2 人形姫の箱舟
目が覚めたようでいて、まだどこか夢うつつだった美羽は。
ここが絵本の中の世界だと自覚した途端、一気に覚醒した。
おぼろげな意識のカーテンが開いて、カーテンの向こうに隠れていた現実が、目の前に戻ってくる。
魔女が住んでいると噂の洋館。
誰もいないテラス。
テーブルの上に開いたまま置き去りにされていた絵本。
魔女が仕掛けたゲームの舞台。
この絵本の世界のどこかに、美羽が求めるものが隠されている。
魔女に奪われてしまった、彼の心が。
絶対に取り戻すのだ。
他の誰でもない、美羽が。
「この中に嘘つきがいる!」
「きゃっ!」
回想に耽り、一人決意を固めていた美羽は再び響いたしわがれ声に驚いて、またしても飛び上がった。それでも、二度目とあってか、今度は椅子からずり落ちかけたりせずにすんだ。
美羽は恐々と声の主であるテディベアを見つめる。
ドキドキしているのは、不意打ちのせいばかりではなかった。
慄く美羽を見かねたのか、人形のお姫様――アリン姫が教えてくれた。
「ああ、気にしなくていいわよ。くまぞうは、それしかセリフがないのよ」
「あ、そうなん……だ?」
「ええ。ちなみに、小夜子は髪がどんどん伸びていくだけで、一つもセリフがないわ」
「え?…………ひっ!?」
美羽に向けられた糾弾ではなく、絵本の中のセリフと聞いて美羽は胸を撫でおろしたが、続いた追加情報に驚愕だけでなく、恐怖も混じった悲鳴と共に仰け反った。
言葉に釣られてツイッと視線を右に流した先で、オカルトの現場を目撃してしまったからだ。
最初に見た時は肩口までだった日本人形の艶やかな黒髪は、人形の腰の下あたりまで伸びていた。
「あらあら? 今度の挑戦者さんは、随分と怖がりさんなのね? そんなことで、大丈夫なのかしら?」
「…………う、こ、これは、ちょっと、びっくり、しただけ、で……。いや、日本人形の髪の毛が一気にあんなに伸びたら、普通、びっくりするでしょ!? ホラーの定番じゃん!」
無秩序に跳ねる心臓を宥めていたら、呆れたようなアリン姫の声が聞こえてきた。刺繍で描かれた顔は動かすことが出来ないのか、のほほんとした笑顔のままだ。それが、なんだかちょっぴり煽られているようで、たどたどしかった美羽の言い訳は、途中から歯切れがよくなった。
とはいえ、日本人形の方を見るのは、やっぱり怖いので、美羽はアリン姫のいる左側へ向けて上半身を捻る。
アリン姫は、美羽の反論には全く意を返さず、マイペースに話を続けた。
最初は顔だけを美羽に向けていたアリン姫も、今は体全身で美羽と向かい合っていた。
「まあ、でも。安心しなさいな! お城までは、このわたしがバッチリ案内してあげるから、 箱舟に乗ったつもりでいなさいな!」
「え? お城へ案内? いや、それよりも、箱舟? 泥船じゃなくて?」
「あらあらあら? 何を言っているのかしら? 泥船になんて乗ったら服が汚れてしまうし、それに、水に溶けて沈んでしまうじゃないの」
「う! それは、そう……だけど、そうじゃなくて! 大船! 大船って言いたかったの!」
「あら? 世界を救うのは、箱舟って相場が決まっているのでしょう?」
「へ? それって、ノアの……? 聖書に出てくるヤツ? う、うーん。いや、まあ、そう言われれば、そうかもだけど……」
「ほら、見なさい!」
アリン姫は、「ふっふーん♪」と胸を張った。
ほんわかした見た目の割に、少々癖のある性格をしているようだ。お姫様というよりは親戚のおばさんのようでもある。
美羽は、すっかりとペースに乗せられていた。
「ところで、あなたはこの絵本の物語を知っているのかしら?」
「え? ううん。たぶん、読んだことないと思う、けど。なんていう絵本なの?」
「絵本の題名のことかしら?」
「うん」
「知らないわ!」
「え? 知らないの?」
お姫様と綿のはみ出たテディベアと日本人形が出てくる絵本に心当たりはなかったけれど、タイトルくらいは聞いたことがあるだろうかと尋ね返してみると、実にあっさりとした答えがスパッと返ってきた。
美羽は、パチと瞬いて、首を傾げる。
ついさっき、この人形は、「自分はこの物語の主人公だ」と言っていなかっただろうか?
