1 墜落少女とお茶会
ゆっくりと空の中を墜ちていく。
透明な青。薄っすらと帯を為す白い雲。
そして、足元には綿あめみたいな分厚い雲。
もしかしたら、雲の上を歩けるんじゃないかと期待したけれど、そんなことはなく。
つま先から、雲の中に沈んでいく。
それでも、雲の中を墜ちていくことを楽しんでいた。
ゆっくりと墜ちていく心地よい浮遊感に浸っていた。
墜ちていくことへの恐怖も不安もない。
だって、これは夢なのだ。
そして、きっともうすぐ目が覚める。
夢から醒める、その直前の感覚。
ぶ厚い雲を抜けると、今度は濃い緑が目に飛び込んできた。
足元には森が広がっている。こんもりと生い茂る緑の合間には大きな河川が横たわって、森を分断している。橋は、かかっていなかった。
森のはずれには、お城があった。大河ドラマに出てくるようなお城ではなくて、夢の国にあるようなお城がそびえ立っている。煌びやかなドレスに身を包んだお姫様が住んでいそうなお城。青い屋根に、赤い旗が棚引いている。
お城に行ってみたいなと思ったけれど、どうやらお城とは反対側に向かって墜ちているようだった。
橋のない河川を挟んだ、お城とは反対側の森。
お城には、行けそうもない。
それが、ちょっぴり残念だった。
けれど――――と、思い直す。
どのみち、自分はもうすぐ目を覚ます。どちらにせよ、あのお城に行くことは叶わないのだ。
森が――――。
森が近づいてくる。
きっと、地面に到着する頃に、この夢から醒めるのだろう。
名残惜し気に、夢のお城を見つめる。
夢から醒めても、覚えていられるように。
ただ、お城だけを見つめて、森の中へと墜ちていく――――と。
ふわり、と一瞬だけ、体が浮き上がる感覚がした。
それから、背中とお尻に軽い衝撃。
ビクン、と体が震えて。
ぼんやりとしていた美羽の意識は、そこで一気に覚醒した。
授業中に居眠りをしてしまったのだと思った。それとなく口元に手を当てて涎が垂れていないか確認しながら、美羽は誰にも居眠りがバレていないか視線だけで周囲の様子を窺い、それから不思議そうに首を傾げた。
着ているのは、制服だった。美羽が通っている中学校の、エンジ色のブレザー。けれど、そこは教室ではなかった。
もう一度、今度は首を大きく動かして、辺りを見回してみる。
「何、これ? まだ、夢を見ているの?」
呆然と呟く。
確かに、夢から醒めたはずだった。
お尻への衝撃で頭にかかっていた靄は晴れ、意識ははっきりしている。
それなのに――――。
美羽は、まだ森の中にいた。
先ほどまでの夢で見ていたあの森だ。その証拠に、遠くにあのお城が見える。空を堕ちている時に見たのと同じ、青い屋根と赤い旗のお城が。
美羽は、さっきまで見下ろしていた森の中にいた。
そこは、木立が途絶えた開けた空間だった。
頭上を見上げると、薄い雲がたなびく、透き通るように青い空が見える。美羽が通り抜けたはずの綿雲は見当たらない。風で流されてしまったのかもしれなかった。
あまり、日差しは強くなかった。
周りを取り囲む木立をすり抜け、頬を撫でていく風は、心地よい涼しさだ。
午前中の、まだ早い時間の空気感。
美羽は視線を落として、何度か瞬きをした。
どうやら、お茶の席に招かれたようだった。
森の中のお茶会。
白い丸テーブルに、椅子が四つ。
美羽は、その椅子の一つに座っていた。
テーブルの上には、お茶の用意が整っていた。
白いレースのテーブルクロス。その中央には、赤いバラを飾った花瓶。丸みを帯びた白い陶器のティーポット。お皿に山盛りにされているタルト。艶めくように赤いジャムが詰まった山盛りのタルト。サンドイッチの大皿もあった。しっとりと柔らかそうな四角と三角が綺麗に盛り付けられている。卵とキュウリのサンドイッチだ。それから、厚焼きのクッキー。
「アリスのお茶会みたい」
ぽつりと呟くと、それが合図だったかのように、ティーポットがふわりと浮き上がった。
美羽は不思議な気持ちで、それを見つめる。
丸いティーポットがふわふわと宙を漂いながら美羽の元へ近づいてくる姿は、なんだか可愛らしく思えた。美羽の目の前には、黄色いバラの模様のティーカップが用意されていた。ティーポットはカップの真上で静止すると、ゆっくりと体を傾げていく。
