第6話 切り裂いた夜の向こうで
壊れた玄関から入ってくる夜風は、思っていたより冷たかった。
さっきまでそこに扉があったはずなのに、今はもうない。外と内を分けていたものが、音もなく切り裂かれて、床の上にただの板切れとして転がっている。昨日、宵が玄関を見て「境界がある」と言ったことを、不意に思い出した。
外と内を分けるもの。
安全と危険を分けるもの。
俺たちの生活と、俺の知らない世界を分けるもの。
その境界は、白群の手であまりにも簡単に壊された。
「……どうするんだよ、これ」
自分でも場違いなことを言っていると思った。
でも、そうでも言わないと、頭が追いつかなかった。
星の鍵。覚醒。破壊と再生。対象の排除。
宵の仲間である白群。
あまりにも大きすぎる言葉ばかりが突然押し寄せてきて、俺の中にある現実の器から全部こぼれそうになっていた。だから、壊れた玄関を見て「修理しないと」と思うくらいが、まだ人間らしくいられる限界だったのかもしれない。
宵は、しばらく黙って玄関の残骸を見ていた。
その横顔には、疲れが滲んでいる。白群を退けたときの力が何だったのか、本人にも分かっていないのだろう。肩が少しだけ上下していて、呼吸もいつもより浅い。
「昴」
宵が小さく呼んだ。
「何だ」
「ここは、もう安全ではない」
「だろうな」
分かっていた。
言われなくても、さすがに分かる。
家の中なら大丈夫だと思いたかった。昨日までの普通を、せめてこの場所だけには残しておきたかった。でも、扉を裂かれた家の中でそんなことを思うのは、もう無理だった。
「でも、今すぐどこかへ行くにしても……」
言いかけて、言葉が止まる。
どこへ?
警察か。無理だ。玄関の説明も、白群の説明もできない。
病院か。宵を連れて? もっと無理だ。
友人の家か。そんな相手に、隕石から来た少女と一緒に助けてくれなんて言えるはずがない。
どこにも行けない。
そう理解した瞬間、家の中が急に狭くなった気がした。
「白群は、また来る」
宵が言った。
「たぶん、すぐに」
「さっき退いたばかりだろ」
「再評価すると言っていた。あれは、準備を整えるという意味に近い」
「準備って……俺を殺す準備か」
自分で口にして、喉の奥が冷えた。
宵は否定しなかった。
ただ、静かに頷いた。
「昴の排除と、私の停止」
「停止って何だよ」
「多分、動けなくすること。壊すことではないかもしれない。でも、私が抵抗できない状態にする」
「それ、ほとんど壊すのと変わらないだろ」
宵は何も言わなかった。
夜風がまた吹き込んで、床の上の破片を小さく揺らした。
俺はとりあえず、壊れた扉の残骸を壁際へ寄せた。修理なんてできない。せいぜい、大きな板を立てかけて外から中が丸見えにならないようにするくらいだった。
宵も手伝おうとしたが、俺は止めた。
「お前は休め」
「動ける」
「さっき吹き飛ばされただろ」
「損傷は軽微」
「そういう言い方するやつほど信用ならないんだよ」
そう言うと、宵は少しだけ黙った。
「昴も、怖いのに動いている」
「俺は動かないと何もできないからだよ」
「私は?」
「お前も同じかもしれないけど、今は少し休め」
宵は納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。
居間へ戻り、俺たちはしばらく黙って座った。
外ではまだサイレンが遠くで鳴っていた。二度目の落下地点へ向かう車の音だろう。町全体が眠りから叩き起こされているはずなのに、この家の中だけは妙に切り離されているようだった。
「白群は、お前の仲間なんだよな」
沈黙に耐えきれず、俺はそう聞いた。
宵は少しだけ視線を落とす。
「多分」
「多分って」
「名前は分かった。声も、存在も、知っている感じがした。でも、思い出せない」
「仲良かったとか、そういうのも?」
