1 ハートの騎士
ハートのカードは手に入れた。
陰湿な霧の森から、明るい世界に戻って来た。
彼のハートが囚われているお城は目前だ。
すっかり歩きなれた小道をまっすぐ進んでいけばいい。
なのに、美羽は歩き出すことが出来なかった。
霧の中での邂逅がマネキン少女だけで終わったなら、恋するヒロインよろしく決意と共にお城へと向かっただろう。
決意が消えたわけではない。それは、断じてない。
けれど、頭の芯に霧が残ったままなのだ。
白灰の靄が、しんと頭を痺れさせる。
思わせぶりな忠告を残して消えていった魔女。
嘘つきは一人じゃない。
箱庭の外にも嘘つきはいる。
箱庭の外というのは、絵本の外の世界のことを言っているのだろう。
絵本の中にも外にも嘘つきはいるということなのだろう。
その嘘つきとは――――?
「あ~~~~れ~~~~え~~~~!」
候補者を思い浮かべる前に、空から悲鳴が降ってきた。
聞いたことのある声だ。
思考を切り上げて顔を上げると、数本先の木の天辺の向こうから人形がポーンと飛んで来た。
「わ! わわ! ア、アリン!?……………………あ」
美羽はカードをポケットにしまい、落下予測地点に向かって走り出し、手を伸ばす。人形姫は美羽の手の脇をすり抜け、ぽてーんと地面に転がった。
美羽は手を差し出したポーズのまま固まり、気まずそうに視線を彷徨わせた後、なかったことにした。
「だ、大丈夫? アリン?」
「あ、美羽! よかったわ! はぐれちゃったと思ったけれど、同じところへプリ飛ばされたのね!」
「ん? プリ……?」
何事もなかった顔で地面に転がるアリンを抱き上げ無事を確認すると、元気そうなアリンから耳慣れない言葉が飛び出してきて、美羽は首を傾げる。
「そうよ! わたしたち、運良く渡り守に飲み込まれて、そのままお尻から対岸へプリっと飛ばされたのよ! その時、バラバラに飛ばされちゃったんだけど、再会できてよかったわ!」
「お、お尻から……プリ……。う、噓でしょ? あ、あたしは、魚のお尻からプリッとされた女の子ってこと? そ、そんな……。こんなことが、もしも彼に知られちゃったら……。ううう、あたし、あたし臭くないよね?」
「もーう! 別に生身の魚じゃないんだから、臭くないわよ! 細かいことは気にしないの!」
恐ろしい事実を聞かされて、美羽はアリンを取り落としそうになった。しゃがみ込んだまま泣き言を洩らしたら、アリンに叱り飛ばされた。
絵本時代から何度も乙女の死線をくぐり抜けてきたと思われるお姫様は豪胆だった。
美羽は少し元気を取り戻す。
「そっか。そうだよね? 魚型のオブジェの中をくぐり抜けたようなものだよね?」
「そうよ! それに、黙っていれば分からないことじゃない? こんなこと、伝えられても困るでしょうし」
「そ、そうだよね?」
「そうよ。これは、わたしと美羽の秘密ってことにしておきましょう。女は、秘密がある方が魅力的に見えるものよ。そう、むしろ、わたしたちはこれで女を上げたのよ!」
「…………いや。こんな秘密で女を上げても……全然、嬉しくないし……」
アリンはエヘンと胸を張ったが、美羽は複雑な顔で乾いた笑いを洩らした。秘密にしてもしなくても、女は下がっていると思ったが、お口にチャックをした。表面的にはそれなりに何となく決着したのだ。自分から、これ以上傷口を抉る必要はないのだ。
嫌な記憶と事実を振り払うべく、美羽は威勢よく立ち上がった。
「よし! 行こう! なんか、いい感じにお城の近くに飛ばしてもらえたみたいだし! ゴールは、すぐそこだよ!」
「そうね! その意気よ! 美羽! そろそろ彼女のテリトリーだけれど、愛と勇気があれば、切り抜けられるはずよ! 頑張ってね、美羽!」
「へ?」
意気揚々と大きく足を踏み出そうとした美羽だったが、腕の中の人形から思わせぶりなエールを送られ、気の抜けた一歩と共に人形の姫を見下ろす。
――――と、頭上で何かが光った。
何だろうと目を上げると、少し先の木の枝から、何かが飛び立ち、青空を背景に綺麗に一回転を決め、そのままストンと小道に降り立った。
「ハートの騎士! 見参!」
「ハ、ハートの騎士?」
「そうよ。姫に仕える忠実な騎士よ」
「え? そ、そうなの?」
