二十一
私は、自分が死ぬことによって責任を取れるとは思っていません。
死は、責任の引受けではありません。
残された者へ、説明と後始末を押し付ける行為です。
桐谷が死んだ時、私はそう思いました。
今もそう思います。
それでも私は、死のうとしています。
この矛盾を、私は解決できません。
生きて責任を取るべきだという言葉は正しい。
私は役職を辞し、説明を続け、被害を受けた人へ向き合い、制度を直すべきでしょう。
しかし私は、その行為さえ、責任を取る政治家という新しい物語へ変えると思います。
謝罪する私。
再起する私。
過ちを認めた私。
失敗から学ぶ私。
私は、どの姿も政治へ利用できます。
支持者も、反対者も、私の失敗を自分の物語へ使うでしょう。
私は、それを止められません。
死んでも同じです。
私の死は、既存政治に殺された改革者にもなれる。
無責任に逃げた扇動者にもなれる。
SNS政治の犠牲者にもなれる。
権力に耐えられなかった弱者にもなれる。
桐谷への罪に殉じた男にもなれる。
どれも、私ではありません。
どれも、私です。
私は最後まで、自分の死の意味さえ決められません。
だから、この記録をあなたへ送ります。
理解してほしいからではありません。
あなたが、私を一つの意味へ切る瞬間を、自分で見てほしいからです。




