を乗り越えたとあった。けれど、先生の動画に家族は出なかった。


 政治家の家族は、出れば利用だと言われ、出なければ隠していると言われる。


 先生は妻を出さない方を選んでいた。


 奈緒さんが事務所へ来たのは、雨の午後だった。


 私は編集室で、委員会映像に字幕を付けていた。入口で小川さんの声がし、その後に女性の笑い声がした。


「水野さん。」


 先生に呼ばれた。


 応接室へ行くと、四十代くらいの女性が座っていた。


 先生より少し若く見えた。髪を後ろで束ね、紺色のシャツを着ていた。化粧は薄かった。


「妻の奈緒です。」


「初めまして。」


「動画の方ですよね。」


 奈緒さんは言った。


「いつも拝見しています。」


 私は、ありがとうございますと言った。


「あなたの動画を見て、若い方から連絡をいただくことが増えました。」


「奈緒さんの活動についても、いつか取り上げたいと思っています。」


 私が言うと、先生がすぐに口を挟んだ。


「その予定はありません。」


 奈緒さんは先生を見た。


「別に、私は構わないけれど。」


「必要がない。」


「必要があるかどうかは、私が決めることではないの。」


「今さら出れば、別の意味になる。」


「何の。」


「選挙が近い。」


 奈緒さんは少し笑った。


「あなたは、昔からそうね。私の話を使う時は、必要だからと言ったのに。」


 先生の顔がわずかに固くなった。


 私は見てはいけないものを見た気がした。


「昔の話です。」


「昔の話だから、今は使わないの。」


「そういう意味ではない。」


「では、どういう意味。」


 先生は答えなかった。


 奈緒さんは私に向き直った。


「ごめんなさい。夫婦の話をしてしまって。」


「いえ。」


「先生は、動画ではずいぶん強く見えるでしょう。」


「実際にも、強い方だと思います。」


 奈緒さんは、少し考えるように先生を見た。


「強い、というより、決めてしまう人です。」


「決断力があるということですか。」


「そう言えば、褒め言葉になりますね。」


 先生は立ったままだった。


「奈緒。」


「分かっています。邪魔をしに来たわけじゃないの。」


 奈緒さんは鞄から封筒を出した。


「桐谷さんのところへ行く日でしょう。」


 先生は封筒を受け取らなかった。


「来週です。」


「今月は今日だと聞いたけれど。」


「誰に。」


「小川さん。」


 先生は小川さんのいる部屋を見た。


「お花代です。持って行って。」


「いりません。」


「私からです。」


「なおさら、いりません。」


 奈緒さんは封筒を机に置いた。


「私は行ってはいけないのね。」


 先生は何も言わなかった。


「分かりました。」


 奈緒さんは立ち上がった。


「水野さん。また、いつかゆっくり。」


「はい。」


 帰り際、奈緒さんは額の言葉を見た。


 人は、自分の言葉でしか、責任を負えない。


「まだ、これを飾っているのね。」


 先生は答えなかった。


 奈緒さんが出て行った後、部屋には封筒だけが残った。


「桐谷さんという方の墓参りですか。」


 私は尋ねた。


「そうです。」


「毎月。」


「毎月です。」


「一人で。」


「一人で。」


「奈緒さんは。」


「関係ありません。」


 先生の声は、それまで聞いたことがないほど冷たかった。


 私は謝った。


「謝る必要はありません。」


 先生は封筒を手に取った。


「聞かれたくないなら、人の見えるところで話すべきではない。」


 先生はそう言ったが、封筒を開けなかった。


 そのまま机の引き出しに入れた。


 私は、その封筒が翌月も、同じ場所にあるのを見た。

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