ということは、味方なのだろが、その割にはやたらと好戦的なような?――と美羽は首を傾げつつ、小道の真ん中で立ち塞がるハートの騎士をまじまじと見つめる。
鉛色の槍を手にした白い甲冑に身を包んだ騎士。
背丈は、美羽の胸辺り。
露出はなく、完全に全身を覆い隠しているのに一目で女性と分かる、ゲームやアニメに出てきそうなデザイン。
フィギアみたいだな、と美羽は思った。
鎧の材質も金属ではなく、白い塗装をしたプラスチックのようだ。
美羽が一番気になったのは、フルフェイスの兜の隙間からチラチラ見える蛍光ピンクの光だった。たぶん、兜の中にはハートの形をした何かが入っているのだろう。
兜を剥ぎ取って中身を確認したい誘惑にかられ、じっと見ていると、ハートの騎士はビシッと槍の切っ先を美羽に突きつけ、何やら口上を述べた。
「さあ! 魔女の挑戦者よ! 城へ行きたければ、まずはこのわたしを倒してみせよ!」
「え? 魔女の手下になっちゃったってこと?」
「な!? 失礼なことを言うな! これは、愛の試練だ! 姫様に代わって王子様を助け出す力があるのかどうか、見極めさせてもらう!」
美羽はアリンに尋ねたつもりだったのだが、答えはハートの騎士から返ってきた。
ハートの騎士は、手にした槍をバトンのようにクルクルと回し、そして――――。
ヒュンッ――と一気に距離を詰めてきた。
繰り出された槍が、美羽の鼻先でピタリと止まる。
「……………………」
美羽は無言で、今にも鼻にツンツンしそうな刃先……もどきを右手で握りしめた。
痛くもないし、血が出たりもしなかった。
槍は、というか槍もプラスチックっぽい素材で出来ていたからだ。おまけに、角は丸くなっている。安全仕様……というか、おもちゃだ。
とはいえ、丸めた新聞紙とはわけが違う。
先ほどのロケットダッシュの勢いで突きを繰り出されたら、さすがにアザくらいは出来そうだ。
槍の先を握りしめたまま、美羽は、この後どうしようかと途方に暮れた。荒っぽい遊びには、慣れていないのだ。ハートの騎士が、押すなり引くなりしてくれば、こちらも力任せに槍を奪おうとしたかもしれない。けれど、ハートの騎士は、美羽の鼻先に槍を突き付けたまま、動かない。そうなると、あまり乱暴なことをするのは、気が引けてくる。
どうしたものかと考えていたら、フルフェイスの向こうでフッと息が零れた。
「ふっ。見事だ。おまえの愛と勇気、確かに見せてもらったぞ」
「え? あ、ど、どうも?」
鼻先で槍を……ピタリと静止した後の槍を掴んでいただけなのだが、どうやら合格したようだった。槍が引いていく感触があったので、美羽は手を離す。
ハートの騎士は、槍のお尻でトンと地面を叩き、反対の手を胸に当てお辞儀をした。
腕に抱えた姫からは、お褒めの言葉を頂いた。
「美羽! よくやったわ! 見事だったわよ!」
「そ、そう……。いや、てゆーか。これ、負けた子っているの?」
「いいや。みな、勇敢な女子ばかりだった」
「よかったわね。第一号にならなくて」
「うん……そうだね」
やっぱり茶番だったんだ……と美羽が脱力していると、ハートの騎士がまた笑みを漏らした。
「ふっ。あれだけ見事な勝利を収めたというのに。挑戦者殿は、クールなのだな」
「くーる……」
クールと言うよりも、今の心情はドライだった。
心の中に乾いた風が吹き抜けていく。
ドライヤーとか、乾燥機とか……。
カラカラに乾いた心で、美羽は身近な家電を思い浮かべた。
「さあ、行くがいい! 城を守っている異形は手強いが、このわたしを見事打倒した挑戦者殿ならば、きっと何とかなるだろう」
「あ、うん。ありがとう」
ハートの騎士は、サッと脇に避けて道を開け、槍でお城を指し示した。
小道の先で美羽を待っている青い屋根のお城を。
遠くから見た時はそびえ立つような大きさだったけれど、近くで見ると、意外とそうでもなかった。こぢんまりとした可愛いお城に見える。
心ときめく如何にもなおとぎのお城だった。
だけど、あの中には恐ろしい異形が待ち構えているのだ。
可愛さに浮き立ちそうになる心を引き締め、美羽は足を踏み出した。
ハートの騎士とすれ違う直前、ハートの騎士がアリンに向かって頷きを返している姿が目に入ったけれど、さして気にも留めず、美羽はお城を目指した。




