4 泉の妖精と囚われの彼
ザッ、ザザッとバラの生け垣を揺らす音。
狂ったようにハートを求める声。
異形は今も、すぐそこにいる。
なのに、終わりの時は、いつまで経ってもやって来なかった。
「ハートヲチョウダイ! ハートヲチョウダイ! ハートヲチョウダイ!」
禁断症状を起こした麻薬中毒患者の怨霊のようにハートを欲しながらも、異形は生け垣を越えようとはしてこない。
狂ったようにハートを求め、騒いでいるけれど、その意識は美羽には向いていなかった。生け垣のすぐ下に美羽が潜んでいることに、気づいていないようだ。
やがて、怨霊は勝手に鎮まっていった。
「ハートヲチョウダイ……。ハート……ハートヲ……チョウダイ…………」
狂乱は冷めやり、虚ろが響く。
やがて、虚ろな声は。
ゆっくりと茂みを掻き分ける音と共に遠ざかっていった。
「はぁああああああ…………」
「でかしたわ! 美羽! よく我慢したわね!」
「はえ~~?」
大きく息を吐きながら美羽は脱力した。アリンが褒めてくれたけれど、それを喜ぶ気力はなく、力のない返事を緩んだ口の端から洩らす。
「言ったでしょ? あいつら、ポンコツだって。下手に逃げるよりも、隠れてジッとしてるのが正解なのよ。見失ったところまで駆けつけて来て騒ぎ立てるくせに、探そうとはしないのよね。それで、その内勝手に大人しくなって、元来た道を引き返していくのよ」
「あー……。なんか、ホラーゲームの序盤の方に出てくる雑魚キャラっていうか、お化け屋敷のしかけっぽいっていうか。見掛け倒し……?」
完全に座り込んだ美羽の太ももの上に立ち、アリンは自分の手柄でもないのにフフンと胸を張った。確かに……と異形の行動を思い返しながら、美羽は丸めていた背中を伸ばす。
「まあ、そうね。パニックになって、闇雲に走り出したりさえしなければ、割と余裕でやり過ごせるわね」
「ふむ……?」
「森を進んでいる間は、下手にカードを使って戦うよりも、隠れた方が安全なの」
「なるほど?」
美羽は元気を取り戻し、目を輝かせた。
カードを持たない美羽にとって、それは朗報だった。
けれど――――。
「まあ、お城の中は異形がうじゃじゃいるから、この戦法だけじゃ王子様の元にまで辿り着けないけれどね。ま、切り札として温存しておきなさい」
「うっ……。は、はい」
最終的にはカードに頼る必要があると告げられて、美羽は顔を引きつらせた。温存も何も、そもそもカードを持っていないのだが、それを伝えるわけにもいかず、ギクシャクと頷く。
襲撃のショックを引きずっていると思ったのか、アリンは美羽のぎこちなさに言及することなく、“もっ”と片手を上げて、バラの小道の先を指示した。
「それよりも、あそこを見てごらんなさい。生け垣が途切れて、アーチになっているところがあるでしょう?」
「……え? あ、ホントだ」
「あそこに妖精の泉があるの。行ってみま」
「よし! 行くよ!」
小道の前方左手。異形の襲撃を受けたのとは逆側にバラのアーチがあるのを見つけた美羽は、目を輝かせ、アリンに最後まで言わせず立ち上がり、走り出した。
もちろん、アリンはしっかり抱えている。
カードを持っていないことへの不安を忘れ、胸も息も弾ませる。
アーチの手前で、美羽は足を止めた。
歌声が聞こえてきたからだ。
ラララ……と歌っているだけで、歌詞はないようだった。
水の流れる音にも似た、心地よい旋律が、儚くも美しい生き物を想像させる。
泉の妖精が歌っているのだろう。
無作法に駆け込んで、可憐で繊細な妖精をびっくりさせてはいけないと、美羽はまず深呼吸をして呼吸を整えた。
充分に息が整ったところで、期待に胸を高鳴らせながらアーチへ向かう。アーチをくぐる前に一声かけるべきだろうかと考え、アーチの正面で足を止め、中を覗き込み、真顔になる。
立ち止まったまま、腕の中のアリンを見下ろし、納得したように頷いた。
泉の妖精と聞いて期待しすぎたことを反省してもいた。
泉……とアリンは言った。が、そこにあるのは美羽からしたら少し大きめの水たまりだった。
美羽の部屋くらいの、こんもりした木に囲まれた空間。
足元には、タンポポが咲き乱れていて、その真ん中に水たまりがある。
なるべくタンポポを避けながら、美羽は水たまりへと足を進めた。
期待混じりの緊張は、もうどこにもない。
