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こえ  作者: 水川かずみ
先生と私
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10/16

 先生が初めて私に桐谷の墓を見せたのは、選挙から三か月後だった。


 その日は、先生から朝早く連絡があった。


 一緒に来ますか。


 それだけだった。


 待ち合わせは、都内の小さな駅だった。


 先生は一人で立っていた。秘書も、警護もいなかった。灰色のコートを着て、花を持っていた。


「動画は撮りません。」


 先生は、私を見るなり言った。


「持っていません。」


 私は鞄を開いて見せた。


「端末は。」


「あります。」


「置いていけとは言いません。」


 先生は歩き始めた。


 墓地までは十五分ほどだった。


 先生はほとんど話さなかった。


 途中、小さな商店で線香を買った。


 墓は、墓地の奥にあった。


 桐谷家之墓。


 それだけだった。


 先生は花を供え、線香に火をつけた。


 私は少し離れて立った。


 先生は手を合わせなかった。


 墓石の前にしゃがみ、しばらく何かを見ていた。


「何をしているんですか。」


 私が尋ねると、先生は墓石を指した。


「名前を見ています。」


「毎月。」


「毎月。」


「忘れないために。」


「いいえ。」


 先生は立ち上がった。


「忘れていないことを、確認するためです。」


「同じでは。」


「違います。」


 先生は花の向きを直した。


「忘れないようにするのは、忘れかけている人です。私は、忘れられない。」


「では、確認する必要はないのでは。」


「忘れられないと思っている自分を、信用していません。」


 先生は墓石を見たまま言った。


「人は、覚えていることも作り変えます。」


「桐谷さんは、どんな人だったんですか。」


「正しい人でした。」


「以前も、そう言いました。」


「では、間違っている人でした。」


「どちらですか。」


「両方です。」


 先生は歩き出した。


「学問的に誠実でした。分からないことを、分からないと言えた。証拠が足りなければ、当事者の前でも断言しなかった。」


「それは正しいのでは。」


「政治では、人を見捨てることがあります。」


「慎重だから。」


「慎重さによって、何もしないことを選ぶからです。」


「先生は、逆だった。」


「私は、動かすために断言した。」


「それで人を救った。」


 先生は足を止めた。


「そう思いますか。」


「実際、制度は変わったんでしょう。」


「変わりました。」


「救われた人も。」


「います。」


「では。」


「死んだ人もいます。」


 私は何も言えなかった。


 風が吹き、線香の煙が横へ流れた。


「桐谷さんが。」


「それだけではありません。」


 先生は墓地の出口を見た。


「水野さん。あなたは、私が桐谷を殺したと言ったら、信じますか。」


 私は先生の顔を見た。


 先生は冗談を言っているようには見えなかった。


「直接ですか。」


「直接なら、簡単でした。」


「どういう意味です。」


「裁かれるからです。」


「先生。」


「私は、桐谷を殺してはいません。」


 先生は言った。


「少なくとも、法律では。」


 その後、先生は何も話さなかった。


 駅まで戻り、改札の前で別れた。


「今日のことを、動画にしますか。」


 先生が尋ねた。


「しません。」


「なぜ。」


「約束したからです。」


「それだけですか。」


「先生の個人的なことだから。」


「政治家の個人的なことは、政治と無関係ですか。」


「分かりません。」


 先生は少し笑った。


「それでいいです。」


 改札を通る前に、先生は振り返った。


「近いうちに、あなたへ話します。」


「桐谷さんのことを。」


「私のことをです。」


 先生は、以前と同じ言葉を言った。


 私は今度こそ、いつですかと尋ねようとした。


 けれど先生は、もう人の流れの中へ入っていた。


 灰色のコートは、すぐに見えなくなった。

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