十
先生が初めて私に桐谷の墓を見せたのは、選挙から三か月後だった。
その日は、先生から朝早く連絡があった。
一緒に来ますか。
それだけだった。
待ち合わせは、都内の小さな駅だった。
先生は一人で立っていた。秘書も、警護もいなかった。灰色のコートを着て、花を持っていた。
「動画は撮りません。」
先生は、私を見るなり言った。
「持っていません。」
私は鞄を開いて見せた。
「端末は。」
「あります。」
「置いていけとは言いません。」
先生は歩き始めた。
墓地までは十五分ほどだった。
先生はほとんど話さなかった。
途中、小さな商店で線香を買った。
墓は、墓地の奥にあった。
桐谷家之墓。
それだけだった。
先生は花を供え、線香に火をつけた。
私は少し離れて立った。
先生は手を合わせなかった。
墓石の前にしゃがみ、しばらく何かを見ていた。
「何をしているんですか。」
私が尋ねると、先生は墓石を指した。
「名前を見ています。」
「毎月。」
「毎月。」
「忘れないために。」
「いいえ。」
先生は立ち上がった。
「忘れていないことを、確認するためです。」
「同じでは。」
「違います。」
先生は花の向きを直した。
「忘れないようにするのは、忘れかけている人です。私は、忘れられない。」
「では、確認する必要はないのでは。」
「忘れられないと思っている自分を、信用していません。」
先生は墓石を見たまま言った。
「人は、覚えていることも作り変えます。」
「桐谷さんは、どんな人だったんですか。」
「正しい人でした。」
「以前も、そう言いました。」
「では、間違っている人でした。」
「どちらですか。」
「両方です。」
先生は歩き出した。
「学問的に誠実でした。分からないことを、分からないと言えた。証拠が足りなければ、当事者の前でも断言しなかった。」
「それは正しいのでは。」
「政治では、人を見捨てることがあります。」
「慎重だから。」
「慎重さによって、何もしないことを選ぶからです。」
「先生は、逆だった。」
「私は、動かすために断言した。」
「それで人を救った。」
先生は足を止めた。
「そう思いますか。」
「実際、制度は変わったんでしょう。」
「変わりました。」
「救われた人も。」
「います。」
「では。」
「死んだ人もいます。」
私は何も言えなかった。
風が吹き、線香の煙が横へ流れた。
「桐谷さんが。」
「それだけではありません。」
先生は墓地の出口を見た。
「水野さん。あなたは、私が桐谷を殺したと言ったら、信じますか。」
私は先生の顔を見た。
先生は冗談を言っているようには見えなかった。
「直接ですか。」
「直接なら、簡単でした。」
「どういう意味です。」
「裁かれるからです。」
「先生。」
「私は、桐谷を殺してはいません。」
先生は言った。
「少なくとも、法律では。」
その後、先生は何も話さなかった。
駅まで戻り、改札の前で別れた。
「今日のことを、動画にしますか。」
先生が尋ねた。
「しません。」
「なぜ。」
「約束したからです。」
「それだけですか。」
「先生の個人的なことだから。」
「政治家の個人的なことは、政治と無関係ですか。」
「分かりません。」
先生は少し笑った。
「それでいいです。」
改札を通る前に、先生は振り返った。
「近いうちに、あなたへ話します。」
「桐谷さんのことを。」
「私のことをです。」
先生は、以前と同じ言葉を言った。
私は今度こそ、いつですかと尋ねようとした。
けれど先生は、もう人の流れの中へ入っていた。
灰色のコートは、すぐに見えなくなった。




