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星の鍵  作者: 蒼星静流
第1章 夜の裂け目から、朝がこぼれた
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第5話 星を殺すために来たもの

二度目の落下は、夜のかたちを変えた。


さっきまで部屋の中にあった静けさは、穏やかな眠りへ向かうためのものだったはずだ。今日一日をどうにか終えて、宵が「覚えていたい」と言った時間を、少しでも長く保っていたいと思っていた。けれど、遠くで響いた轟音が、その全部を一瞬で引き裂いた。


窓ガラスがかすかに震える。


棚の上に置いていた小物が、小さく音を立てて揺れた。


俺は布団の上で身体を起こしたまま、しばらく動けなかった。


また、落ちた。


その事実だけが、冷たい水みたいに胸の中へ広がっていく。


昨日と同じだ。


いや、同じではない。


昨日は何が起こったのか分からなかった。空から何かが落ちてきて、その中心で宵を見つけて、世界の側が勝手に狂ったのだと思っていた。


でも今は違う。


隣にいる宵が、はっきりと言った。


――あれは、私と同じだ。


その意味を、俺はまだ理解したくなかった。


「……同じって、どういう意味だよ」


声に出してみると、自分の声が思ったより掠れていた。


宵は窓のほうを見ていた。


暗い部屋の中、カーテンの隙間から差し込む夜の薄明かりだけが、彼女の輪郭を浮かび上がらせている。今日一日、少しずつ柔らかくなっていた表情は消えていた。代わりにそこにあるのは、昨日のクレーターで見せたものとも、俺を殺そうとしたときの冷たさとも違う、もっと深いところから来る緊張だった。


「分からない」


宵はそう言った。


「でも、身体が知っている」


その言い方が、妙に怖かった。


記憶ではなく、身体が知っている。


それはつまり、宵の中にまだ、本人も把握できていない何かが残っているということだ。言葉より先に反応するもの。思考より先に動くもの。たぶん、昨日俺へ向けられた刃と同じ場所から来るもの。


「行くのか」


聞くと、宵はすぐには答えなかった。


窓の外では、遅れてサイレンが鳴り始めている。昨日よりも遠い。落下地点はこの家から少し離れているらしい。それでも、同じ町の中で起きていることは間違いなかった。


宵はゆっくりとこちらを振り返る。


「行かないほうがいい」


「……お前が?」


「昴が」


その返事に、背筋が少し冷える。


「俺?」


「分からない。でも、昴が近づくのは危険だと思う」


「お前は」


「私は……」


そこで宵の声が途切れる。


彼女は自分の手を見下ろした。暗がりの中で、指先がほんの少し震えているように見えた。


「私は、確認する必要がある」


「何を」


「来たものが、何か」


言葉だけなら冷静だった。


でも、その声の底には、本人にも説明できない焦りが滲んでいた。


俺は布団から出て、立ち上がる。床に足をつけた瞬間、まだ残っているわずかな揺れが、身体の奥で思い出された。昨日の落下。白い閃光。クレーター。宵。


全部がつながっていく。


「一人で行かせるわけないだろ」


そう言うと、宵は即座に首を振った。


「昴は残るべきだ」


「残ってどうするんだよ」


「安全を確保する」


「この家が安全かどうかも分からないだろ」


宵は黙る。


正論を言ったつもりはなかった。むしろ、ただ不安をぶつけただけだ。でも実際、もう安全な場所なんて分からなかった。昨日からずっとそうだ。この家にいても、宵が突然俺を殺そうとすることがある。外へ出れば、また隕石が落ちてくる。


どこにいても、何かが近づいてくる。


そんな感覚があった。


宵はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「では、遠くから見る」


「それならいい」


「近づきすぎない」


「分かった」


分かった、と言いながら、本当に守れるかは分からなかった。


俺たちは急いで着替えた。


夜の空気は冷たかった。玄関を出た瞬間、昨日とは違う種類の静けさが街に広がっているのが分かった。完全に眠っていたはずの住宅街が、音だけで起こされている。いくつかの家では灯りがつき、人影がカーテン越しに動いていた。遠くからは、救急車か消防車か分からないサイレンが重なって聞こえてくる。


