1 美羽の恋
美羽は恋をしていた。
相手は、同じクラスの三浦君だ。
とりたててカッコいいわけではないが、背は高い方で、成績も優秀だ。性格は控えめで、悪く言えば地味、よく言えば大人っぽい落ち着きがある。
クラスの中では、あまり目立たない男子だ。
美羽にとっても、ただのクラスメートの一人だった。
その時までは――――。
きっかけは、些細なことだった。
社会の授業中だった。
グループに分かれて、話し合いをしている最中だった。
三浦君は、隣のグループだった。
美羽も三浦君も端に座っていた。
美羽の斜め向かいが、三浦君の机だった。
話し合いの途中で、美羽の小指がうっかり消しゴムを弾き飛ばして、机から転がり落ちた消しゴムが三浦君の靴に当たったのだ。
美羽は、「やっちゃった」と首を竦ませた。
相手が女子の誰かだったら、謝って拾ってもらうなり、一言断って足元に手を伸ばすなりするところだけれど、あまり話をしたことがない男子だったので、どうしていいのか分からなくなった。
三浦君は、足元の小さな衝撃に気づいていたようで、美羽が何か言うまでもなく、椅子に座ったまま、しなやかな動作で追突者を拾い上げた。持ち主を探して視線を彷徨わせる三浦君と、あわあわしている美羽の視線が出会った。
三浦君は、一目で美羽が犯人だと見抜いた。
三浦君は、そっと優しく笑って、美羽に向かって手を伸ばし、消しゴムを差し出した。
「はい。これ、倉橋さんのでいいんだよね?」
「あ、う、うん。ご、ごめんね? あり、ありがとう」
「どういたしまして」
拾わせてしまった罪悪感も相まって、美羽はどぎまぎしながら手を伸ばし、消しゴムを受け取る。
それだけ。
ただそれだけで、使いかけの白い消しゴムは美羽の宝物になった。
今は、貰い物の高級なチョコレートが入っていた綺麗な缶の中にしまわれている。
落ち着いた薄緑に深紅のバラが描かれた、手のひらサイズの小さくて丸い缶。
その中に、ふわっと丸めたテッシュを敷き詰め、ベッドを作った。真ん中に、消しゴムをのせ、周囲を細いリボンで彩る。薄紫と濃ピンクのリボン。
美羽は、ただの消しゴムを高価な宝石のように扱った。
決して取り出したりせず、缶の蓋を開け、ただただ眺めるのだ。
思い出すのは、消しゴムを差し出してくれた三浦君の長くてしなやかな指だった。
美羽よりも長くて、しなやかに動いて、しっかりとした男の子の指。
それから、押しつけがましいところのない柔らかな笑顔。
すぐに揶揄ってきたり、ぶっきらぼうだったりする男子は苦手だった。たとえそれが、照れ隠しだったのだとしても。
消しゴムを見るたびに思い出す、あの一瞬のすべてが、美羽の宝物だった。
学校へ通うのが、格段に楽しくなった。
気が付けば、目で追っている。
今まで見過ごしていた控えめな優しさを知って、ほんのりと火を灯し、心をざわつかせ。
同時に、どうして気づかなかったのかと悔しい思いもした。
それらは、どれも。
本当に些細なことばかりだった。
ゴミ箱の脇に落ちていた丸めたテッシュに気づいて、何も言わずにそっと拾い上げてゴミ箱に入れたり、とか。
授業中、ちょっぴりウトウトしていた隣の席の子が突然指名され、「続きを読むように」と言われて焦っていた時に、そっとさりげなく自分の教科書をその子の側に寄せて、トントンと指で「ここからだよ」と教えてあげたり、とか。
小さなことを一つ一つ拾い上げては、あの缶の中に、消しゴムと一緒にしまい込むのだ。
日に日に増えていったそれらは、缶の蓋を開けるたびに、消しゴムの思い出と一緒に溢れ出し、美羽の心をざわつかせ、甘く締め付けた。
だけど。
気づいたのは、いいことばかりでもなかった。
後藤加奈。
学年で一番の美少女だと男子たちが騒いでいる、隣のクラスの女子生徒。
くっきりした二重瞼と綺麗にカールした長い睫毛。はっきりとした派手目の顔立ちのアイドルのような美少女。毛先が綺麗にカールした栗毛色の長い髪は、染めているわけではなく、天然ものなのだと自慢していた。
