4 魔女の招待状
影の正体は、よく分からなかった。
枝葉の隙間からチラリと一瞬姿を覗かせただけで、すぐに木立の向こうに紛れてしまったからだ。美羽が視線を投げたちょうどのタイミングで、枝葉の隙間を結んで出来た視界の通り道に姿を現し、重なるように連なる木立の向こうに紛れて消えていったのだ。
それは、美羽と大して変わらないくらいの身長のナニカだった。
動きはゆっくりだったけれど、光の加減で、影のようにしか見えなかった。
ただ、良くないものだということだけは、美羽にも分った。
もしかしたら、魔女が森に放った刺客なのかもしれない。
挑戦者を邪魔し、狩るために放たれた刺客。
美羽は、改めて噂を思い出した。
美羽の中学で、女子の間にだけ流行っている噂。
洋館の魔女と、魔女が仕掛けるゲームの噂。
魔女に選ばれた女の子だけが、ゲームに参加できる。
勝てば、なんでも一つだけ願いをかなえてもらえるけれど。
負けたら、魔女に心を奪われて人形にされてしまう。
魔女の洋館には、美羽の中学の制服――エンジのブレザーを着た女の子の人形ばかりが飾れた部屋があるのだという。
そう言えば、影のようなナニカは「ハートヲチョウダイ」と言っていた。
それは、つまり…………そういうことなのだろう。
アレに捕まったら、心を奪われ、人形にされてしまうのだ。
人形にされることよりも、アレに見つかって追いかけまわされることの方が、今は恐ろしかった。
正体の分からない不気味なナニカが獲物を求めて森を徘徊しているというだけで、足が竦む。
人形云々への恐怖は、あまり感じていなかった。
とぼけた笑顔の姫人形が目の前にいるせいだろうか。
恐怖心が薄れ、緊張感が削がれるのだ。
のほほんとした笑顔に心を和ませていると、人形姫はツイっと片手を上げて、アレのことを教えてくれた。
「聞いていると思うけど、あれが異形よ」
「…………え? い、いぎょう」
美羽は、パチと瞬いた。
初めて聞く単語だった。
「そう。異形。お外の魔女が持ち込んだもので、わたしたちとは異なる存在よ」
「ああ、異形…………」
「捕まったらハートを奪われちゃうから、気を付けるのよ」
「う、うん」
やはり、見つかって捕まったら、ハートを……心を奪われて人形にされてしまうようだ。
美羽は神妙な顔で頷いた。
「森の中を何体か彷徨っているけれど、気を付けていれば見つかることはないわ。あいつら、ポンコツ狩人だから。声が聞こえたら物陰に隠れれば、余裕でやり過ごせるわ」
「わ、分かった。気を付ける」
姫は、上げた片手をフリフリしながら注意事項を教えてくれた。
美羽はコクコクと頷いた。
大変にありがたい忠告だった。
何体も彷徨っているというのはゾッとするが、あまり優秀な刺客ではないと聞いて胸を撫でおろした。
幸いにも、森の中には隠れる場所がいくらでもある。
「それに、これも聞いているとは思うけれど、運悪くばったり鉢合わせしてしまっても、ハートのカードがあれば、なんとかなるわ」
「ハートのカード?」
「そうよ。ハートのカード……ちょっと、何初めて聞いたみたいな顔をしているのよ? ははあ、さてはあなた。お外の魔女の話をちゃんと聞いていなかったのね? 偶にいるのよね。気ばかり逸って、ゲームのルールをちゃんと聞かずに、右の耳から左の耳へと素通りさせちゃう子」
「う…………うん」
フリフリしていた手をピシッと突き付けられ、美羽は視線を彷徨わせた後、曖昧に頷いた。
美羽が魔女の話を聞いていないという指摘に間違いはない。けれど、それはアリン姫が言うような理由ではない。
少し後ろめたかったが、美羽は姫の勘違いに乗っかることにした。
そうすれば、怪しまれることなくルールの内容を聞けるのだ。
美羽が強請るまでもなく、姫は「仕方がないわねぇ」と言いつつも、満更でもなさそうに話し始めた。頼られるのが好きなタイプなのだろう。
「もーう、仕方がないわね。とはいえ、わたしも挑戦者たちから聞きかじっているだけだから、足りないところがあるかもしれないのだけれど。それでもいいなら、話してあげるわ! よーく聞きなさいな!」
「はい。お願いします」
姫は尊大に胸を張った。偉そうな態度だが、とぼけた笑顔のままなので、あまり腹は立たない。後ろめたいところがある美羽は、しおらしく頭を下げた。
「いいこと? 魔女から招待状をもらったでしょう? それが、ハートのカードよ!」
「しょ、招待状が、ハートのカードなんだ……」
「そうよ! 失くさないように、大事に持っておきなさい!」