空は暗かった。


けれど、落下した方角の低い場所だけが、赤黒く滲んでいる。


昨日の夕焼けを思い出す。


あのときも、空は赤かった。


「こっち」


宵が先に歩き出す。


昨日までなら、俺が道を案内していた。家の中でも、外でも、この世界のことは俺が教える側だった。けれど今は違う。宵は迷いなく進んでいる。知らないはずの道を知っているというより、落下した“何か”の位置を感覚で捉えているような歩き方だった。


俺はその後を追う。


「分かるのか」


「方向は」


「何で」


「呼ばれている感じがする」


「呼ばれてる?」


宵は少しだけ顔を曇らせた。


「違う。呼ばれているのではなく、同じものを感じる」


それ以上は言わなかった。


俺たちは住宅街の細い道を抜け、大きな通りから外れるように歩いた。落下地点へ直接向かう道には、すでに人が集まり始めているらしく、遠くでざわめきが聞こえる。宵はそれを避けるように、裏道を選んだ。


しばらく進むと、見晴らしのいい小さな高台へ出た。


そこは町外れの空き地で、古いフェンス越しに低い山のほうが見える。昼間なら子どもが自転車で通ったり、近所の人が散歩したりする場所だ。夜の今は人影がなく、風だけが草を揺らしていた。


そこから、落下地点が見えた。


昨日ほど近くはない。


けれど、山の斜面の一部が黒く抉れ、そこから煙が立ち上っているのが分かる。赤色灯がいくつも集まり始めていて、道路には車列ができていた。


「……また、同じだ」


俺が呟くと、宵はフェンスの向こうをじっと見ていた。


その目が、少しだけ揺れる。


「違う」


「何が」


「あれは、落下ではない」


「隕石じゃないってことか」


宵は答えなかった。


ただ、視線だけがさらに鋭くなる。


そのときだった。


煙の向こうで、何かが動いた気がした。


遠すぎて、普通なら見えるはずがない。けれど、視界の端で、黒い煙の中に白い線が差したような感覚があった。


宵が息を止める。


「……いる」


「何が」


「来たもの」


その声は、ひどく低かった。


同時に、俺の携帯が震えた。


思わず身体が跳ねる。画面を見ると、ニュース通知だった。町内で二度目の落下物。不要不急の外出を控えるように。まだ情報は錯綜しているらしい。昨日の出来事から間がないせいで、ネットもかなり騒ぎになっているのだろう。


そんな画面を見ているうちに、宵がフェンスへ手をかけた。


「おい」


「近づく」


「遠くから見るって言っただろ」


「状況が変わった」


「何が変わったんだよ」


宵は俺を振り返る。


「向こうも、こちらを探している」


その瞬間、夜の風が冷たくなった気がした。


「こちらって……お前を?」


宵は少しだけ間を置いて、首を横に振る。


「たぶん、昴を」


言葉が出なかった。


俺を探している。


昨日の宵の言葉が、また頭の中に響く。


対象名、昴。

抹殺任務を再確認。


「……何で俺なんだよ」


声が漏れる。


宵は答えない。


たぶん、答えを知らないのだ。


でも、知らないからといって危険が消えるわけじゃない。


遠くの落下地点で、救急車の赤色灯がまた一つ増えた。その光が煙に反射して、夜の低い空を赤く染めている。


その中で、俺は初めてはっきりと感じた。


昨日の出来事は、俺が巻き込まれた偶然なんかじゃない。


何かが、俺を中心に動いている。


その事実を認めるのが怖かった。


「帰るぞ」


俺は宵の腕を掴んだ。


自分でも驚くくらい強く。


「今は近づかない。お前も、俺も」


宵は俺の手元を見る。


「確認が必要」


「必要でも今じゃない」


「でも」


「記憶も戻ってないんだろ。何か来てるって分かってても、それが何なのか分からないんだろ。だったら、今近づくのは危ない」


宵は黙った。


その沈黙が、少しだけ長い。


やがて、彼女は小さく頷いた。


「……分かった」


俺は少しだけ息を吐いた。


でも、安心はできなかった。


なぜならそのとき、遠くの煙の中から、誰かに見られたような感覚がしたからだ。

視線。


そうとしか言いようがない。


距離も、暗さも、煙も、人混みも関係なく、真っ直ぐにこちらへ何かが届いたような気がした。


宵も同じものを感じたらしい。


彼女はゆっくりと、煙の向こうを睨む。


「……見つかったかもしれない」


その一言で、俺たちは高台を離れた。


帰り道は、行きよりもずっと長く感じた。


誰かが追ってくる気配はない。少なくとも、目に見える範囲には何もいない。住宅街にはさっきより多くの灯りがついていて、人の声も増えていた。隕石が落ちたらしい、昨日もだろう、ニュース見たか。そんな言葉が、窓の内側や玄関先から漏れてくる。


