2 シャボンの女神と栄枯盛衰
切り株空間の先にも小道は続いていた。
舗装されていないだけのちゃんと整備された小道。
けもの道を踏み固めて改良したというレベルではなかった。
ほのかに蛇行しながら、ほぼ真っすぐに続く道。
張り出した木の根っこや岩どころか、小石一つ見当たらない。
小道の脇に並ぶ立木は、並木道というほど整然とは並んでいないが、張り出した枝葉は天然のアーチを形成するばかりで、進路を妨害する枝葉は一つもない。
けれど、あまり人工的な感じはしなかった。
人の手で整えられたというよりは、森の木々たちが気を利かせて作ってくれた天然の小道感があるのだ。
不自然な自然の違和感に気づいていないわけではなかったけれど、便利さと快適さに勝るものはなく、美羽は薄っすら浮かんだ疑問をメルヘンだからの一言で片づけて、メルヘンの恩恵に与る。
切り株空間の次に現れたのは、小川だった。
小道と交差するように流れている小川。
空を墜ちていた時に見た大きな河川ではなく、助走をつければ飛び越えられそうな、ささやかな流れだ。
さらさらと音を立てて流れていく本物の水の上には、木の板で橋が渡されていた。
ここでも、何かイベントがあるようだった。
橋を渡った向こう岸、小道からは外れた小川の辺に一匹のワニが横たわっていた。
黄色いワニだ。艶っと光沢のある布で作られたぬいぐるみのワニが小川に沿うようにして横たわっている。
目の中に飛び込んでくるような、それはもう鮮やかな黄色だったが、色よりも気になることがあった。
「…………あれは、何をしているの?」
「獲物を捕まえようとしているのよ」
「獲物……」
「その内、姿を見せるはずよ」
「あ、そう……」
ワニは口にロープを咥えていた。三メートルほど先のロープの反対側には、木の棒が結び付けられている。木の棒は、大きなカゴのつっかえ棒だった。カゴの下には、バナナが置かれている。典型的な罠だ。ちなみにバナナは本物のようだった。少なくとも、美羽の目にはそう見えた。
橋の周辺は、草むらになっていた。ワニは草むらの上で寝そべっているし、罠も草むらの上にあった。草むらというか、ほぼ芝生だ。その向こうには、また木立と茂みが続いているのだが、芝生の上は大変見通しがいい上に、淡い緑の上に横たわる鮮やかすぎる黄色のワニボディはとてもよく目立った。
本当にこれに引っかかる獲物がいるのだろうかとはなはだ疑問だったが、絵本のストーリの展開上、必ず何某かの動物が現れるのだろう。
美羽は、橋の手前で足を止めた。
どんな動物……というか人形が現れるのか、気になったからだ。
足を止めるのと同時に、ガサリと茂みを掻き分ける音がした。
ワニ側ではなく、カゴ側の茂みからひょこっと顔をのぞかせたのは、白いサルのぬいぐるみだった。ボワボワした柔らかそうな素材で作られた白いサルは、なかなか愛嬌のある顔をしている。顔の部分は赤みのある肌色のフェルトで、目は黒いガラス玉、口は刺繍だった。
サルはワニに目を向けることなく茂みから抜け出し、軽い足取りでバナナに近づいて行く。
美羽は固唾を飲んで行く末を見守った。
バナナしか目に入っていなさそうなサルに危険を知らせなかったのは、自然の摂理を邪魔してはならないという考えからではなく、ただ単に惨劇よりも茶番の予感しかしなかったからだ。
そして、案の定だった。
サルは、カゴの下に頭を突っ込んでバナナを掴むと、その場を離れることなく皮を剥いて食べ始めた。刺繍で描かれた口が動いているようには見えないのに、バナナはもしゃもしゃという音と共に齧られたかのように消えていく。その間、ワニはロープを咥えたまま微動だにしない。バナナは順調にサルの口の中に消えていき、残りあと半分だ。けれど、やはりワニは動かない。
(もしかして、あのワニ、寝ているんじゃない?)
