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こえ  作者: 水川かずみ
先生と私
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2/16

 峰岸先生の事務所は、議員会館の十二階にあった。


 議員会館という場所は、外から見ると大きいが、中へ入ると、どの部屋も驚くほど同じだった。


 机、棚、応接用のソファ、政策資料、選挙区から届いた菓子、色紙、写真。


 どの議員の部屋にも、その人らしさを示すものが置かれている。地元の工芸品、支援者との写真、著書、家族の写真、座右の銘。


 けれど、それらを全部外せば、誰の部屋か分からなくなる。


 先生の部屋には、額に入った一枚の紙があった。


 人は、自分の言葉でしか、責任を負えない。


 そう書かれていた。


 毛筆ではない。黒い活字を、白い紙に印刷しただけだった。


「先生が書いた言葉ですか。」


 初日に私が尋ねると、事務所の小川さんは首を振った。


「昔の政策秘書の言葉です。」


「今は。」


「辞めました。」


 小川さんはそれ以上話さなかった。


 事務所には常勤が五人いた。


 小川さんは事務局長で、五十代の女性だった。選挙、後援会、日程、資金、連絡、何でも知っていた。


 政策担当は二人いた。一人は元省庁職員で、もう一人は大学院を出たばかりだった。


 広報担当が一人。


 そして私が、動画を担当した。


 最初に渡されたのは、先生が過去三年に行った国会質問の一覧だった。


 医療、年金、外国人労働者、食料安全保障、教育費、防災、電力、感染症対策。


 分野が広い。


「先生は、全部専門なんですか。」


 私が尋ねると、若い政策担当の横山さんは笑った。


「そんな人、いるわけないでしょう。」


「でも、動画では専門家議員と。」


「先生は弁護士です。行政訴訟と労働問題が専門です。」


「医療の質問も詳しかったです。」


「あれは医療チームが作っています。」


「チームがあるんですか。」


「正式なものじゃありません。研究者、医師、当事者団体、元官僚、業界関係者。質問ごとに違います。」


 私は少し驚いた。


 もちろん、一人で全部調べているとは思っていなかった。けれど動画の中では、先生が全てを知っているように見えた。


 質問席に立つのは一人だからである。


「質問原稿は、誰が書くんですか。」


「最初の案は担当者です。先生が直します。」


「どのくらい。」


「時によります。」


 横山さんは、机に積まれた資料を指した。


「あそこにあるのが次の質問です。元は七十ページあります。質問時間は二十分です。」


「七十ページを。」


「削ります。」


「誰が。」


「みんなで。」


 私は、なぜか少し安心した。


 一人の天才が全てを理解し、政府を追い詰めているわけではない。多くの人が調べ、整理し、先生が代表して質問している。


 それは当然のことだった。


 同時に、少し残念でもあった。


 私は先生に、全てを見通す人間であってほしかったのだと思う。


 その日、私は次回の委員会質問の準備会議に参加した。


 議題は、ある医療制度の見直しだった。


 先生の向かいには、医師が二人、患者団体の代表が一人、研究者が一人座っていた。画面の向こうにも、地方の病院から参加している人がいた。


 一人の医師が、制度変更によって現場が危険になると訴えた。


「このままでは、救える命が救えなくなります。」


 患者団体の女性が続けた。


「私たちは、すでに何人も亡くしています。」


 研究者が資料を見ながら言った。


「ただ、死亡数と制度変更の因果関係は、現段階では確定していません。」


 患者団体の女性が顔を上げた。


「確定するまで、何人死ねばいいんですか。」


「そういう意味ではありません。」


「では、どういう意味ですか。」


「死亡例があることと、制度が死亡を増加させたことは、分けて考える必要があります。」


「分けている間に、人は死にます。」


 空気が固くなった。


 私は、研究者の言っていることも分かった。女性の言っていることも分かった。


 先生は黙って聞いていた。


「国会では、どちらを言いますか。」


 先生が研究者に尋ねた。


「どちら、と言いますと。」


「制度によって人が死んでいるのか。まだ分からないのか。」


「まだ分からない、が正確です。」


「では、見直す必要はない。」


「そうは言っていません。危険性を示唆する情報はありますから、検証と暫定措置は必要です。」


「その説明を、二十秒でしてください。」


 研究者は黙った。


 先生は責める口調ではなかった。


「委員会では、大臣が最初に長い答弁をします。こちらの再質問まで含めて二十分です。視聴者が見るのは、そのうち一分です。そこで、何を言いますか。」


「制度による影響は確定していないが、安全性の観点から検証が必要である。」


「大臣も同じことを答えます。」


「正しい答えなら、同じになります。」


 先生は少し下を向いた。


「それでは、制度は変わらない。」


「断言すれば変わるんですか。」


「変わることがあります。」


「間違っていても。」


「間違っていたと分かる頃には、変わった後です。」


 先生の言葉に、誰もすぐには返さなかった。


 私はその時、先生が政治家なのだと思った。


 研究者は、何が正しいかを考える。


 当事者は、何を変えなければならないかを訴える。


 政治家は、正しさと訴えを使って、現実を動かす。


 動かした結果に責任を負うのだから、先生が選ぶのは当然だった。


「質問では、因果関係が確定しているとは言いません。」


 先生は言った。


「ただし、死亡例が複数あり、政府が把握していなかったことを問います。暫定措置を取らない理由も聞く。」


 研究者は頷いた。


 患者団体の女性は、少し不満そうだった。


 会議が終わった後、先生は私を呼び止めた。


「今の会議を、どう思いましたか。」


「難しいと思いました。」


「便利な言葉ですね。」


「では、両方正しいと思いました。」


「それも便利です。」


 先生は笑わなかった。


「政治は、両方正しい時に、どちらかを選ぶ仕事です。」


「先生が選ぶんですか。」


「最後には。」


「専門家ではなく。」


「専門家に選ばせれば、それは政治ではありません。」


 先生は机の上の資料を揃えた。


「ただし、政治家が選んだことを、専門家が言ったことにしてはいけない。」


 私は、額に入った紙を思い出した。


 人は、自分の言葉でしか、責任を負えない。


 その時の私は、その言葉を先生の思想だと思っていた。

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