「分からない」
「そっか」
分からないばかりだ。
俺も、宵も。
でも、白群だけは違った。
あいつは何かを知っている。宵のことも、俺のことも、星の鍵とかいう訳の分からないものも、たぶん全部。
そして、そのうえで俺を殺そうとしている。
「白群は、悪いやつなのか」
ぽつりと呟いたのは、宵だった。
俺はすぐに答えられなかった。
悪いやつ。
そう言ってしまえば簡単だ。家の扉を壊して、俺を殺そうとして、宵を停止させると言った相手だ。こっちからすれば、完全に敵だ。
でも、白群の言葉を思い出す。
星の鍵が覚醒すれば、この星は破壊と再生の周期に入る。
現文明の存続確率は限りなく低い。
処置は早いほどよい。
あいつは、ただ殺したいから殺そうとしているわけではなかった。
怖いほど冷静に、何かを守ろうとしていた。
「……分からない」
俺は正直に言った。
「俺を殺そうとしてる時点で、俺にとっては最悪だけど」
宵がこちらを見る。
「でも、白群にとっては正しいのかもしれない」
言葉にして、胸の奥が少し痛んだ。
「俺が本当に危険なら、あいつは世界を守ろうとしてるだけかもしれない」
宵は静かに聞いていた。
「昴は、自分が危険だと思うのか」
「思いたくない」
即答だった。
「でも、そう言われたら……考えるだろ」
自分が知らないだけで、本当に何かを壊す存在なのだとしたら。
覚醒なんてものが本当にあって、俺の中にその鍵があるのだとしたら。
それは俺の責任なのか。
俺が望んでいなくても、危険なら消されるべきなのか。
考えたくもない問いが、勝手に胸の奥で形を取り始める。
宵は少しだけ手を伸ばした。
俺の袖に、指先が触れる。
昨日までなら、彼女は距離の取り方を知らずに近づいてきた。でも今の触れ方は違った。触れてもいいか迷って、それでも確かめるように、ほんの少しだけ袖を掴む。
「私は、昴を消したくない」
その声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
「理由は、まだ全部は分からない。でも、消したくない」
「……そっか」
それだけしか言えなかった。
何か気の利いたことを言うべきだったのかもしれない。ありがとうとか、助かったとか、そういう言葉を。けれど、そのときの俺には、宵の「消したくない」という言葉があまりにも大きくて、受け止めるだけで精一杯だった。
その夜、俺たちはほとんど眠らなかった。
明かりを消すこともできず、壊れた玄関のほうを何度も気にしながら、ただ時間が過ぎるのを待った。宵は居間の入り口近くに座り、俺は机のそばで膝を抱えていた。
朝が来れば、少しはましになる。
何の根拠もないのに、そう思いたかった。
けれど、夜明け前が一番暗いという言葉があるなら、それはたぶん本当だった。
白群が再び現れたのは、空が白み始める少し前だった。
音はなかった。
チャイムも鳴らなかった。
ただ、部屋の空気が一瞬だけ変わった。
宵が顔を上げる。
それと同時に、玄関に立てかけていた板が、縦に裂けた。
木片が床へ落ちるより早く、白群はそこにいた。
昨夜と同じ黒っぽい服。整いすぎた姿勢。感情の薄い目。
まるで夜そのものが人の形を取ったように、壊れた玄関の向こうに静かに立っていた。
「再訪しました」
白群は言った。
朝の挨拶みたいな声音だった。
俺は反射的に立ち上がる。
宵も、俺の前へ出た。
「白群」
宵の声には警戒があった。
白群は彼女を見た。
「宵。再評価は完了しました」
「何を」
「あなたの状態です。記憶欠損、任務不履行、対象への情動的接近、戦闘機能の不完全発現」
淡々と並べられる言葉が、嫌に冷たかった。
「結論として、あなたは現在、正常な判断能力を保持していません」
「私は――」
「よって、あなたの意志は参考情報に留めます」
白群は宵の言葉を遮った。
