1 霧の森
くしゃんと一つ、可愛いくしゃみをして、美羽は目を覚ました。
肌寒さに震えながら身を起こす。
辺りは薄暗く、濃い霧が立ち込めていた。
(あれ? あたし、どうして、こんなところで……?)
ぼんやりしながら記憶をたどり、思い出した。
崖の上で渡り守を呼び出すイベントの途中、異形に見つかって、すんでのところでシュワシュワ大河へと飛び込んだのだ。
美羽は息を止め、身を強張らせた。
座ったまま、視線だけを彷徨わせ、耳を澄ませる。
霧が濃いせいで、付近の様子はよく分からない。
霧の森は、しんと静まり返っていた。
虚ろな声は、何処からも聞こえてこない。
この近くに異形はいないようだった。
美羽はほっと息を吐き、強張っていた体から力を抜く。
それから、立ち上がって改めて周囲を確認し、首を傾げた。
「あれ? あたし、川に飛び込んだ……よね?」
大河に落ちた後、運よく岸辺に流された……わけではなさそうだった。
岸辺どころか、そもそも近くに河川はないようだ。
水が流れる気配は感じられないし、シュワシュワもパチパチもザアザアも聞こえてこない。
それに、服も髪の毛も濡れていなかった。
あの河川を流されたなら、全身ずぶ濡れでグッショリになっていなければおかしい。なのに、美羽の体は……その割には乾いていた。
霧のせいか、少しだけしっとりはしている。けれど、霧吹きでちょっと湿らせてみた程度だ。
河川に落ちたばかりとは思えない。
「ねえ、アリン。あたしたち、川に落ちたんだよね? どうして、服が濡れてないんだろ? …………あれ? アリン?」
首を捻りながら話しかけて、何も持っていないことに気づく。
血の気が引いた。
慌てて、名前を呼びながら周辺を探し回る。
「アリン? ねえ、アリン? どこにいるの? 返事をしてよ! アリン! アリン!」
焦って声を張り上げてみても、返事はなかった。
姿を探そうにも、霧が濃くて見通せない。
少し歩き回ってみたけれど、朽ちた倒木に躓きそうになっただけで、人形の姿はどこにも見当たらなかった。
「そんな…………」
どうやら、河川に飛び込んだ際にはぐれてしまったようだ。
心細さが、奥の方からジワッと一気に広がっていく。
沁みるように、染みるように、内側から広がって、美羽を侵食していく。
皮膚を取り巻く霧は、濃く、重く、冷たかった。
薄っすらと灰を帯びた白が美羽に纏わりつき、外から忍び込んで来ようとする。
美羽は身を震わせた。背中を丸めて、両腕を擦りながら不安そうに瞳を揺らす。
いつまでも、ここで立ち尽くしていたって仕方がない。
それは分かっているのに、どちらに進めばいいのか、それが分からない。視界同様、八方ふさがりだった。
美羽は迷子になってしまったのだ。
せめて、進む方角だけでも分かれば、心を奮い立たせて歩き出すことも出来たのに。
足を踏み出す方向が分からない。
おそらく、ここは大河を挟んで反対側の……お城側の森なのだろう。
辛うじて見える足元は、しっとり湿ったこげ茶色の地面。
もったりとした霧の中、朧に見える枯木立ち。
霧は頭上にも覆い被さり、空すら見えない。
一筋の光も差し込まない、薄暗く、肌寒い森。
お城が見えないこともまた、美羽の不安を煽った。
「アリン、どこにいるの? ここ、どこなの? お城は、どっちにあるの?」
不安が声になって、唇から零れ落ちていく。
お茶会側の森では、どこからでもお城が見えた。その上、イベントガイド付きで一本道を進むだけだったから、行先について迷う必要はなかった。思えば、至れり尽くせりの道中だった。
それなのに、今は――――。
美羽の足元に道はない。近くにあるのかどうかも分からない。アリンを探して周辺をうろついた時には、同じようなこげ茶色が続くばかりで、見つけたものといえば朽ちて倒れた木の残骸と石ころだけだった。
