二
峰岸先生の事務所は、議員会館の十二階にあった。
議員会館という場所は、外から見ると大きいが、中へ入ると、どの部屋も驚くほど同じだった。
机、棚、応接用のソファ、政策資料、選挙区から届いた菓子、色紙、写真。
どの議員の部屋にも、その人らしさを示すものが置かれている。地元の工芸品、支援者との写真、著書、家族の写真、座右の銘。
けれど、それらを全部外せば、誰の部屋か分からなくなる。
先生の部屋には、額に入った一枚の紙があった。
人は、自分の言葉でしか、責任を負えない。
そう書かれていた。
毛筆ではない。黒い活字を、白い紙に印刷しただけだった。
「先生が書いた言葉ですか。」
初日に私が尋ねると、事務所の小川さんは首を振った。
「昔の政策秘書の言葉です。」
「今は。」
「辞めました。」
小川さんはそれ以上話さなかった。
事務所には常勤が五人いた。
小川さんは事務局長で、五十代の女性だった。選挙、後援会、日程、資金、連絡、何でも知っていた。
政策担当は二人いた。一人は元省庁職員で、もう一人は大学院を出たばかりだった。
広報担当が一人。
そして私が、動画を担当した。
最初に渡されたのは、先生が過去三年に行った国会質問の一覧だった。
医療、年金、外国人労働者、食料安全保障、教育費、防災、電力、感染症対策。
分野が広い。
「先生は、全部専門なんですか。」
私が尋ねると、若い政策担当の横山さんは笑った。
「そんな人、いるわけないでしょう。」
「でも、動画では専門家議員と。」
「先生は弁護士です。行政訴訟と労働問題が専門です。」
「医療の質問も詳しかったです。」
「あれは医療チームが作っています。」
「チームがあるんですか。」
「正式なものじゃありません。研究者、医師、当事者団体、元官僚、業界関係者。質問ごとに違います。」
私は少し驚いた。
もちろん、一人で全部調べているとは思っていなかった。けれど動画の中では、先生が全てを知っているように見えた。
質問席に立つのは一人だからである。
「質問原稿は、誰が書くんですか。」
「最初の案は担当者です。先生が直します。」
「どのくらい。」
「時によります。」
横山さんは、机に積まれた資料を指した。
「あそこにあるのが次の質問です。元は七十ページあります。質問時間は二十分です。」
「七十ページを。」
「削ります。」
「誰が。」
「みんなで。」
私は、なぜか少し安心した。
一人の天才が全てを理解し、政府を追い詰めているわけではない。多くの人が調べ、整理し、先生が代表して質問している。
それは当然のことだった。
同時に、少し残念でもあった。
私は先生に、全てを見通す人間であってほしかったのだと思う。
その日、私は次回の委員会質問の準備会議に参加した。
議題は、ある医療制度の見直しだった。
先生の向かいには、医師が二人、患者団体の代表が一人、研究者が一人座っていた。画面の向こうにも、地方の病院から参加している人がいた。
一人の医師が、制度変更によって現場が危険になると訴えた。
「このままでは、救える命が救えなくなります。」
患者団体の女性が続けた。
「私たちは、すでに何人も亡くしています。」
研究者が資料を見ながら言った。
「ただ、死亡数と制度変更の因果関係は、現段階では確定していません。」
患者団体の女性が顔を上げた。
「確定するまで、何人死ねばいいんですか。」
「そういう意味ではありません。」
「では、どういう意味ですか。」
「死亡例があることと、制度が死亡を増加させたことは、分けて考える必要があります。」
「分けている間に、人は死にます。」
空気が固くなった。
私は、研究者の言っていることも分かった。女性の言っていることも分かった。
先生は黙って聞いていた。
「国会では、どちらを言いますか。」
先生が研究者に尋ねた。
「どちら、と言いますと。」
「制度によって人が死んでいるのか。まだ分からないのか。」
「まだ分からない、が正確です。」
「では、見直す必要はない。」
「そうは言っていません。危険性を示唆する情報はありますから、検証と暫定措置は必要です。」
「その説明を、二十秒でしてください。」
研究者は黙った。
先生は責める口調ではなかった。
「委員会では、大臣が最初に長い答弁をします。こちらの再質問まで含めて二十分です。視聴者が見るのは、そのうち一分です。そこで、何を言いますか。」
「制度による影響は確定していないが、安全性の観点から検証が必要である。」
「大臣も同じことを答えます。」
「正しい答えなら、同じになります。」
先生は少し下を向いた。
「それでは、制度は変わらない。」
「断言すれば変わるんですか。」
「変わることがあります。」
「間違っていても。」
「間違っていたと分かる頃には、変わった後です。」
先生の言葉に、誰もすぐには返さなかった。
私はその時、先生が政治家なのだと思った。
研究者は、何が正しいかを考える。
当事者は、何を変えなければならないかを訴える。
政治家は、正しさと訴えを使って、現実を動かす。
動かした結果に責任を負うのだから、先生が選ぶのは当然だった。
「質問では、因果関係が確定しているとは言いません。」
先生は言った。
「ただし、死亡例が複数あり、政府が把握していなかったことを問います。暫定措置を取らない理由も聞く。」
研究者は頷いた。
患者団体の女性は、少し不満そうだった。
会議が終わった後、先生は私を呼び止めた。
「今の会議を、どう思いましたか。」
「難しいと思いました。」
「便利な言葉ですね。」
「では、両方正しいと思いました。」
「それも便利です。」
先生は笑わなかった。
「政治は、両方正しい時に、どちらかを選ぶ仕事です。」
「先生が選ぶんですか。」
「最後には。」
「専門家ではなく。」
「専門家に選ばせれば、それは政治ではありません。」
先生は机の上の資料を揃えた。
「ただし、政治家が選んだことを、専門家が言ったことにしてはいけない。」
私は、額に入った紙を思い出した。
人は、自分の言葉でしか、責任を負えない。
その時の私は、その言葉を先生の思想だと思っていた。




