十
翌日、奈緒は事務所へ来ました。
小川と結婚発表の時期を相談するためでした。
桐谷も事務所にいました。
私は午前中、委員会に出ていました。
後から聞いたところでは、奈緒が小川との会話の中で、結婚という言葉を口にしたそうです。
桐谷は隣の部屋にいました。
扉は開いていました。
彼がどこまで聞いたのかは分かりません。
午後、私が戻ると、桐谷は普段どおりに仕事をしていました。
「少し話せるか。」
私が言うと、彼は画面を見たまま答えました。
「結婚のことか。」
私は立ち止まりました。
「聞いたのか。」
「聞こえた。」
「昨日、言うつもりだった。」
「そうか。」
「奈緒とは、以前から。」
「説明しなくていい。」
「桐谷。」
「おめでとう。」
彼は私を見ませんでした。
「怒っているのか。」
「怒る理由はない。」
「昨日、話せなかったのは。」
「説明しなくていいと言った。」
「私は、お前を傷つけるつもりはなかった。」
桐谷はそこで初めて私を見ました。
「それは、自分を傷つけるつもりがなかったという意味か。」
私は何も言えませんでした。
桐谷は立ち上がりました。
「今日は帰る。」
「仕事は。」
「終わっている。」
「明日の質問原稿は。」
「共有フォルダに入れた。」
「桐谷。」
彼は鞄を持ちました。
「私は、仕事は続ける。」
「無理をするな。」
「そういう言葉を、今使うのか。」
彼は静かに言いました。
その言葉は、今も覚えています。
私は彼を引き止めませんでした。
少し時間を置いた方がいいと思いました。
彼が冷静になるまで。
私も、どう話せばいいか考えるまで。
私たちの関係を壊さないために。
私は、その日も適切な判断をしました。