本人も自分の美貌は自覚していて、時に女王様のようにふるまい、時に思わせぶりな態度で男子を惑わせたりしている。
似た属性の取り巻きはいるけれど、女子全般からの評判は、当然あまりよろしくない。
休み時間や放課後、彼女は時折美羽のクラスにいる友達なのか取り巻きなのか分からない生徒を尋ねてやって来た。自分のクラスでもないのに、「来てあげたのよ」と言わんばかりに中に入ってきて、さも自分がこのクラスの中心であるかのように声を潜めることなくお喋りに興じる。
後藤加奈の訪問を待ちわびていた男子たちは、はっきりあるいはこっそりと彼女の登場を喜び歓迎した。女子たちは、基本的には冷ややかだ。後藤加奈に対しても、その来訪に浮き立つ男子たちにも。
男子たちは、クラスの女子たちの温度に気づいていないが、後藤加奈は気づいたうえで、それすらも楽しんでいた。聞えよがしな「また、始まった」の声にも、そちらへ視線を向けることすらなく、口の端に勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
嫌な女――――。
そう、美羽も思っていたけれど、それだけだった。
同じクラスなわけではないし、気まぐれな来訪は、毎日のことではなかったからだ。
けれど、美羽は気づいてしまった。
後藤加奈が美羽のクラスにやってくるのは、三浦君が教室にいる時だけだと。
それだけじゃない。後藤加奈は、必ず三浦君の席の傍を通って、お友達とやらのところへ行くのだ。すれ違う時には、いつも髪をかき上げる仕草をしていた。時には、よろけたふりをして机にぶつかり、謝罪を口実に軽い会話を交わしたりもしていた。
三浦君が、その他大勢の一人だった時には、気づかなかったことだった。
嫌悪よりも、恐怖が勝った。
特にとりえもなく、すべてにおいて平均点な美羽にとって、後藤加奈は脅威だ。
今のところ、三浦君が後藤加奈のそれとない秋波に靡いた様子はない。
後藤加奈に対しても、他の女子と変わらない態度で接している。
だけど、油断も安心も出来ない。
もしも、後藤加奈が本気でアプローチをしかけたら………。
そんなこと、考えるのも嫌だった。
浮き立つような気持ちは、みんな何処かへ逃げ出してしまった。
それからは、いつ割れるともしれない薄氷の上を常に歩いている気分だった。
冷たく暗い水底と隣り合わせな毎日。
芽生えたばかりのそれを失う恐怖を怒りへ塗り替えたのは、女子トイレでの一幕だった。
美羽的には衝撃の一幕だったけれど、傍目にはよくある日常の光景だった。
用を済ませた美羽が手を洗っていたら、後藤加奈が《お友達》とお喋りをしながらやって来たというだけだからだ。
問題は、お喋りの内容だった。
「隣のクラスの三浦君ってさ。成績はいいらしいけど、地味だし、大してかっこよくないよね? なのに、なんで? 微妙に気にしてるよね?」
「ん? ああ。彼の家、大地主さんらしくてさ。不動産とかいっぱい持ってるらしいんだよね。三浦君本人には、別に興味ないんだけど、彼の方がこっちに夢中になってくれるんなら悪くないなって思って、種を蒔いてんの」
腹の底で、カッと何かが燃え上がった。
足元の薄氷は消え、煮えたぎるマグマが全身を駆け巡る。
出口を求めて、美羽の体内を暴れまわる。
許せなかった。
美羽のように、三浦君のいいところに気づいてささやかなアピールを繰り返していたというのなら、それが実を結んだというのならば、美羽は水底へ沈んでいくしかないと半ば諦めていた。
でも、こんなのは許せない。
だけど、どうすればいいのか分からなくて。
もういっそ、ダメもとで告白してしまおうか――――なんて思い詰めつつも、決定打とは言えないその案を実行する勇気もなくて、ジリジリと焼け焦げるような焦燥を持て余していた美羽は、数日後――――。
三浦君のことなんてすっかり忘れ去って、町外れの洋館に通い詰めていた。
引き金を引いたのはまたしても、後藤加奈だった。