日常の声だ。


でも、その全部が薄い壁の向こう側から聞こえてくるみたいだった。


家へ着くまで、宵はほとんど喋らなかった。


玄関に入って靴を脱ぐときも、洗面所で手を洗うときも、彼女はずっと何かを考えているようだった。記憶がないせいで考えがまとまらないのか、それとも、身体だけが知っている危険を整理しようとしているのか。


居間へ戻ると、俺はカーテンをしっかり閉めた。


外から見られるわけではない。そんなことは分かっている。でも閉めずにはいられなかった。

宵は部屋の中央に立ったまま、ぽつりと言った。


「昴」


「何だ」


「あれは、私を知っている」


「仲間ってことか」


その言葉を口にした瞬間、宵の表情がわずかに変わった。


「仲間」


彼女はその響きを確かめる。


「多分、そう呼べるもの」


「お前の記憶を知ってるかもしれないってことだよな」


「可能性はある」


「なら……」


言いかけて、俺は口をつぐんだ。


なら、会ったほうがいい。


そう言いそうになった。


でも違う。


向こうが俺を探しているなら、そして昨日の宵と同じ任務を持っているなら、会うことは危険でしかない。宵の記憶を取り戻す手がかりになるかもしれない相手が、同時に俺を殺しに来ているかもしれない。


何だよ、それ。


心の中で呟く。


どうして全部が、そんなふうに重なっているんだ。


「今日は寝るぞ」


無理やり話を切った。


「明日考える」


「眠れるのか」


「眠れなくても横になる」


宵は少しだけ俺を見て、それから頷いた。


「分かった」


けれど、その夜はほとんど眠れなかった。


電気を消したあとも、部屋の暗さの中に、さっきの煙と赤い光が残っている気がした。宵は隣の布団で静かに横になっていたが、たぶん彼女も眠ってはいなかった。時々、ほんのわずかに身じろぎする気配がある。


「宵」


暗闇の中で呼ぶ。


「何」


すぐに返事があった。


「お前の仲間が来たとして」


言ってから、少し迷う。


「そいつは、お前を連れ戻しに来るのか」


宵はしばらく黙っていた。


「分からない」


「……そうか」


「でも、私が任務を果たしていないなら、確認はされると思う」


「任務って、俺を殺すことか」


自分で言って、口の中が冷たくなる。


宵はすぐには答えなかった。


でもその沈黙が、答えだった。


「私は、今はそうしたいと思っていない」


宵が小さく言う。


「覚えていないからか?」


「それもある」


「それだけ?」


また沈黙。


暗闇の中で、宵の声は少しだけ揺れた。


「昴が、肉じゃがを作ったから」


「……は?」


あまりにも予想外の答えに、間抜けな声が出た。


宵は真面目な声で続ける。


「ブランコを教えた。アイスを買った。箸を褒めた。何度も、無理をするなと言った」


俺は何も言えなくなる。


「それらが、私の中ではまだ整理できていない。でも、消したいものではない」


胸の奥が、妙に詰まった。


「だから、今は昴を殺したいとは思っていない」


その言葉は、普通ならとんでもなく物騒なはずだった。


でも、宵が今出せる精一杯の答えなのだと分かった。


「……そうか」


俺はそれだけ言う。


昨日までなら、それで十分だと思えなかったかもしれない。けれど今は、その不完全な言葉が、妙に信じられる気がした。


翌朝、町は騒がしかった。


ニュースは昨夜の二度目の落下物で持ちきりだった。幸い人的被害は少ないらしい。ただ、昨日の落下地点からさほど離れていない場所だったため、専門家も行政もかなり混乱している。ネットでは隕石群だとか、軍事衛星だとか、隠された実験だとか、好き勝手な言葉が飛び交っていた。