それが命令のように聞こえた。
「対象、昴の排除を優先します」
「させない」
宵が即座に言う。
白群の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「その反応も、予測内です」
次の瞬間、白群の姿が消えた。
いや、消えたように見えた。
宵が俺の身体を突き飛ばす。
「下がって!」
その声と同時に、さっきまで俺の顔があった場所を、見えない線が通過した。
後ろの柱に、すっと細い切れ目が入る。
一拍遅れて、柱の表面がずれる。
血の気が引いた。
もし宵に押されていなかったら。
その想像だけで、膝が抜けそうになる。
白群はもう居間の中にいた。
速すぎる。
昨日も速かった。でも今は、さらに迷いがない。こちらが構えるより早く、次の動作へ移っている。
宵が飛び込む。
白群の手が空間をなぞる。
宵はそれをギリギリで避け、床を蹴った。畳がへこみ、細かな繊維が舞う。人間の動きじゃない。けれど白群は、そのさらに上をいくように身体をずらした。
二人の間で、空気が何度も裂けた。
目にはほとんど見えない。
ただ、結果だけが残る。
壁に細い切れ目が走る。
棚の角がずれる。
カーテンの端が音もなく落ちる。
何もないはずの空間に、刃がある。
宵はそれを避けている。あるいは、相殺しているのかもしれない。でも明らかに、防戦だった。昨日、白群の一撃を防いだときの力は、今も完全には扱えていないらしい。
「宵」
白群が言う。
「あなたの戦闘機能は本来、その程度ではありません」
宵は答えず、拳を振るう。
白群は受け流す。
宵の動きは速い。速いはずだ。でも、白群には届かない。あと一歩、いつも足りない。何かの使い方を忘れているせいで、自分の身体の性能に追いつけていないみたいだった。
「思い出しなさい」
白群の声が低くなる。
「あなたは、我々の戦闘型の中でも最上位の個体です」
宵の動きが、一瞬だけ鈍った。
「最上位……」
「そうです。あなたが正常であれば、私が対象に近づくことすらできなかった」
白群の手が、宵の脇腹に触れる。
ただ触れただけに見えた。
次の瞬間、宵の身体が横へ飛んだ。
壁に叩きつけられる。
「宵!」
叫んで駆け寄ろうとした俺の前に、白群が立つ。
いつの間に。
本当に、いつ動いたのか分からない。
「動かないでください」
昨日と同じ声。
穏やかで、残酷な声。
「あなたの苦痛を長引かせる意図はありません」
「ふざけんな……」
声は震えていた。
怖かった。
どうしようもなく怖い。
目の前にいるものは、人間じゃない。宵もそうだと分かっていたけれど、白群はもっとはっきりと違う。人の形をしているだけの、完成された刃みたいだった。
でも、逃げることもできなかった。
宵が倒れている。
俺だけ逃げるなんて、できるわけがない。
「俺を殺せば、本当に全部解決するのかよ」
気づけば、そう言っていた。
白群の手が止まる。
「少なくとも、この星が現在のかたちで存続する可能性は上昇します」
「俺は何も知らない」
「知る必要はありません」
「俺が何かしたのか」
「まだ何も」
「じゃあ何で!」
声が荒くなる。
「まだ何もしてないなら、何で今殺されなきゃいけないんだよ!」
白群は静かに俺を見た。
その目に怒りはない。
同情もない。
ただ、揺るがない答えだけがあった。
「あなたが何かをしてからでは遅いからです」
息が詰まった。
「星の鍵は、覚醒すれば個人の意思を超えて機能する。あなたが望むか望まないかは関係ありません。破壊と再生は、この星に刻まれた機構です」
「そんなの……」
知らない。
認められない。
でも、否定する材料もない。
白群は続ける。
「我々を作った者は、この星を愛していました」
その言葉だけ、わずかに色が違った。
