二
私が奈緒と初めて会ったのは、桐谷の紹介でした。
彼女は当時、制度被害を訴える当事者団体の世話役をしていました。
団体といっても、事務所があるわけではありませんでした。病院や役所で同じような扱いを受けた人たちが、互いの連絡先を交換し、資料を集め、時々小さな会議室を借りて話し合っているだけでした。
桐谷は、その集まりへ何度か呼ばれていました。
彼は政策研究者として話を聞き、制度上の問題がどこにあるのかを整理していました。
私は最初、その仕事に関心がありませんでした。
当事者の話は重要だが、それだけでは政策にならない。
事実関係を確かめ、対象範囲を定め、予算を算出し、法令との整合を取らなければならない。
そう考えていたからです。
今も、その考え自体が間違っているとは思いません。
ただ、私はその正しさを、自分が話を聞かない理由に使っていました。
桐谷は私に言いました。
「一度、来てみないか。」
「私は研究者じゃない。」
「弁護士だろ。」
「訴訟の相談なら受ける。」
「訴訟にする前の話だ。」
「それなら、なおさら私の仕事ではない。」
桐谷は少し黙りました。
「峰岸、お前は、自分の仕事になるまで人を待たせるのか。」
私は腹を立てました。
「仕事にならないことまで引き受けたら、誰も救えない。」
「今、誰かを救っているのか。」
彼はそう言いました。
私は、次の会合へ同行しました。
その部屋で奈緒が話していました。
彼女は、感情的な人ではありませんでした。
少なくとも、私が想像していた当事者とは違いました。
泣きながら訴えることも、行政を罵ることもしませんでした。
資料を配り、日付を確認し、誰が何を言ったかを順番に説明しました。
彼女の弟は、ある公的支援の対象から外されていました。
形式上は、必要な手続きが取られていました。
本人にも説明がありました。
不服申立ての方法も示されていました。
しかし実際には、制度を理解し、異議を申し立て、期限内に必要な書類を揃えられる人間でなければ、その権利を行使できない仕組みになっていました。
奈緒の弟には、それができませんでした。
家族も、制度の意味を理解していませんでした。
結果として支援は途切れ、状態は悪化しました。
その後の経過について、私はここでは書きません。
奈緒自身が、今も公にしていないことがあるからです。
ただ、彼女がその会合で語った最後の言葉だけは覚えています。
「私たちは、説明を受けました。選択肢も示されました。だから、制度上は何も間違っていないそうです。」
彼女は紙を見ずに言いました。
「でも、誰も、弟がその説明を理解できないことには責任を持ちませんでした。」
私は、その言葉を聞いた時、初めて彼女を見ました。
それまでは、資料を見ていました。
制度の要件、行政の裁量、申立期間、本人同意。
私は、どこに法的な問題があるかを探していました。
けれど奈緒は、違法かどうかを聞いていたのではありませんでした。
誰が引き受けるのかを聞いていました。
会合が終わった後、私は桐谷に言いました。
「訴訟にはしにくい。」
「そうだろうな。」
「行政は必要な説明をしている。」
「そうだな。」
「本人の意思確認もある。」
「ある。」
「では、どうしろというんだ。」
桐谷は答えませんでした。
奈緒が資料を片付けていました。
私は彼女に近づきました。
「先ほどの件ですが。」
「はい。」
「制度上、争う余地が全くないわけではありません。ただ、裁判で勝てるかは。」
「裁判をしたいわけではありません。」
奈緒は言いました。
「では、何を。」
「同じことが起きないようにしたいんです。」
「制度を変えるということですか。」
「はい。」
「一件の事例だけでは、制度全体の問題とは言えません。」
「一件ではありません。」
彼女は別の資料を出しました。
「同じような人が、少なくとも二十三人います。」
私はその数字を見ました。
二十三人。
多いとも、少ないとも言えない数字でした。
「同じような、というのは。」
「説明を受けたことになっているけれど、実際には理解できていなかった人です。」
「理解できていなかったことを、どう確認しましたか。」
奈緒は少し黙りました。
「家族の話です。」
「本人ではなく。」
「本人が話せない場合もあります。」
「では、本人が理解していた可能性もある。」
奈緒の顔が変わりました。
私はその変化を見て、自分が何を言ったかに気付きました。
「可能性の話です。」
「可能性があるなら、何もしなくていいんですか。」
「そうは言っていません。」
「では、何を言っているんですか。」
私は答えられませんでした。
桐谷が横から言いました。
「峰岸は、制度を変えるなら、反対側から崩されない根拠が必要だと言っている。」
奈緒は桐谷を見ました。
「あなたも、同じですか。」
「同じではない。」
「では。」
「あなたの弟のことは、あなたにしか分からない。」
「はい。」
「でも、制度は、あなたの弟だけのためには作れない。」
奈緒は桐谷を睨みました。
「そんなことは分かっています。」
「分かっているなら、二十三人を一つにまとめない方がいい。」
「まとめなければ、誰も聞かないでしょう。」
桐谷は黙りました。
後になって、私はこの会話を何度も思い出しました。
奈緒は、まとめなければ届かないと言った。
桐谷は、まとめれば失われると言った。
私は、その二つの間に立っているつもりでした。
実際には、届く方を選び続けました。
失われたものを、桐谷が拾うと思っていたからです。




