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こえ  作者: 水川かずみ
先生と遺書
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26/48

九

 桐谷が私に告白したのは、私が奈緒へ結婚を申し込んだ三日後でした。


 彼は議員会館の帰りに、少し話したいと言いました。


 私たちは近くの店へ入りました。


 桐谷は酒を飲みませんでした。


「奈緒さんのことを、どう思っている。」


 彼は突然尋ねました。


 私はすぐに答えませんでした。


「なぜ、そんなことを聞く。」


「私は、彼女を愛している。」


 桐谷は言いました。


 私は驚いたふりをしたかもしれません。


 本当に少しは驚いたと思います。


 知っていることと、言葉にされることは違います。


「本人には。」


「言っていない。」


「なぜ。」


「私が言えば、彼女は困る。」


「では、言わない方がいい。」


 私はすぐに答えました。


 桐谷は私を見ました。


「お前は、そう思うか。」


「今の奈緒には、活動もある。事務所との関係もある。個人的な感情を持ち込めば、負担になる。」


「そうだな。」


「お前自身も、不安定だ。」


 桐谷の顔が少し動きました。


 彼はその頃、大学の職を離れ、私の政策スタッフとして働いていました。収入は高くありませんでした。契約も一年ごとでした。


「彼女へ何を約束できる。」


「約束の話をしているんじゃない。」


「恋愛は、相手に何かを求めることだ。」


「何も求めない。」


「それなら、言う必要はない。」


 私は、畳みかけました。


「お前は、奈緒を愛していると言うことで、自分だけ楽になろうとしているんじゃないか。」


 桐谷は黙りました。


「奈緒は、これまで自分の体験を公にしてきた。多くの人の期待を背負っている。お前が個人的な感情を伝えれば、彼女はお前との関係まで考えなければならなくなる。」


「分かっている。」


「分かっているなら、慎重になるべきだ。」


 私は、慎重という言葉を使いました。


 桐谷がいつも私に求めていた言葉です。


「お前は、事実が確定していなければ断言するなと言う。自分の感情だけは、確定したから相手へ伝えるのか。」


 桐谷は顔を伏せました。


 私は、その時、勝てると思いました。


 私は彼の誠実さを使っていました。


 自分の感情によって他人を傷つけてはいけない。


 相手の立場を考えなければならない。


 自分だけの真実を、他人へ押し付けてはいけない。


 全て、桐谷が大切にしていたことでした。


「峰岸。」


 彼はしばらくして言いました。


「お前は、奈緒さんを愛しているのか。」


 私は答えませんでした。


 答えれば、私たちが結婚を決めたことを話さなければならなかった。


「私の話をしている。」


 私は言いました。


「いや、お前の話だ。」


「今は、お前がどうするかだ。」


「お前が愛しているなら、私は退く。」


 桐谷はそう言いました。


 私は、その言葉を待っていたのだと思います。


 それでも、私は言いませんでした。


「私がどう思っているかは関係ない。」


「ある。」


「奈緒がどう思っているかだ。」


「では、奈緒さんに聞く。」


「やめろ。」


 私は強く言いました。


 桐谷は顔を上げました。


「なぜだ。」


「今、彼女を巻き込むべきではない。」


「それは、お前が決めることか。」


 私は答えられませんでした。


 桐谷は私を見つめました。


 その時、彼は何かに気付いたのかもしれません。


 しかし、追及しませんでした。


「分かった。」


 彼は言いました。


「少し考える。」


 店を出た後、私たちは別れました。


 私は奈緒へ電話しました。


 桐谷が何を言ったかは話しませんでした。


 代わりに、結婚の発表を早めようと言いました。


 奈緒は戸惑いました。


「まだ、早くない。」


「選挙区に知られる前に、自分たちから出した方がいい。」


「誰かに聞かれたの。」


「違う。」


「では、どうして急ぐの。」


「政治家の結婚は、隠している方が問題になる。」


 奈緒はしばらく黙りました。


「桐谷さんに、先に話して。」


「分かった。」


 私はそう答えました。


 しかし、その夜も、桐谷には連絡しませんでした。

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