「遠い昔、この星で得た記憶を、最後まで捨てられなかった。だから我々はここに来た。星の鍵が開く前に、終末の起点を取り除くために」
科学者。
宵たちを作った存在。
地球でよい記憶を得た誰か。
それが白群たちを送り込んだ。
地球を守るために。
俺を殺すために。
「……勝手だろ」
俺は呟いた。
「そいつがこの星を好きだったからって、何で俺が殺されなきゃいけないんだ」
白群は何も言わなかった。
たぶん、答えは最初から決まっている。
個人の命と、星の未来。
天秤にかけるまでもない。
そういうことなのだろう。
白群の指先が、わずかに動いた。
空気が細く歪む。
「会話は十分です」
死ぬ。
今度こそ、そう思った。
でも次の瞬間、白群の身体が横へ弾かれた。
宵だった。
倒れていたはずの宵が、白群に体当たりするように飛び込んでいた。
二人が廊下のほうへ転がる。
「逃げて、昴!」
宵が叫ぶ。
初めて聞くくらい、切迫した声だった。
逃げろ。
そう言われても、身体が動かない。
宵が白群を押さえ込もうとする。けれど白群は冷静に腕を払った。宵の身体が再び吹き飛び、今度は台所の入り口へ叩きつけられる。
それでも、宵は立ち上がる。
ふらついている。
明らかに限界が近い。
「どうしてそこまで抵抗するのです」
白群が問う。
「記憶もない。任務も忘れた。自分の存在理由すら失っている」
宵は息を荒くしながら、俺の前に立った。
「分からない」
その声は震えていた。
「でも、昴が消えるのは嫌だ」
「嫌」
白群がその言葉を繰り返す。
「それは判断ではなく感情です」
「そうかもしれない」
「感情は誤差です」
「でも」
宵は顔を上げる。
「今の私には、それしかない」
部屋の空気が、わずかに変わった。
宵の周囲だけ、夜が深くなる。
そう感じた。
彼女の指先が震えている。
でもそれは恐怖の震えではなかった。何かが、内側から目を覚まそうとしている。忘れていた回路に、無理やり光が流れ込んでいくような、そんな気配だった。
白群も気づいたらしい。
「危険です、宵」
初めて、その声にわずかな焦りが混ざった。
「不完全な状態でそれを使えば、あなた自身が壊れる」
「壊れる」
宵はその言葉を呟く。
昨日、地面を割ったときと同じ言葉。
でも今度は、意味を知っているみたいだった。
「それでも、昴を消されるよりはいい」
次の瞬間、宵の足元から空気が裂けた。
見えない刃ではない。
もっと広い。
もっと深い。
空間そのものに、黒い線が走る。
部屋の中の光が、その線へ吸い込まれるように歪む。
白群が後退する。
初めて、自分から距離を取った。
「空間断裂……記憶なしで、そこまで」
宵は右手を前に出した。
その指先の前に、細い線が生まれる。
昨日の不安定なものとは違う。白群の刃とも違う。宵のそれは、静かで、深く、まるで夜空にひびを入れたみたいだった。
「昴に、近づくな」
宵が言う。
その瞬間、線が走った。
白群は避けた。
けれど完全には避けきれなかった。黒い服の袖が、音もなく切り落とされる。さらに背後の廊下の壁に、深い切れ目が入った。
白群の表情が変わる。
驚き。
ほんの僅かだけれど、確かに。
「出力が戻っている」
「分からない」
宵は言った。
「でも、今は使える」
白群が再び構える。
そこからは、俺にはほとんど見えなかった。
白群の刃が、無数に走る。
宵の断裂が、それを断ち切る。
空気がきしむ。
壁が裂ける。
床が削れる。
家全体が、見えない嵐に巻き込まれているみたいだった。
俺は部屋の隅に転がるように逃げ、ただ二人を見ることしかできない。
怖い。
でも、目を逸らせなかった。
宵が戦っている。
俺を殺すために作られたはずの彼女が、俺を守るために、自分の仲間と戦っている。
その事実が、痛いくらい胸に刺さった。
白群が低く踏み込む。
宵の断裂の隙間をすり抜け、距離を詰める。
「まだ甘い」