学校からも連絡が来た。


安全確認のため、今日は休校。


正直、少しだけ助かったと思った。こんな状態で学校へ行ける気がしない。宵を家に残していくのも、外へ連れ出すのも、どちらも危険だったからだ。


「今日は外に出ない」


朝食のあと、俺はそう決めた。


「昴は、外が危険だと思っている」


「外も中も危ないけど、少なくとも家のほうがましだ」


「分かった」


宵は素直に頷いた。


けれど、午前中が過ぎるにつれて、その決定が無意味に思えてきた。


外から近づいてくるものを、中にいれば避けられるとは限らない。


そのことを、昼過ぎに思い知らされる。


最初は、玄関のチャイムだった。


ぴんぽん、と何でもない音が鳴る。


それだけで、俺の身体はびくりと反応した。


宵も同時に顔を上げる。


「誰か来た」


「分かってる」


こんなときに誰だ。


近所の人かもしれない。宅配かもしれない。自治体の確認かもしれない。隕石騒ぎで何か聞き取りに来た可能性だってある。


でも、嫌な予感がした。


宵が小さく言う。


「開けないほうがいい」


「……分かるのか」


「分からない。でも、違和感がある」


俺は息を殺して玄関のほうを見る。


もう一度、チャイムが鳴った。


間隔は正確だった。


急かすでもなく、遠慮するでもなく、ただ同じ間で押される。人間の癖がないような鳴らし方だった。


俺はそっと玄関へ向かった。


覗き穴から外を見る。


そこに立っていたのは、少年だった。


俺と同じくらいか、少し年上に見える。黒っぽい服を着て、背は高く、姿勢が不自然なほど真っ直ぐだった。顔立ちは整っている。けれど、宵と同じように、整いすぎているせいで逆に現実味が薄い。