主人公なのに、タイトルを知らないなんてことがあるのだろうか、と美羽は思ったのだ。
けれど、アリン姫は「そんなの、当然でしょ?」とばかりに語り出した。
「あら? 自分が登場する絵本の題名なんて、知っているわけがないじゃない? 自分で読むわけでもないのに」
「う。それは、そうだけど」
「それに、ほら? 例えばよ? あなただって、もしも自分が何かの物語の登場人物だったとして、その物語の題名を知っているの?」
「へ? いや、知らない…………っていうか、ちょっと何言ってるのか分かんないけど。まあ、いいや。とにかく、知らないんだってことは分かったよ」
人形の理屈はサッパリ理解できなかったけれど、美羽はあっさりと引き下がった。追及したとこで不毛なことになりそうだし、他にもっと聞きたいことが出来てしまったからだ。
絵本のタイトルを尋ねたのは、話の流れ的にそうしただけで、そこまで興味があったわけではなかった。
けれど、今は――――。
アリン姫が何か知っているのならば、少しでもいいから、なんでもいいから教えてほしかった。
だって、美羽はこの世界のことを何も知らないのだ。
ここは、魔女が仕掛けたゲームの舞台で、美羽はそのゲームの挑戦者だ。
けれど、美羽はゲームの内容もゲームのルールも、何一つ知らなかった。
だから、せめて舞台に選ばれた絵本の内容くらいは、知っておきたいと思ったのだ。
またアリン姫のペースに乗せられない内に、と美羽は早速尋ねた。
「それで、どういう物語なの? 題名は知らなくても、物語の内容は、さすがに分かるんだよね?」
「もっちろんよーう!」
アリン姫は、その場でクルクルと回りながら意気揚々と答えた。
この感じだと、労せず情報をもらえそうだ。
策を弄するのは得意ではないので、素直にありがたかった。
ほっとするあまり、美羽はつい余計なことを言ってしまった。
「よかったー。知らないから教えてくれとか言われたら、どうしようかと思った」
「そーんなわけないでしょー! もう何度も繰り返してきた物語だもの!」
「ご、ごめん」
アリン姫は、ムキーッと腕を振り上げ、ツツーッと滑り寄って来た。
声は怒っているのだけれど、顔はとぼけた笑顔のままなので、まったく怖くないけれど、美羽は慌てて謝罪を口にし、しおらしく頭を下げた。
「まったくぅ! でも、いいわ。教えてあげる」
「ホント? ありがとう!」
それが功を奏したのか、元よりそんなに本気で怒っていたわけではないのか、アリン姫はすぐに機嫌を直してくれた。
美羽はパッと笑顔を浮かべ、すかさずお礼を述べる。
アリン姫は、クルっとその場で一回転した後、サッと両腕を頭上に掲げた。
「ふっふふーん♪ それじゃあ、聞かせてあげるわね!」
「はい! お願いします!」
どうやら、尋ねるまでもなく、話したくてうずうずしていたようだ。
なんだ……と思ったけれど、今度は美羽もそれを上手に押し隠し、従順で熱心な生徒を装った。
「わたしが主人公のこの物語は! 誰からも好かれる心清らかで優しいお姫様であるわたしが、悪い魔女に捉われた挙句、心を奪われて空っぽな人形にされちゃった美しい王子を愛の力で助ける、とてもハートフルな物語よ!」
「その話、詳しく!」
美羽は両手でガシリとお姫様の体を掴み、激しく食いついた。
ゲーム攻略の参考にするための質問で、アリン姫の物語そのものは割とどうでもよかったのだけれど、俄然興味がわいてきた。
ついでに、姫への親近感が――ほんわかととぼけた愛嬌のある顔立ちをしているけれど、さして美しくはない姫への親近感が、ガツンと跳ね上がった。