白群の手が宵の胸元へ伸びる。
「守る対象があると、動きが鈍る」
宵が反応するより早く、白群の刃が俺のほうへ向いた。
囮だった。
最初から、宵を揺らすために。
「昴!」
宵が叫ぶ。
白群の刃が、俺へ走る。
俺は動けない。
今度こそ、避けられない。
その瞬間、宵が俺の前に割り込んだ。
刃が、宵の肩を裂く。
赤いものが散った。
初めて見る、宵の血だった。
それが本当に血なのかどうかは分からない。けれど、赤く見えた。あまりにも人間らしくて、俺の頭は一瞬真っ白になる。
「宵!」
宵は倒れなかった。
肩を押さえもせず、ただ白群を見た。
その目が、静かに変わる。
冷たさではない。
怒りでもない。
もっと強い何か。
「昴を、傷つけようとした」
声が低くなる。
白群が距離を取る。
「宵、制御を失っています」
「違う」
宵の足元に、再び黒い線が走る。
「今、少し分かった」
部屋の中の空間が、軋む。
床も、壁も、天井も、全部が薄い膜になったみたいに震える。
「これは、切る力じゃない」
宵は右手を上げる。
その指先が、夜を掴むように動く。
「境界を、選ぶ力」
黒い線が、白群の周囲に幾重にも走った。
白群が動こうとする。
しかし、その動きが一瞬止まる。
いや、止められている。
宵が、空間の境界を切り分けているのだと、理屈ではなく感覚で分かった。
白群だけがいる場所と、それ以外の場所を、薄い壁で隔てるように。
「……まさか」
白群の声に、初めて明確な動揺が混ざる。
「記憶なしで、領域切断を」
宵は何も答えなかった。
ただ、手を振り下ろす。
黒い線が収束する。
白群は咄嗟に身を捻り、ぎりぎりで直撃を避けた。だが左腕に深い切れ目が走り、身体が玄関の外へ弾き飛ばされる。
地面に叩きつけられる音がした。
宵はふらつきながらも、玄関へ向かう。
俺も慌てて後を追った。
外には、白群が片膝をついていた。
初めて、あいつが弱っているように見えた。
切られた袖から見える腕には、赤ではない、淡い銀色のような光が滲んでいた。血なのか、何なのか分からない。
白群はゆっくりと立ち上がる。
その目は、もう俺ではなく宵を見ていた。
「やはり、あなたは危険です」
宵は息を荒くしながら、それでも俺の前に立つ。
「昴を消させない」
「その判断はいずれ、この星を滅ぼします」
「それでも」
宵の声は掠れていた。
「今の私は、昴を守る」
白群はしばらく黙っていた。
やがて、静かに息を吐く。
「今回の戦闘継続は不利と判断します」
退く。
そう言っているのだと分かった。
けれど、安心はできなかった。
白群の目は、まだまったく折れていない。
「次は、私だけでは来ません」
その一言に、夜の温度がさらに下がった気がした。
「宵。あなたの異常は報告されます。対象の生存も確認済み。星の鍵の周辺状況は、想定よりも悪化しました」
「……白群」
宵が呼ぶ。
白群は少しだけ動きを止めた。
宵は何かを言おうとした。
けれど、言葉は出なかった。
仲間だったのかもしれない相手。
自分の過去を知っているかもしれない相手。
でも今は、敵としてしか向き合えない相手。
その距離を、宵自身も測れずにいるのだろう。
白群は静かに言った。
「あなたが本来の自分を思い出すことを望みます」
その言葉だけは、少しだけ違って聞こえた。
命令でも、警告でもなく。
ほんの僅かに、祈りに近い響きがあった。
「そのとき、あなたは今日の選択を悔いる」
白群の姿が、夜の中へ溶けた。
今度は追うこともできなかった。
宵はしばらく、白群が消えた方向を見ていた。
それから、糸が切れたみたいに膝をつく。
「宵!」
慌てて支える。
身体が軽い。
でも、肩の傷からは確かに赤いものが滲んでいる。
「おい、血……!」
「問題ない」
「問題あるだろ!」
「致命傷ではない」