目が合った気がした。


覗き穴越しなのに。


心臓が嫌な音を立てる。


「昴」


背後から、宵の声が聞こえる。


低い。


「離れて」


「知ってるのか」


「思い出せない。でも、知っている」


玄関の向こうで、少年が口を開いた。


扉越しなのに、その声は妙にはっきり聞こえた。


「開けてください。あなたに危害を加えるつもりは、今はありません」


今は。


その言葉だけが、やけに強く耳に残る。


「誰だ」


俺は扉越しに聞いた。


外の少年は、少しだけ間を置いた。


「私は、白群」


名前のようだった。


「宵を迎えに来ました」


宵の手が、俺の袖を掴んだ。


その力は強くない。


でも、確かに震えていた。


「宵を?」


「彼女は本来、ここに留まるべき存在ではありません」


外の声は静かだった。


怒りも焦りもない。だから余計に怖い。


「そして、あなたもまた、本来なら今ここで生かしておくべき存在ではない」


喉が乾く。


宵が一歩、俺の前へ出た。


「白群」


彼女がその名を呼んだ。


自分でも驚いたような顔をしていた。記憶ではない。口が先に動いたのだろう。


扉の向こうで、白群がかすかに反応する気配があった。


「やはり、生きていましたか。宵」


その声には、ほんのわずかに安堵に似たものが混ざっていた。


「状態を報告してください」


宵は答えない。


答えられないのだ。


白群は続けた。


「任務は未完了。対象は健在。あなたは対象の保護下にいる。状況としては、最悪に近い」


「私は……」


宵の声が揺れる。


「覚えていない」


沈黙が落ちた。


扉の向こうの空気が、少しだけ冷たくなる。


「記憶障害ですか」


白群の声は平坦だった。


「落下時の干渉によるものか。あるいは、地球到達前の異常が原因か」


「分からない」


宵が答える。


「私は、何も覚えていない」


白群はしばらく黙っていた。


その沈黙の向こうで、何かを計算しているような気配がある。


「では、宵。あなたはそこを離れてください」


「なぜ」


「対象を排除します」


その一言で、空気が凍った。


俺は思わず一歩下がる。


でも宵は、俺の前から動かなかった。


「対象」


「昴です。星の鍵を保持する個体。あなたの本来の任務対象です」


白群の声は変わらない。


「覚えていないなら、私が実行します。あなたは干渉しないでください」


「昴は」


宵は言葉を探しているようだった。


「昴は、今ここで生きている」


「だから排除するのです」


白群の返答はあまりにも早かった。


「彼が覚醒すれば、この星は破壊と再生の周期へ入る。現文明の存続確率は限りなく低い。処置は早いほどよい」


意味の分からない言葉が、また積み重なっていく。


星の鍵。


覚醒。


破壊と再生。


昨日、宵が口にした言葉と同じだ。


つまり、これは妄言じゃない。


彼らの中では、事実として扱われている。


「待てよ」


俺は扉越しに声を出した。


「俺はそんなの知らない。星の鍵とか、覚醒とか、勝手に言われても分かるわけないだろ」


「あなたが知っている必要はありません」


白群は言った。


「危険性は、本人の認識とは無関係です」


その言葉に、胸の奥が冷たくなる。


俺が何も知らなくても。

何も望んでいなくても。

それでも危険だから殺す。


そう言われているのだと分かった。


宵が、小さく首を振った。


「今は、だめだ」


「宵」


白群の声が少しだけ低くなる。


「あなたは故障しています」


その言葉に、宵の肩がわずかに震えた。


「対象との接触により判断が汚染されている。記憶を失い、任務を失い、保護対象と排除対象を取り違えている」


「違う」


宵が言う。


その声は小さい。


でも、確かに拒絶だった。


「私は、まだ何も分からない。でも、昴をここで消すのは違う」


「理由は」


白群が問う。


宵は答えられない。


肉じゃがを作ったから。

ブランコを教えたから。

アイスを買ったから。

無理をするなと言ったから。


たぶん、そういうものは理由としては通らない。


世界を守るだとか、星の破壊を防ぐだとか、そんな大きすぎる正しさの前では、あまりにも小さい。


でも、その小ささこそが、今の宵にとってはすべてなのだと思った。


「理由は、まだない」


宵が言った。


「でも、私は昴を消したくない」


扉の向こうで、白群が息を吐いた気がした。


「残念です」


その瞬間、宵が俺の腕を掴んだ。


「下がって」


次の瞬間、玄関の扉が音もなく裂けた。


爆発ではない。


破壊音もほとんどない。


ただ、扉の中央に細い線が入り、そこから上下にずれるように崩れた。


昨日、宵が壁を裂いたときと同じ。


空間を切る力。


俺は宵に引っ張られるまま、廊下の奥へ転がるように下がった。扉の破片が床に落ち、外の光が家の中へ流れ込む。


その向こうに、白群が立っていた。


表情は変わらない。


まるで、玄関の扉を壊したことすら手続きを一つ済ませただけだと言わんばかりに、静かに家の中へ視線を向ける。


「宵。最後にもう一度だけ命令します」


白群は言った。


「対象から離脱してください」


宵は俺の前に立った。


昨日よりも小さな背中。


けれど、その背中が今は確かに俺を隠している。


「拒否する」


その声は、震えていなかった。


白群の目が、わずかに細くなる。


「ならば、あなたを一時停止させたのち、任務を代行します」


空気が張りつめる。


宵の指先がわずかに動いた。