水たまりの淵まで来ると、美羽はしゃがみ込んだ。
水たまりは、水たまりにしては割と深めで、そこにはビー玉が敷き詰められていた。ビー玉みたいな石じゃなくて、本当に本物のビー玉だ。中に、赤や黄色や青の模様が閉じ込められているまん丸なガラス玉。
木立が途切れているせいで、差し込む陽ざしを反射して、とても綺麗だ。
バラの生け垣やアーチと比べると少しばかり子供っぽい空間ではあったが、それがまたメルヘンチックだった。
なのに、どこか冷めた目線で、美羽は水たまりの上で歌いながら飛んでいるソレを見つめる。
ソレは、フェルトで作られた妖精だった。
可愛いことは可愛い。けれど、儚さは微塵も感じられない。
歌声と見た目がマッチしていない。
正直なところ、アーチ越しに見た時は、虫が飛んでいるのかと思った。
近寄ってみれば、フェルトの羽を生やした女の子の人形で、妖精と言われれば妖精だ。
顔は、青いビーズ、口はピンクの刺繍糸。髪の毛は黄色い毛糸だった。
どこか、アリン味のある顔立ちが、余計に美羽をスンとさせる。
「こんにちは。わたしは泉の妖精よ」
「あ、こ、こんにちは。美羽……です」
美羽が声をかける前に、妖精は歌うのを止め、美羽の顔の前まで飛んで来て挨拶をした。
美羽も慌てて、挨拶を返し、名を名乗る。
妖精は、台本を読み上げるように美羽に語りかけた。
「あなたに、祝福を捧げます。どうか、あなたの愛が本物でありますように。あなたの真実の愛で、王子様が救われますように」
口調は厳かなのだが、いかんせんフェルト製のマスコットなので、微妙にありがたみに欠けた。子供だましの人形劇を鑑賞している気分だ。アリン味のある顔も、緊張を削ぐ。
「え、えと。ありがとう。それで、その。真実の愛って?」
「あら、魔女の呪いを解くのは、真実の愛と相場が決まっているでしょう?」
美羽の問いに答えたのは、妖精ではなくてアリンだった。
「し、真実の愛?」
顔を赤らめながら尋ね返すと、妖精の体が上下に揺れた。たぶん、頷いたつもりなのだろう。
「その通りよ。真に王子様を想う気持ちだけが、王子様を救うことが出来るの。どうか、あなたのハートで、王子様を救ってあげて。魔女はこの先、様々な罠を仕掛けてくるはず。でも、決して、惑わされないで。自分を信じるの。王子様を想う、自分の心だけを信じて」
そう言うと妖精は、水たまりの上をぐるりと一周した。
「泉よ、応えて。王子様のため、単身で魔女に挑む姫のために、せめて。王子様のお姿を見せてあげて」
「あ……」
水が、淡く光り輝いた。
水面が揺れ、水の中から冷たい風が吹きあがってくる。滝の傍に行った時のような、ひんやりとした水気を含んだ心地よい風。
風が止むと、水面に、奇跡のような美貌が映し出された。
誰かを待っているような、待ちわびているような顔。
何かを、誰かを、焦がれてやまない顔。
美羽は、腕の中の人形をギュッと強く抱きしめた。
美羽が焦がれてやまない顔。
人形のように整った顔立ち。
美羽が魅かれた静かなまなざしは、今。
何かを切望し、熱を孕んでいる。
彼は美羽を待っているのだ。
美羽を待ち望んでいるのだ。
他の誰かじゃなく、美羽を。
だって、彼こそが、美羽をこの絵本の世界へと誘ったのだから。
「絶対に、あたしが助けてみせる! 必ず、あたしが助けるから! だから、信じて待っていて!」
美羽は水面に身を乗り出し、水面に映る姿に向かって叫んでいた。
でも、こちらからの声は聞こえていないようだった。
どんなに叫んでも、彼と目が合うことはない。
「お姿を見ることは出来るけれど、声を届けることは出来ないの」
妖精の声とともに、王子の姿が滲んでいく。
それは、妖精の魔法が切れたせいでもあるけれど、美羽自身の視界がぼやけたせいでもあった。
瞼が熱を帯びていく。
ポタリ、ポタリと、泉の中に熱い滴が落ちていく。
「どうか、可哀そうな王子様を助けてあげて。それが出来るのは、あなただけだから」
「うん……。うん…………」
しゃくり上げ、手の甲で目元を拭いながら、美羽は何度も何度も頷いた。
それが、アリンに向けられたセリフかもしれないとは、露ほども思わなかった。
アリンも何も言わなかった。
美羽の気持ちが落ち着くまで、アリンはずっと。
王子の消えた泉を見つめていた。
王子の残像を追い求めるように――――。