「そういう話じゃない!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
宵が少しだけ目を見開く。
怒鳴ったことに気づいて、俺は一瞬言葉を失った。
「……悪い」
小さく言う。
「でも、目の前で怪我されたら、普通は焦るんだよ」
宵は肩の傷に視線を落とした。
「昴は、私の損傷を見て焦る」
「当たり前だろ」
「私は、昴を殺すために来たかもしれないのに」
その言葉に、胸が詰まる。
「かもしれない、じゃなくて、たぶんそうなんだろ」
俺は言った。
宵の目が揺れる。
「でも、今は違う」
言い切った。
怖かった。
本当は、全部が怖い。
宵の力も、白群の言葉も、自分の中にあるかもしれない星の鍵も、何一つ分からない。
それでも、これだけは言えた。
「今のお前は、俺を守ってくれた」
宵は何も言わない。
俺は続ける。
「だから、ありがとう」
その瞬間、宵の表情が崩れそうになった。
泣きそう、というのとは少し違う。そもそも宵が泣くのかどうかも分からない。でも、自分の中にないはずの何かを急に手渡されて、どう扱えばいいのか分からなくなったような顔だった。
「……感謝」
「そう」
「昴は、私を怖がるべきだ」
「怖いよ」
正直に言う。
「でも、怖いのと感謝してるのは別だ」
宵はゆっくりと瞬きをした。
「別」
「別だよ」
夜風が吹く。
壊れた玄関から、家の中へ冷たい空気が流れ込んでいる。
もう、この家は安全な場所じゃない。
それでも、宵を支えながら立っている今だけは、ここが俺たちのいる場所だった。
「中入るぞ」
「昴」
「何だ」
「私は、ここにいていいのか」
その問いは、あまりにも静かだった。
昨日、俺はたぶん似たようなことを言った。
ここにいていい、と。
でも今の問いは、もっと重い。
宵は自分の力を見せた。
俺を殺すための存在かもしれないことも、白群の口からほとんど確定した。
それでもまだ、ここにいていいのかと聞いている。
俺は少しだけ息を吸った。
答えは、もう決まっていた。
「いていい」
宵が俺を見る。
「本当に?」
「今さら追い出せるかよ」
そう言うと、宵は少しだけ戸惑ったように目を伏せた。
「私は、昴に危険を連れてくる」
「もう来てる」
「私は、昴を傷つけるかもしれない」
「そのときは止める」
「止められないかもしれない」
「それでも」
俺は宵の腕を支え直す。
「一人でどっか行かれるよりは、ここにいたほうがいい」
それが正しい答えなのかは分からない。
世界規模で見れば、間違っているのかもしれない。
白群の言う通り、俺が本当に危険な存在なら、俺を守る宵もまた危険なのだろう。
でも、今この瞬間に選べる答えは、それしかなかった。
宵はしばらく黙っていた。
それから、本当に小さく頷く。
「……分かった」
その声は、今にも消えそうなくらい小さかった。
けれど、確かに届いた。
部屋へ戻ると、改めて惨状が目に入った。
裂けた壁。切れた柱。壊れた玄関。散らばった家具。もはや普通の生活ができる状態ではない。
それでも俺は、まず救急箱を探した。
宵の肩の傷を手当てするためだ。
「これで足りるのか分からないけど」
消毒液とガーゼを取り出す。
宵は座布団の上に座り、肩の傷を見ていた。
「自然修復する」
「それでも手当てする」
「必要ない可能性が高い」
「必要かどうかは俺が決める」
強めに言うと、宵は少しだけ黙った。
それから、素直に肩をこちらへ向ける。
傷口は思ったより深くなかった。あれだけの刃を受けたにしては、むしろ浅いくらいだ。でも、痛々しいことに変わりはない。
消毒液を染み込ませたガーゼを当てると、宵がわずかに肩を揺らした。
「痛いか」
「少し」
「痛いって言えるんだな」
「今、分かった」
その返事が妙に宵らしくて、こんな状況なのに少しだけ笑いそうになる。