でも、昨日のような明確な刃は生まれない。


彼女自身もそれを感じたのか、わずかに眉を寄せる。


記憶がない。


力の使い方も、きっと完全には思い出せない。


白群は、その隙を見逃さなかった。


一歩。


それだけで、距離が消えた。


「宵!」


叫んだときには、白群の手が宵の肩に触れていた。


次の瞬間、宵の身体が横へ弾き飛ばされる。


壁にぶつかり、鈍い音がした。


「宵!」


駆け寄ろうとした俺の前に、白群が立つ。


「動かないでください」


声は穏やかだった。


「苦痛は最小限にします」


それが俺へ向けられた最後通告だと理解するのに、時間はかからなかった。


喉が動かない。


足も動かない。


白群の手が、何もない空間へ伸びる。


見えない刃が、そこにある。


昨日、宵が俺へ向けたものと同じ。


でも、白群のそれはずっと安定していた。迷いも、揺らぎもない。空気の線が、静かに研ぎ澄まされていく。


殺される。


今度こそ、そう思った。


そのとき、床に倒れていた宵が、かすかに顔を上げた。


「……だめ」


声は小さかった。


でも、白群の動きが一瞬だけ止まる。


宵は震える腕で床を押し、立ち上がろうとしていた。


「昴を、消すのは」


彼女の目が、俺を見た。


昨日、初めてクレーターで見たときのような、色の読めない瞳。


でも今は、その奥に確かに感情があった。


「だめだ」


次の瞬間、部屋の空気が裂けた。


白群の刃が俺へ向かって放たれる。


同時に、宵が飛び出した。


視界が白く弾けた。


何が起きたのか、分からなかった。


ただ、俺の目の前で、見えない何かと見えない何かがぶつかり合ったように、空間がひび割れる音がした。


その衝撃で、俺は床へ倒れ込む。


耳鳴りがする。


顔を上げると、宵が俺の前に立っていた。


片膝をつき、肩で息をしている。


白群は玄関近くで、初めて表情を変えていた。


「……記憶がない状態で、防ぎましたか」


宵は答えない。


彼女自身も、何をしたのか分かっていないのかもしれない。


ただ、その背中だけは俺の前にあった。


白群はしばらく宵を見つめていた。


そして、静かに言う。


「今日は退きます」


「逃げるのか」


俺が思わず言うと、白群は俺を見た。


その視線は冷たくも熱くもなかった。


ただ、事実だけを見る目だった。


「あなたはまだ覚醒していない。今すぐ処理する必要性は高いが、宵の異常値を再評価する必要があります」


「何言って……」


「次は、失敗しません」


白群はそう言って、壊れた玄関の向こうへ一歩下がった。


「宵。あなたは今、自分が何を守っているのか分かっていない」


宵は顔を上げる。


白群は続けた。


「その感情が本物でも、結果は変わりません。星の鍵はいずれ開く。そのとき、あなたは自分の選択を後悔する」


「……私は」


宵は言葉を探す。


でも、白群はそれを待たなかった。


「また来ます」


その言葉を最後に、白群の姿は夜の中へ溶けるように消えた。


本当に消えたのか、速すぎて見えなくなっただけなのか、俺には分からない。


ただ、壊れた玄関と、裂けた空気の余韻と、床に膝をついた宵だけが残された。


しばらく、何も言えなかった。


外では遠く、まだサイレンが鳴っている。


でも俺の世界は、この家の中にだけ押し込められていた。


「宵」


呼ぶと、彼女の肩がわずかに揺れた。


「大丈夫か」


宵は振り返らない。


「……分からない」


その声は、いつもよりずっと小さかった。


「でも、昴は」


ようやくこちらを見る。


その瞳が、不安げに揺れている。


「昴は、無事か」


俺は息を呑む。


殺されかけた。


家は壊された。


意味の分からない言葉を突きつけられた。


星の鍵だとか、覚醒だとか、破壊と再生だとか、もう何が何だか分からない。


それでも、宵が最初に聞いたのは自分のことではなく、俺の無事だった。


「……ああ」


俺はどうにか頷いた。


「無事だ。お前が守ってくれたから」


宵の表情が、少しだけ歪んだ。


それが安心なのか、困惑なのか、苦しさなのかは分からない。


けれど、確かに彼女はその言葉を受け取った。


壊れた玄関から、夜の風が流れ込んでくる。


昨日までなら、それをただ寒いと思っただろう。


でも今は違う。


その風の向こうに、まだ白群がいる気がした。


そして、そのさらに向こうに、俺の知らない世界が口を開けている。


宵はゆっくりと立ち上がろうとして、ふらついた。


俺は反射的に手を伸ばす。


その腕を支えると、宵は驚いたように俺を見た。


「……怖くないのか」


小さく、そう聞いた。


俺は答えに詰まった。


怖い。


怖くないわけがない。


宵も、白群も、自分に向けられた殺意も、星の鍵なんて言葉も、全部怖い。


でも、宵が俺の前に立っていたことも本当だった。


「怖いよ」


正直に言った。


宵の目が揺れる。


「でも、助けてくれただろ」


その言葉に、宵は何も返さなかった。


ただ、俺の腕を掴む指に、ほんの少しだけ力が入った。


夜はまだ終わっていなかった。


けれどその瞬間だけは、壊れた家の中で、俺たちは確かに同じ側に立っていた。


星を殺すために来たものは、また来る。


それは分かっている。


でも、宵が俺の前に立ったことも、もう消えない。


その事実だけが、冷たい夜の中で、小さな灯りみたいに残っていた。


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