2 ハートのカードとマネキン少女
口元を押さえ、飛び出してきそうな心臓ごと悲鳴を飲み込む。
数歩先に立つエンジのブレザーは、美羽に背中を向けていた。
まだ、怨霊モードへ豹変していない。
まだ、見つかっていない。
今のうちにどこかに隠れれば、やり過ごせるはずだ。
そう、アリンが教えてくれた。そして、それは実証された。
アリンのとぼけ顔を思い浮かべながら、美羽は素早く目だけを動かし、隠れられそうな場所を探す。
あいにく、手ごろな場所は見つからなかった。
まだ濃く残っている霧の中くらいしか。
霧のカーテンはまだ、もったりと重く、枯れた森を覆い隠している。
視界が開けたのは数メートル先までで、その向こうは厚い霧に包まれたままだ。
美羽の目の前にあったカーテンだけが、サーっと左右に分かれていったかのようだった。
白灰の背景の中で、エンジの背中だけが浮かび上がるようにはっきりと見えた。美羽よりも小柄で華奢な体つき。癖のあるツインテールを赤いリボンで結わえている。
なんだか、霧の森の舞台に美羽と元挑戦者だけが取り残されたみたいだと思った。
なんとか気づかれずに、霧のカーテンの向こうへ隠れることは出来るだろうか?
いっそ、美羽に気づかないまま前に進んで霧の中へと消えてくれればいいのに、と美羽は願った。
けれど、舞台はそれ以上動かない。
(――――――――あれ? そういえば……)
美羽は、ここでようやく、異形と言えばお馴染みの虚ろな声が聞こえてこないことに気が付いた。
憐れな挑戦者の成れの果ては、充電切れを起こした機械人形のように動かない。
どういうことかと首を傾げた拍子に、ボリュームのある癖髪の向こうに隠れていたものが視界の端にチラリと映って、心臓が跳ねた。
白くほっそりとした首と癖髪ツインテールの隙間から、カードらしきものが見えた。
トランプのような白いカードの端だけが見えた。
(あれって、もしかして…………)
美羽はグッと拳を握りしめ、音を立てないようにそろりと右足を横に広げ、体の重心を右へ移す。ググっと顔を右前方へ寄せ、エンジのブレザーが抱え持っているカードの柄を覗き見る。
思った通り、カードの柄は、ハートのエースだった。
白地の真ん中で燦然と輝く赤いハート。
(きれい……。宝石みたい)
美羽は吸い寄せられるように前に進み出ていた。
足音を消すことも忘れ、ツインテールの背後に立ち、背伸びをして右から回り込むように癖のある黒毛の向こうを覗き見る。
赤いハートは美しかった。
宝石みたい……なのではなく、本物の宝石のようだった。
ハート型にカットされた紅い宝石。
光沢のある白地に描かれた、透き通るような紅。
ハート型にカッティングされた紅い宝石。
イラストではなく、写真に見えた。
複雑で緻密なカッティングを施された透き通る紅が燦燦と煌めいている。
(これが、ハートのカード。これが、あれば……)
抜き取って逃げることは可能だろうか、とカードを握りしめている指に視線を移して、ギクリと固まった。
そのまま、首筋へと目を走らせ、顔まで駆けあがり、大きく見開く。
美羽は息を呑み、ツインテールの正面に回り込んだ。
「マネ……キン……」
それは、美羽と同じ中学の制服を着た、マネキンだった。
後藤加奈を彷彿とさせる派手で華やかな美少女だが、マネキンだと思えば、さして気後れもしなかった。マネキンというのは、大体整った顔立ちをしているものだからだ。
異形のような虚ろさはなかった。
何かと対峙しているかのような、キリリと勇ましい顔つきをしている。
異形とは違う。かといって、アリンたちとも違う。
何かと戦っている途中に正真正銘の人形にされてしまった女の子。
美羽と同じ中学の女の子。
両手でしっかりと握りしめたハートのカードを、胸の前で大事そうに掲げ持っている。
武器というよりは、お守りのようだった。
「この子も挑戦者……なんだよね?」
美羽の瞳は困惑に揺れた。
崖の上で襲い掛かって来た異形は、間違いなく生身の女の子だった。
狂ったゾンビのようではあったけれど、体は造り物ではなかった。
けれど、エンジのブレザーを着ている目の前のソレは、間違いなくマネキンだった。
魂を失くして、体は生身のまま虚ろな人形にされたわけではなく、正真正銘のマネキン。魂もなければ血も通っていないただのマネキン。
魔法で人形にされたアリンたちとも違う――本物の人形。
「どうして、マネキンに…………」
異形とマネキン。
概念的な人形と文字通りの人形。
どちらも、元は挑戦者だったのだろう。
ゲームに負けた挑戦者。
結末が分かたれたのは、どうしてなのだろう?
