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こえ  作者: 水川かずみ
先生と遺書
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19/48

二

 私が奈緒と初めて会ったのは、桐谷の紹介でした。


 彼女は当時、制度被害を訴える当事者団体の世話役をしていました。


 団体といっても、事務所があるわけではありませんでした。病院や役所で同じような扱いを受けた人たちが、互いの連絡先を交換し、資料を集め、時々小さな会議室を借りて話し合っているだけでした。


 桐谷は、その集まりへ何度か呼ばれていました。


 彼は政策研究者として話を聞き、制度上の問題がどこにあるのかを整理していました。


 私は最初、その仕事に関心がありませんでした。


 当事者の話は重要だが、それだけでは政策にならない。


 事実関係を確かめ、対象範囲を定め、予算を算出し、法令との整合を取らなければならない。


 そう考えていたからです。


 今も、その考え自体が間違っているとは思いません。


 ただ、私はその正しさを、自分が話を聞かない理由に使っていました。


 桐谷は私に言いました。


「一度、来てみないか。」


「私は研究者じゃない。」


「弁護士だろ。」


「訴訟の相談なら受ける。」


「訴訟にする前の話だ。」


「それなら、なおさら私の仕事ではない。」


 桐谷は少し黙りました。


「峰岸、お前は、自分の仕事になるまで人を待たせるのか。」


 私は腹を立てました。


「仕事にならないことまで引き受けたら、誰も救えない。」


「今、誰かを救っているのか。」


 彼はそう言いました。


 私は、次の会合へ同行しました。


 その部屋で奈緒が話していました。


 彼女は、感情的な人ではありませんでした。


 少なくとも、私が想像していた当事者とは違いました。


 泣きながら訴えることも、行政を罵ることもしませんでした。


 資料を配り、日付を確認し、誰が何を言ったかを順番に説明しました。


 彼女の弟は、ある公的支援の対象から外されていました。


 形式上は、必要な手続きが取られていました。


 本人にも説明がありました。


 不服申立ての方法も示されていました。


 しかし実際には、制度を理解し、異議を申し立て、期限内に必要な書類を揃えられる人間でなければ、その権利を行使できない仕組みになっていました。


 奈緒の弟には、それができませんでした。


 家族も、制度の意味を理解していませんでした。


 結果として支援は途切れ、状態は悪化しました。


 その後の経過について、私はここでは書きません。


 奈緒自身が、今も公にしていないことがあるからです。


 ただ、彼女がその会合で語った最後の言葉だけは覚えています。


「私たちは、説明を受けました。選択肢も示されました。だから、制度上は何も間違っていないそうです。」


 彼女は紙を見ずに言いました。


「でも、誰も、弟がその説明を理解できないことには責任を持ちませんでした。」


 私は、その言葉を聞いた時、初めて彼女を見ました。


 それまでは、資料を見ていました。


 制度の要件、行政の裁量、申立期間、本人同意。


 私は、どこに法的な問題があるかを探していました。


 けれど奈緒は、違法かどうかを聞いていたのではありませんでした。


 誰が引き受けるのかを聞いていました。


 会合が終わった後、私は桐谷に言いました。


「訴訟にはしにくい。」


「そうだろうな。」


「行政は必要な説明をしている。」


「そうだな。」


「本人の意思確認もある。」


「ある。」


「では、どうしろというんだ。」


 桐谷は答えませんでした。


 奈緒が資料を片付けていました。


 私は彼女に近づきました。


「先ほどの件ですが。」


「はい。」


「制度上、争う余地が全くないわけではありません。ただ、裁判で勝てるかは。」


「裁判をしたいわけではありません。」


 奈緒は言いました。


「では、何を。」


「同じことが起きないようにしたいんです。」


「制度を変えるということですか。」


「はい。」


「一件の事例だけでは、制度全体の問題とは言えません。」


「一件ではありません。」


 彼女は別の資料を出しました。


「同じような人が、少なくとも二十三人います。」


 私はその数字を見ました。


 二十三人。


 多いとも、少ないとも言えない数字でした。


「同じような、というのは。」


「説明を受けたことになっているけれど、実際には理解できていなかった人です。」


「理解できていなかったことを、どう確認しましたか。」


 奈緒は少し黙りました。


「家族の話です。」


「本人ではなく。」


「本人が話せない場合もあります。」


「では、本人が理解していた可能性もある。」


 奈緒の顔が変わりました。


 私はその変化を見て、自分が何を言ったかに気付きました。


「可能性の話です。」


「可能性があるなら、何もしなくていいんですか。」


「そうは言っていません。」


「では、何を言っているんですか。」


 私は答えられませんでした。


 桐谷が横から言いました。


「峰岸は、制度を変えるなら、反対側から崩されない根拠が必要だと言っている。」


 奈緒は桐谷を見ました。


「あなたも、同じですか。」


「同じではない。」


「では。」


「あなたの弟のことは、あなたにしか分からない。」


「はい。」


「でも、制度は、あなたの弟だけのためには作れない。」


 奈緒は桐谷を睨みました。


「そんなことは分かっています。」


「分かっているなら、二十三人を一つにまとめない方がいい。」


「まとめなければ、誰も聞かないでしょう。」


 桐谷は黙りました。


 後になって、私はこの会話を何度も思い出しました。


 奈緒は、まとめなければ届かないと言った。


 桐谷は、まとめれば失われると言った。


 私は、その二つの間に立っているつもりでした。


 実際には、届く方を選び続けました。


 失われたものを、桐谷が拾うと思っていたからです。

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