進むべき道は見当たらない。助言をくれる協力者もいない。せめて、お城が見えれば、どちらに向かって進めばいいのか方角くらいは分かるのに。すべて霧が押し隠してしまっている。
アリンも。進むべき道も。目的地であるお城も。
空を墜ちていく時には、霧がかかった森なんてなかったはずなのに。
お城に気を取られて見逃してしまっただけならば、それでいい。けれど、もしも――――。
美羽は、腕をこすっていた手を止め、ギュッ強く鷲掴む。
掴んだ腕は、震えていた。
震えているのは、寒さのせいだけではない。
霧の森は、異質だった。
陽光の匂いがする、メルヘンみが溢れた森とは、まるで別物だった。
ページを飛び越えてやって来たというよりも。
別の絵本へ飛ばされたかのようだった。
死んだ森みたいだと美羽は感じた。
すべてが枯れ果て、死に絶えた森。
生き物の気配が、まるで感じられない。
物音ひとつしない。
自然そのものが死んでいる。
いや、死んでいるというよりも、最初から造り物の森のようだった。
人形を飾るために造られた森。
アリンたちのような心ある人形ではなくて、お店のショーケースの中に飾られているような、物言わぬ本物の人形を飾るために造られた森。
この森に、ほのぼのとした布製の人形やぬいぐるみたちは似合わない。どこか退廃的な雰囲気の漂うビスクドールならば、しっくりくるかもしれない。あるいは――――。
あるいは、魂なき虚ろなる人形……異形ならば、もっと、ずっと。
ここは、もしかしたら、異形たちの……。
美羽は目を閉じ、思考にも蓋をした。
けれど、一度思いついてしまったソレは、蓋の隙間から滲み出るようにして、冷たく淀んだ水のように美羽を浸していく。
ここは、まるで異形たちの住処のようだと美羽は感じた。
異形――――。
心を奪われた伽藍洞。
ゲームに負けた挑戦者たちの成れの果て。
魂のない虚ろな人形。
挑戦者が現れたら、ハートを狩るために霧の森から出て行き、狩りが成功しても失敗しても、ゲームが終われば、また霧の中に戻ってくる。
そうして、次のゲームが始まるまで、ここで立ち枯れた木に混じって、静かに、虚ろなままに、新しい挑戦者を待ち続けるエンジのブレザーの群れ。
その中の一人が、自分そっくりの顔をしているのを想像して、戦慄する。
氷の矢で、体の真ん中を貫かれたような衝撃。
抱きしめるようにして両腕を掴んでいる指に、跡が残りそうなほど力を込める。
痛みは、どこか遠くに感じられた。
ここから逃げ出したくてたまらないのに、逃げることさえできずに立ち竦んでいる自分が、悔しくて情けなくて不甲斐なくて、涙が零れる。
アリンが恋しかった。
あの賑やかさが。日向の香りが。とぼけた笑顔が。自信満々な物言いが。
助言はありがたいけれど、いなくても何とかなると心のどこかで思っていたのに。
今は――――。
恋しくて、恋しくて。心細くて、心細くて。
堪らない。
自信満々に「こっちよ、美羽!」って、導いてほしかった。
美羽が進むべき道を指示してほしかった。
「アリン、アリン……。ねえ、アリン。どこにいるの? 早く、出てきてよ。どっちに行けばいいのか、分からないよ。ねえ、アリン。…………アリン!」
アリンがいないことが、こんなにも心細い。
嗚咽を飲み込み、唇を噛みしめる。溢れてくる涙を拭っていると、少しだけ霧が晴れてきた。
もしかしたら、お城が見えるかもしれない。
微かな希望を抱いて顔を上げた美羽は、数歩先に人影を見つけて、凍り付いた。
スルリと左右に解けていった白灰の霧の隙間から現れたのは、見慣れたエンジのブレザーだった。