考えても、美羽には分からなかった。
どうして、こんな時にアリンがいないのだろうと唇を噛みしめる。
アリンがいれば、何か教えてもらえたかもしれないのに。
「…………やめよう。考えても分かんないことを考えたって、しょうがないよね。元々頭脳派じゃないし……。っていうか、負けた時のことなんて考えたって意味ないよね。あたしは、ゲームに勝って、王子様を助けるためにここに来たんだもん」
美羽は、ふるっと首を左右振った後、両手を腰に当て、わざとらしく胸を張った。
半分くらい空元気だったが、ここへ来た目的をはっきりと言葉にしたことで、鎮火していた闘志の炎が蘇ってきた。
そのために必要なものがある。
美羽が持っていないもの。
マネキンの手の中のもの。
魔女主催のゲームへの招待状でもあるハートのカード。
トランプのようなカードの裏面は、影のような黒灰だった。
美羽はそっと手を伸ばし、カードの上端を指で掴む。
グッと力を込めて抜き取ろうとしたけれど、思わぬ抵抗にあった。マネキン少女は、大事なものだから渡せないというようにカードを両手で握りしめ、手放さない。
美羽はムッとしてマネキンを睨みつけた。
華やかな顔立ちが後藤加奈を連想させ、後藤加奈に嫌がらせをされているのだと錯覚したのだ。
けれど――――。
美羽はカードから指を離した。
確かに、後藤加奈と同じ系統の華やかな顔立ちの美少女だ。それでも、彼女は後藤加奈ではない。見た目の系統が同じというだけで、まったくの別人だ。
そのことに気づいたのだ。
マネキン少女からは、後藤加奈のような高飛車な感じはしなかった。
誰かを見下す顔ではなく、誰かのために一生懸命になれる顔だ。
アニメに出てくる戦う系ヒロインと同じ表情。
恋する女の子の顔でもあった。
決意と覚悟が、伝わってくる。
きっとこの子も、本気で彼に恋をして、本気で彼を助けるつもりで、魔女のゲームに挑んだのだ。そうして、力及ばす…………。
何とも言えない思いで、少女の顔を見つめる。
後藤加奈のような嫌な顔つきをしていたら、強引にでも奪おうとしただろう。
でも、この子相手に、それはしたくなかった。
この子の気持ちを無碍にしたくなかった。
だから、美羽は目を閉じてマネキンに頭を下げた。
「ごめんね。勝手にとろうとして。でも、あたし、カードを持っていなくて。だから、お願い。このカードをあたしに使わせてください。その代わり、彼はあたしが必ず助け出すから。だから、お願い。お願いします」
厳かに宣言し、頭を上げる。
塗料で描かれた大き目な瞳を見つめる。
ぱっちりした瞳はどこか遠くを見つめていて、美羽とは視線が合わない。
美羽は、もう一度手を伸ばし、今度は両手でカードではなく、カードを握りしめているマネキンの手を包み込んだ。
「お願い。力を貸して。あなたのハートを持っていくから、一緒に力を合わせて、彼を助けよう」
例え目線が合わなくても、美羽はしっかりと強い意志が描かれた瞳を見つめたまま、語りかけた。
カードを握っている冷たい手に美羽の体温が馴染んでいき、冷たさを感じなくなっていく。
カードの端が、微かに動いた。
美羽のぬくもりで、固く強張っていた指が解けたかのようだった。
美羽は左手でぬくもりを与えたまま、右手でカードを掴み、ゆっくりと引き上げていく。
カードはスルリと人形の手を抜け出した。最後に少しだけ引っ掛かりを覚えたけれど、引き留めるまではいかず、カードは美羽の手の中に納まった。
塗料の瞳が濡れたように光って見えたのは、美羽の感傷だったのかもしれない。
「ありがとう。あなたのハートは、絶対に無駄にしないから!」
美羽は先ほどまでのマネキン少女のように、カードを胸の前に両手で抱え持ち、深々と頭を下げた。
そうして、そのためにも絶対に彼を救い出すのだと決意を新たにして顔を上げる――――と。
「え……?」
マネキンは姿を消していた。
最初から、そこにいなかったかのように。
霧に沈んだわけではない。
霧はむしろ、さっきよりも晴れていた。
数メートル先まで、見通せるくらいに。
霞む白灰の手前に、背の高い枯れ木が立っていた。
その枝に、誰かが座っている。
足をプラプラさせながら、美羽を見下ろしている。
赤いローブを着た女の子だった。
人形なのか人間なのか、美羽には判別できなかった。
サイズ感や動きの滑らかさは人間と遜色ない。
けれど、赤ローブの女の子は。
まるで人形のような、とても美しい顔立ちをしていた。




