3 少女と魔女と人形の彼
白いシャツ。濃紺のベストと揃いのパンツ。
スッキリと整えられた清潔感のある黒髪。
精巧な人形のように整った美貌の青年。
高校生……いや、大学生くらいだろか。
美羽よりも年上の落ち着いた物腰の青年。
スッと表情を消し、従者然として魔女めいた少女の後ろに佇む姿は、本当に本物の人形のようだ。
なのに――――。
なのに、美羽と目が合い微笑みかけたあの一瞬。
あの一瞬の彼は、確かに暖かい血の通う人間だった。
一瞬だけ、息を吹き返したかのように。
美羽と出会ったことで、人形から人間に戻ったみたいに。
偶々。偶然。美羽だけが特別じゃなくて、通りすがりの女の子みんなにやっているのかも。
――――そんな風に自分を戒める言葉は、ツルツルと脳みその外側を上滑っていった。
美羽のすべては、彼のことで塗り替えられた。
彼一色に塗り替わった。
三浦君への想いは、美羽の中ではなかったことになっていた。
宝物だった消しゴムは、宝石箱だった缶に収められたまま、引き出しの中で眠っている。
捨てたわけでも、引き出しの奥に追いやられたわけでもなく、引き出しを開ければ目に付くところに仕舞われている。
けれど、それはもはやただの缶で、美羽の心が動くこともなければ、目に留まることすらない。
そこにあるのに、ないも同然のものになった。
美羽は消しゴムの儀式の代わりに、洋館へ日参するようになった。
銀柵の脇を歩く時だけ、不自然にならないギリギリの速度で通り過ぎるだけ。
だけど、彼は必ず美羽に気づいてくれた。
魔女は、美羽に目もくれないのに。
彼だけは、いつも美羽に気づいて、正面のちょっと手前で美羽の方へ視線を流し、微笑んでくれるのだ。
人形のような彼が、人間に戻るほんの一瞬。
その一瞬のために、美羽は洋館へ通い続けた。
その一瞬だけが、美羽のすべてになった。
三浦君のことも、きっかけとなった後藤加奈のことも忘れて、洋館へ通い詰める日々。
そんな美羽の日常を変えたのは、やっぱり後藤加奈だった。
「後藤加奈が、魔女のゲームの挑戦者に選ばれたらしい」
そんな噂が、学校中を……学校中の女子の間を駆け抜けたのだ。
熱に浮かされ、浮ついていた心は、それこそ一瞬で凍り付いた。
薄氷が張った極寒の湖の上を歩いているような感覚に襲われた。
美羽の耳に入った噂は、それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
聞かなくても分かる。
魔女に選ばれたということは、魔女に会ったということだ。
そして、魔女に会ったなら、当然。
彼にも会ったのだろう。
後藤加奈が、彼に目をつけないはずがない。
(きっと、ゲームに勝ったら、彼と付き合う権利が欲しいって、お願いをするつもりなんだ! 絶対、そうに決まってる!)
美羽は、そう決めつけ、それこそが真実なのだと信じた。
それが遊びでも本気でも、許せない。許せなかった。
ゲームの賞品にするなんて、まるっきり人形扱いだ。
たとえ、後藤加奈が本気で彼を求めているのだとしても、許せなかった。
薄氷は、その下の冷水ごとマグマに様変わりし、美羽の心をジリジリと焦げ付かせた。
その日、美羽は。
彼が人間から人形になった後も、通り過ぎたりせずに、その場で彼を見つめ続けた。
人目なんて気にせず。
気にしない……というよりも、彼以外のことが頭から吹き飛んでいた。
彼は、微動だにせず、魔女の背後で人形のように静かに佇んでいる。
戦利品として後藤加奈に譲渡され、後藤加奈の綺麗なお人形さんとして連れまわされる彼の姿が思い浮かんだ。
堪らなくなって、銀の柵に手をかける。
ギュッと手に力を込めると、人形だった彼が、また人間に戻った。
頼りなげに揺れる瞳。視線。
でも、美羽と目を合わせようとはしない。
銀柵を掴む指が、白くなる。
魔女に気づかれてもいいから名前を呼びたい。
なのに、美羽は彼の名前すら知らない。
唇を噛みしめる。
――――すると、彼の唇が動いた。
目は合わない。
だけど、彼は。
『待っていて。後で』
唇は、そう動いた。
無言のまま、唇の動きでそれだけ伝えて。
彼はまた、人形になる。
もちろん、美羽は言われた通りにした。
人目も気にせず、銀柵のこちら側で、その時が来るのを待つ。
まだ空が明るい内に、魔女は絵本を閉じ、館の中へ戻っていった。彼も、それにつき従う。
少し不安になったけれど、美羽は言われた通りに彼を待ち続けた。
暗くなる前に、彼は館を抜け出してきてくれた。
はち切れそうな心臓を宥めることも出来ないままでいると、彼は銀柵越しに、美羽の正面に立った。
間近で見ても、彼は美しかった。
造形だけでなく、肌も綺麗だった。毛穴一つ見当たらないのだ。
「こうして、ちゃんと会うのは、これが初めてだね?」
「は、ははははは、はい! あ、あの、あのあの! あ、あたし! 倉橋美羽っていいます! あの! あなたの名前を教えてもらえますか?」
少し深みのある、静かで落ち着いた声だった。