香ばしい匂いとともに、カップの中に透き通った茶色の液体が注がれていった。
覚えのある、香ばしい匂い。
知っている匂い。
馴染みのある匂い。
…………日常の匂い。
カップに注がれたのは、ほうじ茶だった。
お茶請けのラインナップからすれば、ここは紅茶がふさわしいように思えるが、なぜかほうじ茶だった。
美羽は半眼でカップの中身を見下ろす。
さっきまでの、童心に帰ったようなときめきは、すっかり消えうせていた。
美羽の家では、夕ご飯の後はいつもほうじ茶を飲む習慣があったので、華やいだ雰囲気が一気に所帯じみてしまった。
夢から醒めたような、魔法が解けたような、そんな気がして、湯気が立ち昇るカップを脇へと押しやる。
少し残念な気もしたが、よく考えれば誰に振る舞われたのかも分からない、得体の知れない飲み物なのだ。迂闊に口をつけるべきではないだろう。もしかしたら、体が大きくなったり小さくなったりしてしまうかもしれないのだ。
注がれたのが紅茶だったら、雰囲気にのまれて、きっと何も考えずに飲んでしまっただろう。
ほうじ茶でよかったのかも、と美羽は思い直した。
それにしても、ここは一体どこなのだろう。
辺りを見回しても、誰もいない。アリスもウサギも帽子屋も、誰も。
代わりに、テーブルの上には三体の人形が載っていた。丁度椅子がある位置だ。三体とも、テーブルの真ん中を向くように配置されている。
真正面には茶色いテディベアが座っている。とても愛らしい顔立ちだ。やんちゃな子に乱暴に扱われたのか、お腹が裂けて綿がはみ出しているのが残念だった。
右手には青いドレスを着たお姫様のお人形。陶器ではなく、布製の人形だった。育成会主催のバザーとかで売っていそうな、手作り感あふれるお人形。赤い毛糸の髪の上には、ビーズで作った金色のティアラが載っている。顔は、刺繍糸で描かれていた。にっこりと笑っている。少し、とぼけたような笑顔だ。
そして、最後の一体。左側の席には、藍色の着物の日本人形が立っていた。光沢のある黒髪が、肩口で切りそろえられている。
何となく怖いので、そちらはあまり見ないようにする。
それで、結局これはどういうことなのだろう。まさか、あの人形がお茶会の参加者というわけではないだろうし、席札の代わりなのだろうか。
どうなんだろう?――――と首を捻ったところで、突然声が聞こえてきた。
「この中に嘘つきがいる!」
「きゃ!」
思わず、椅子の上で跳ね上がった。
テーブルの端を両手で掴んで呼吸を整えながら、声が聞こえてきた正面へと視線を向けると、茶色いクマのぬいぐるみと目が合った。
「え? な、何?」
声はあのぬいぐるみから聞こえてきたような気がする。つぶらな瞳の愛らしいぬいぐるみにふさわしくない、しわがれた声だったが。
もしかして、残りの二体も喋るのだろうかと、左右へ視線を走らせ、椅子から半分転げ落ちた。
正面を向いて見つめ合っていたはずの左右の二体が、揃って美羽の方を見つめていたのだ。体は正面に向けたまま、首を捻り、顔だけを美羽の方に向けている。
日本人形が混じっているせいか、メルヘンというよりは、ホラーだった。
左手で背もたれを、右手でテーブルの端を掴み、左のお尻だけが椅子に乗っているみっともない体制のまま動けずにいると、お姫様の方から女の子の声がしてきた。ちょっと高めの可愛い女の子の声だ。
お姫様は、椅子からずり落ちかけている美羽に向かって、何事もなかったかのように歓迎の言葉を述べた。
「絵本の世界へようこそ、新しい挑戦者さん。歓迎するわ」
「え? 絵本の……世界?」
「ええ、そうよ。わたしはアリン姫。この物語の本当の主人公よ」
椅子からずり落ちかけたまま、美羽は大きく目を見開いた。
見開いたままの瞳で、テーブルの上の三体を順に見つめ、それから。
椅子に座り直して。
森の向こう、遠くにそびえ立つ赤い屋根のお城を見上げる。
「…………魔女のゲーム。彼の言った通り……あの女の子は、本当に本物の魔女だったんだ」
お城を見つめたまま、美羽は呆然と呟く。
間違いなかった。
青い屋根と赤い旗のお城。
そして、お城が見える森の中でお茶会をしている人形たち。
それは、美羽が空を墜ちる前。
現実の世界で最後に見た、絵本の中の光景だった。




