九
桐谷が私に告白したのは、私が奈緒へ結婚を申し込んだ三日後でした。
彼は議員会館の帰りに、少し話したいと言いました。
私たちは近くの店へ入りました。
桐谷は酒を飲みませんでした。
「奈緒さんのことを、どう思っている。」
彼は突然尋ねました。
私はすぐに答えませんでした。
「なぜ、そんなことを聞く。」
「私は、彼女を愛している。」
桐谷は言いました。
私は驚いたふりをしたかもしれません。
本当に少しは驚いたと思います。
知っていることと、言葉にされることは違います。
「本人には。」
「言っていない。」
「なぜ。」
「私が言えば、彼女は困る。」
「では、言わない方がいい。」
私はすぐに答えました。
桐谷は私を見ました。
「お前は、そう思うか。」
「今の奈緒には、活動もある。事務所との関係もある。個人的な感情を持ち込めば、負担になる。」
「そうだな。」
「お前自身も、不安定だ。」
桐谷の顔が少し動きました。
彼はその頃、大学の職を離れ、私の政策スタッフとして働いていました。収入は高くありませんでした。契約も一年ごとでした。
「彼女へ何を約束できる。」
「約束の話をしているんじゃない。」
「恋愛は、相手に何かを求めることだ。」
「何も求めない。」
「それなら、言う必要はない。」
私は、畳みかけました。
「お前は、奈緒を愛していると言うことで、自分だけ楽になろうとしているんじゃないか。」
桐谷は黙りました。
「奈緒は、これまで自分の体験を公にしてきた。多くの人の期待を背負っている。お前が個人的な感情を伝えれば、彼女はお前との関係まで考えなければならなくなる。」
「分かっている。」
「分かっているなら、慎重になるべきだ。」
私は、慎重という言葉を使いました。
桐谷がいつも私に求めていた言葉です。
「お前は、事実が確定していなければ断言するなと言う。自分の感情だけは、確定したから相手へ伝えるのか。」
桐谷は顔を伏せました。
私は、その時、勝てると思いました。
私は彼の誠実さを使っていました。
自分の感情によって他人を傷つけてはいけない。
相手の立場を考えなければならない。
自分だけの真実を、他人へ押し付けてはいけない。
全て、桐谷が大切にしていたことでした。
「峰岸。」
彼はしばらくして言いました。
「お前は、奈緒さんを愛しているのか。」
私は答えませんでした。
答えれば、私たちが結婚を決めたことを話さなければならなかった。
「私の話をしている。」
私は言いました。
「いや、お前の話だ。」
「今は、お前がどうするかだ。」
「お前が愛しているなら、私は退く。」
桐谷はそう言いました。
私は、その言葉を待っていたのだと思います。
それでも、私は言いませんでした。
「私がどう思っているかは関係ない。」
「ある。」
「奈緒がどう思っているかだ。」
「では、奈緒さんに聞く。」
「やめろ。」
私は強く言いました。
桐谷は顔を上げました。
「なぜだ。」
「今、彼女を巻き込むべきではない。」
「それは、お前が決めることか。」
私は答えられませんでした。
桐谷は私を見つめました。
その時、彼は何かに気付いたのかもしれません。
しかし、追及しませんでした。
「分かった。」
彼は言いました。
「少し考える。」
店を出た後、私たちは別れました。
私は奈緒へ電話しました。
桐谷が何を言ったかは話しませんでした。
代わりに、結婚の発表を早めようと言いました。
奈緒は戸惑いました。
「まだ、早くない。」
「選挙区に知られる前に、自分たちから出した方がいい。」
「誰かに聞かれたの。」
「違う。」
「では、どうして急ぐの。」
「政治家の結婚は、隠している方が問題になる。」
奈緒はしばらく黙りました。
「桐谷さんに、先に話して。」
「分かった。」
私はそう答えました。
しかし、その夜も、桐谷には連絡しませんでした。