美羽はどもりながら名乗り、彼の名を尋ねる。
静かで穏やかな微笑みが、困ったような笑みに変わった。
ためらいながら、彼はこう答えた。
「僕は、3号だよ。そう呼ばれている」
「…………え?」
「僕は、魔女の人形だから」
「そん……そん……な…………」
儚い笑みを浮かべる彼を、美羽は呆然と見上げた。
言葉の意味を、理解できなかった。
少し遅れて。
親の借金の方に売られて、言いなりになるしかないとかだろうか、と思いついた。
二人はやっぱり、お嬢様と執事……ではなく、魔女のように陰湿なお嬢様と逆らえない使用人の関係なのだ。
だけど、それにしたって、番号で呼ぶなんてひどすぎる。
雇用主だからって、何をしてもいいわけじゃないはずだ。
こんなの、人間相手にすることじゃない。
それじゃあ、まるで。
道具扱いじゃないか、と美羽は憤った。
けれど、彼は。
ある意味その通りではあるけれど、予想を超えた……否、常識の範疇外の真実を美羽にもたらした。
「…………僕はね、魔女にハートを奪われてしまったんだ」
「え?」
「魔女がいつもテラスで読んでいる絵本の中に、僕のハートは捕らわれてしまっている。ハートを取り戻さないと、僕はこの洋館から出られない。ずっと、魔女の言いなりだ」
彼は、力なく銀柵を握り、美羽を見つめた。
その瞳の奥で、何かが揺れている。
美羽は、勇気づけるように、彼の手に自分の手を重ねた
「どうすれば、助けられるの? 何でも言って。あたしに出来ることなら、何でもするから」
きっと、彼は美羽に助けて欲しいのだ。だから、今。こうして、ここへやって来て、美羽に話しかけてくれたのだ。
重ねた手に力を込めると、彼は躊躇いがちに口を開いた。
「魔女のゲームのことは知っている?」
「…………!」
美羽は目を見開いて、頷いた。
そうだ。これは、そういう噂だった。
魔女にゲームを挑まれて、ゲームに勝てば願いを叶えてもらえる。でも、負ければ、魔女に人形にされてしまう。
噂は、本当だったのだ。
ただ一つを除いて。
「魔女は、お茶に招待した女の子に、僕のハートをかけたゲームを持ち掛ける。既に一人、招待されている。あの子が魔女の挑戦を受けるかは分からない。でも、僕は、出来れば……」
「言って」
続きを躊躇い口ごもる彼を、美羽は促した。
ああ、やっぱり……と思った。
勝てば、なんでも一つだけ願いを叶えてもらえるという魔女のゲーム。
だけど、そうじゃない。
これは、人形にされた彼のハートを賭けたゲームなのだ。
とはいえ、彼に出会ったら、女の子はみんな、それこそを一番に求めるだろう。
他に、叶えてほしい願いなんて、なくなってしまうだろう。
そういう意味では、確かに噂は真実だった。
大事なところが伝わっていないだけで……。
美羽は凛と背筋を伸ばし、自分より背が高い彼を見上げた。
心はもう、決まっている。
だけど、自分から言い出すのではなく、彼の口からちゃんと言ってほしかった。
彼の方から、求めてほしかった。
彼が真っすぐに美羽を、美羽の目を見つめてくる。
美羽は、覚悟と共にそれを受け止めた。
「僕は、魔女が選んだ女の子ではなくて、君に……」
「うん……」
「君に、僕のハートを取り戻してほしい」
「…………うん、任せて。あたしに、任せて。絶対に、あなたのハートを取り戻してみせる」
美羽は静かに、けれど力強く答えた。
魔女はゲームの相手に後藤加奈を選んだ。
でも、彼が選んだのは、いけ好かない後藤加奈じゃない。
彼が選んだのは、美羽だった。
美羽が選ばれたのだ。
それだけで、十分だった。
眉唾だと疑っていた噂を美羽は信じた。
彼の語ることだけが、美羽の真実だった。
美羽の真実になった。
「ゲームが開催されるのは、もう明日だ」
「大丈夫。行けるよ」
「ありがとう。入り口のカギを開けておくから、だから、どうか僕を……」
君のものにして……と、彼は美羽の耳元で囁いた。
脳髄が甘く痺れた。
陶酔感に侵されたまま、美羽は頷いた。
――――そして、翌日。
約束通り、庭を覆う銀色をした柵の入り口のカギは開いていた。
テラスには、誰もいなかった。
魔女も。彼も。
テラスのテーブルの上で、絵本が開いているのが見えた。
読みかけのまま、置き去りにされたような絵本。
彼の心が閉じ込められている絵本。
緊張で破裂しそうな胸を押さえながら、美羽は庭に忍び込んだ。
足音を立てないように気をつけながらテーブルへと向かい、そっと絵本を覗き込む。
絵本の中では、人形たちが森でお茶会をしていた。
とぼけたような笑顔のお姫様らしき人形と、お腹が破れて綿が飛び出ているテディベアと日本人形という謎の取り合わせだ。
そして、森の向こうには、お城が描かれていた。青い屋根と赤い旗が印象的なお城。西洋風のお城だ。
(どうすれば、ゲームに参加できるんだろう?)
戸惑いながら、絵本に手を伸ばしてみる。
それが、正解だった。
指先がページに触れた途端、目の前が白く光って。何も見えなくなって。
視界が戻ってきた時には。
空を。
空を墜ちていたのだ。