「…………失くしたら、どうなるの?」
「詰むんじゃないかしら?」
「え?」
詰む……とは、カードを失くしたらゲームオーバーという意味だろうと理解して、美羽は顔を青ざめさせた。
失くすも何も、美羽は最初から招待状なんて持っていない。
美羽は魔女に招待された挑戦者ではないからだ。
美羽を絵本の森へ誘ったのは…………。
「ハートのカードに想いの力を込めて、お城に囚われている王子の元へ届けるの。その想いが本物なら、王子を開放することが出来るのよ。出来なかったら、あなたの負けね」
「……………………」
美羽は血の気を失くした顔で押し黙った。
テーブルのへしを両手で掴み、椅子から落ちそうになるのを堪える。
だって。だとしたら。
招待状を持っていない美羽は、完全に《詰んだ》ことになる。
世界が真っ白に染まって、遠ざかっていく感覚に襲われる。
けれど…………。
「あ、そうそう、それと。ハートの力が強ければ、異形を追い払うこともできるわよ。つまり、森を進むにしろ、肝心の王子を助け出すにしろ、すべてはあなたの想いの力次第ってことよ!」
「…………………!」
ついでのように付け足された姫の言葉によって、遠くなった世界が戻ってきた。
美羽の瞳に、炎が灯る。
(想いの力なら、誰にも負けない。カードがなくたって、想いの力だけで、なんとかしてみせる! 魔女からの招待状なんて、あたしには必要ない。そんなものなくたって、あたしが絶対に彼を助けてみせる! 後藤加奈じゃなくて、あたしが! 彼への想いは、それだけは誰にも負けないもん!)
想いは熱を生み、力となって、美羽の全身を駆け巡った。
後藤加奈の顔を思い浮かべたことで、炎はより一層激しく燃え上がった。
後藤加奈。
アイドルのような派手な顔立ちの美少女。
それを鼻にかけた嫌な女。
魔女に選ばれた本当の挑戦者。
彼女よりも先にゲームに参加できたことは、そしてアリン姫と出会えたことは僥倖だった。
出遅れていたら、アリン姫は後藤加奈の同行者となっていたはずだ。
そして、そうなっていたら。
美羽は異形のことなんて何も知らないまま、森を彷徨っていたはずだ。隠れるよりも逃げようとして、あっさり見つかって、早々にゲームオーバーになっていたかもしれない。
何も持たず、知らない美羽がゲームに勝つためには、姫の協力が必要だ。
けれど、自分が|招待されていない挑戦者であることを姫に伝えるつもりはなかった。本当のことを打ち明けて、招待状をもたない美羽ではなく、正式な招待客である後藤加奈が選ばれてしまうことを恐れた。
美羽はアリン姫を両手で掴んで席を立った。
後藤加奈を出し抜くためには、早々に姫を連れてここから立ち去るべきだからだ。
「さあ! 早く行こう! 歩きながらでも、話は出来るしね!」
「この中に嘘つきがいる!」
「ひっ!?」
美羽は取り乱して、危うく姫を放り投げそうになった。
嘘つきを指摘されたから、ではない。
急に叫ばれてびっくりはしたけれど、初めてでもないし、姫を騙してでも目的を果たすと覚悟を決めた美羽にとって、取り乱すほどのことではない。
声に釣られてテディベアに視線を向けた時に、視界の端に見えてしまったのだ。
呪いとしか思えない日本人形が――――。
話に夢中だったせいか、それまで全く気付かなかったが、日本人形小夜子の髪の毛はテーブルに到達していただけでなく、その上を這い、地面にまで流れ落ちていたのだ。
黒髪の滝は、小夜子の背後に向かって、今もまだ流れている。
テーブルの中央には進出してこなかったのも、これまで気づかなかった要因だろう。
美羽はアリン姫をギュッと抱きしめると、お茶会スペースを取り囲む木立へと向かって走った。
テーブルの左手、アリン姫が元居た方角だ。小夜子と逆方向でもある。
出入りしやすいところを探す余裕もなく、とにかくこの場から逃れたい一心で森の中へ突入する。モタモタしていたら、地面を這う髪の毛に足を掴まれてしまいそうだった。
そのまま這い上がってきて髪の毛に食べられたみたいになるのも、何処だか分からない何処かへ引きずり込まれてしまうのも嫌だった。
「あらあら。小夜子ったら、いつものこととはいえ、仕方がない子ねぇ。心配しなくても大丈夫よ。物語が終われば全部リセットされるから、禿げる心配はないのよ」
「……………………」
胸に抱きしめた人形が、のほほーんといらぬ気づかいをしてくれた。
そういうことじゃない!――――という心の叫びが声になることはなかった。