美羽がそう思い始めたところで、ようやくワニは顎を引いた。
ロープが引っ張られ、木のつっかえ棒が外れる。カゴがサルの頭にパサリと被さった。サルは気にした様子もなく、後ろ頭にカゴを引っかけたままバナナを食べている。食べ終わるとひょいとカゴを持ち上げて、頭から取り外した。そして、さっきまでバナナが置いてあった場所に食べ終わった皮を置くと、カゴと木の棒を使って罠をセットし直す。
サルはそのまま、何事もなかったかのように、茂みの奥へと消えていった。
ワニは、本物のぬいぐるみになったかのように動かない。
「さ。行くわよ」
「え? ええ?…………う、うん」
美羽はアリンとワニと罠(?)を、何度も交互に見比べた後、諦めた顔で頷いて、再び歩き始めた。
「……元の絵本でも、こういう結末なの?」
「確か、そのはずよ」
「えっと、結局、あれは一体、何がしたかったの?」
「あのワニは、もうおじいちゃんなのよ」
「あ、ああー……」
それで、あんなに動きも反応も鈍かったのか……と美羽は頷いた。
とはいえ、それで疑問の根本が解消したわけではない。
美羽は重ねて尋ねた。
「アリンとの絡みはなかったけど、これ、何のためのイベントなの?」
「栄枯盛衰ってことよ」
「えいこ……? 聖水?」
「あのワニは、昔は小川の覇者として名を馳せていたそうよ」
「小川の覇者……」
「そう。でも年老いて、今はあの有様」
「あー! えいこせーすいって、栄子せーすいのことか! 今バズってる子もいずれ衰退するときが来る的なことだよね? 聞いたことある!」
「…………まあ、そういうことよ」
美羽は実にスッキリした顔で、成績のほどが知れる発言をした。
なんだか賢くなった気がして、そもそもバナナは誰がどうやって用意したのかとか、若い頃もあの戦法で無双していたのか、とか、モヤモヤしていた疑問は形になる前に霧散していった。
美羽は弾む足取りで橋を渡り、ぬいぐるみの脇を通り過ぎる。
――――すると、見計らったかのように、シャボン玉がいくつか飛んで来た。
美羽は足を止め、パチ……と瞬いた。
風に乗ってふよふよと飛んでくる、テニスボールくらいの大きさのシャボン玉。
シャボン玉の中には、ここではないどこか別の物語の風景が映し出されていた。
ロボットたちが跋扈する機械の世界。
人魚たちが踊るように泳いでいる海の世界。
ピラミッドを建造している最中の砂漠世界。
絨毯が飛び交うアラビアンな世界。
蜃気楼のような世界が、シャボン玉の中に閉じ込められているようでもあった。
美羽の元へ辿り着く前に、シャボン玉は、パチンと弾けて消えていった。
弾けても弾けても、シャボン玉は次から次へと飛んできた。
壊れては生まれる世界たち。
美羽は再び歩みを進め、シャボン玉を辿っていく。
シャボン玉の発生源は、小道を少し進んだ先、小道の脇の大きな木の根元で半分地面に埋もれている木箱のようだった。木の根を枕にして、下半分が土に埋もれた木箱。
美羽は心持、足を速めた。
木箱をベッドにして眠っている人形の姿が見えたからだ。
シャボン玉は、人形の顔、鼻先あたりから生まれていた。
(は、鼻ちょうちんってこと……?)
美羽は小走りで木箱に近づいた。
木箱の中には藁が敷き詰められていて、人形はその上で眠っている。下半身は木箱ごと地面に埋もれていた。土を掛布団にしているようでもあった。
もちっとした低反発素材で作られた銀色の人形だった。
頭にはタンポポみたいな花がいっぱいに咲いている。髪の毛の代わりなのか、帽子の代わりなのかは不明だ。
顔は、黒マジックらしきもので描かれていた。
少女漫画風の寝顔だ。
二重瞼で、睫毛はバサバサ。
肌色のせいで宇宙人チックではあるが、それなりに整った顔立ちをしている。女の子というよりは、大人の女性のようだった。
その大人の女性の形よく描かれた鼻先からシャボン玉が音もなく生み出されていく。
これは一体……と美羽が尋ねる前にアリンが人形の名前を教えてくれた。
「シャボンの女神よ」
「…………め、女神様なんだ。てゆーか、なんで木箱のベッドで寝てるの?」
「飛び立てなかった箱舟を象徴しているのよ」
「飛び立つ……? ああ! 滅びゆく星から宇宙ステーションとか他の惑星に逃げるための宇宙船ってことか! だから宇宙人っぽいんだ! なんでそれが木箱になったのかは意味不明だけど……」
「救世に失敗した女神は、泡沫の世界を生み出す苗床となったのよ」
「な、苗床って……。あ、だから、半分地面に埋まってるの?」
「そうかもしれないわね。ちなみに、シャボンの女神は、元々の絵本には登場してこないのよ」
「へえ……。そうなんだ」
「ええ。そうなのよ」
相手が女神様だからか、心なしか厳かな声音で語り終えたアリンは、最後に意味深に囁いた。
囁きは美羽の耳に届いたけれど、美羽に痕跡を残すことなくスルリと流れ去っていった。