「じゃあ、覚えとけ。痛いときは痛いって言え」
「分かった」
傷を覆い、包帯を巻く。
手際はよくない。でも、何かをしていないと落ち着かなかった。宵が黙ってそれを受け入れているのも、少しだけ救いだった。
手当てが終わると、宵は包帯を見下ろした。
「これは、守るためのものか」
「そうだな」
「昴は、よく守ろうとする」
「お前に言われたくない」
そう返すと、宵は少しだけ首を傾げた。
「私は、守れたか」
俺はすぐに頷いた。
「ああ。守ってくれた」
宵は包帯に触れながら、静かに言った。
「なら、よかった」
その言葉は、とても小さかった。
でも、それまでのどんな言葉よりも人間らしく聞こえた。
夜明けが近づいていた。
カーテンの隙間から、薄い青が差し込んでいる。
昨日の夜から続いた出来事が、ようやく朝にほどけていく。だけど、朝が来たからといって何かが解決するわけじゃない。白群はまた来る。次は一人では来ないかもしれない。俺の中にあるという星の鍵も、何一つ分からないままだ。
それでも、ひとつだけ変わったことがある。
俺は宵の力を見た。
そして、宵が俺を守ることを選んだのも見た。
たぶん、それはもう戻せない。
「昴」
宵が呼ぶ。
「何だ」
「私は、白群を傷つけた」
「そうだな」
「仲間、かもしれないのに」
「……そうだな」
宵は膝の上で手を重ねた。
「胸の奥が、重い」
「それはたぶん、嫌だったんだろ」
「嫌」
「傷つけたくなかったってこと」
宵は静かに目を伏せる。
「でも、昴を傷つけられるのは、もっと嫌だった」
俺は何も言えなくなる。
朝の光が、少しずつ部屋を満たしていく。
壊れた家の中で、宵は自分の感情に名前をつけようとしていた。
任務ではなく。命令ではなく。記憶でもなく。
今、ここで生まれたものに。
「それでいいんじゃないか」
俺は言った。
「まだ、何も分からないけど。今は、それで」
宵はゆっくりと俺を見る。
「昴は、いつも分からないまま答える」
「悪かったな」
「悪いとは言っていない」
少しだけ間を置いて、宵は言った。
「私は、それに救われている気がする」
それがどういう意味なのか、俺にはうまく分からなかった。
でも、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「そっか」
そう返すのが精一杯だった。
外で、鳥の鳴く声がした。
こんな状況でも朝は来る。
家が壊れていても、命を狙われても、自分が星を壊す鍵かもしれなくても、朝はいつもの顔をしてやってくる。
それが少しだけ腹立たしくて、少しだけありがたかった。
俺は立ち上がり、壊れた玄関のほうを見た。
「まず、ここどうにかしないとな」
そう言うと、宵もゆっくり立ち上がろうとした。
「私も手伝う」
「怪我人は座ってろ」
「損傷は軽微」
「その言い方禁止」
宵が少しだけ目を瞬かせる。
「禁止」
「禁止」
そう言い切ると、宵はほんの少しだけ口元を動かした。
笑った、のだと思う。
まだぎこちない。
けれど、昨日の模倣みたいな笑みとは違っていた。
ちゃんと、内側から出てきたものに見えた。
その笑みを見た瞬間、俺は思った。
たとえ白群の言うことが正しくても。
たとえ俺が本当に、この星の終末につながる存在だとしても。
今ここにいる宵を、ただの兵器だとか、故障した個体だとか、任務を忘れた存在だとか、そんなふうにはもう見られない。
宵は宵だ。
昨日、名前をつけた。
今日、俺を守った。
それだけで十分だった。
少なくとも、今は。
そしてたぶん、その「今」を積み重ねることしか、俺たちにはできないのだと思う。
夜は切り裂かれた。
知らない世界の向こう側が見えてしまった。
でも、その裂け目のこちら側で、俺たちはまだ生きている。
宵が守った朝の中で。
俺は、初めてはっきりとそう思った。




