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星の鍵  作者: 蒼星静流
第1章 夜の裂け目から、朝がこぼれた
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4/7

第4話 やさしいものは、壊れる前によく光る

次の日の朝は、少しだけ普通に近かった。


それが救いだったのか、それとも余計に落ち着かなかったのか、自分でもよく分からない。少なくとも、目を覚ました瞬間に床にガラスが散っていたり、壁が裂けていたりすることはなかった。天井はいつも通りで、カーテンの隙間から差し込む朝の光も、昨日ほど冷たくは見えない。


でも、それは「何もなかった」という意味じゃない。


むしろ、何かがあったあとに、無理やり普通の顔へ戻された朝、というほうが正確だった。


布団の中でしばらく目を開けたまま、俺は天井を見ていた。


眠る前まで頭の中に残っていた言葉は、朝になっても綺麗には消えていない。


抹殺。

星の鍵。

覚醒。

破壊と再生。


どれも自分には無縁の言葉のはずなのに、ひとたび耳へ入ってしまうと、日常のほうが嘘っぽく見えてくる。学校へ行って、授業を受けて、部活でもして、帰って飯を食う。そういう普通の生活の土台の下に、昨日みたいな刃のある現実が潜っている気がしてしまう。


隣の布団を見る。


宵は、まだ眠っていた。


いや、眠っているように見える、と言うべきかもしれない。相変わらず呼吸の気配は薄く、目を閉じて静かに横になっているだけだと、生き物というより整えられた人形みたいにも見える。


でも、昨日の昼間の“あれ”を知ったあとでは、その静けさに別の意味が混ざる。


本当に眠っているのか。

また、何かの拍子に別の顔が出てくるんじゃないか。

そもそも、今ここにいる宵は、どこまでが昨日までの宵なんだ。


そんなことを考えてしまう自分に、少しうんざりする。


結局、答えなんて出ない。


俺は布団から起き上がった。


身体のだるさは昨日より少し軽い。たぶん、人間はどれだけ現実離れしたことが起きても、一晩寝ればいくらかは回復するようにできているんだろう。そうじゃなければ、とっくにどこかで壊れている。


台所で水を飲み、顔を洗っていると、後ろから足音がした。


振り返ると、宵が廊下の入り口に立っていた。


「……おはよう」


昨日と同じように言う。


宵は少しだけ瞬きをしてから、返した。


「おはよう、昴」


その声に、昨日の冷たい任務の気配はなかった。


いつもの、少しだけ言葉を確かめるような話し方。表情は薄いけれど、少なくとも俺を“対象”として見ていたあの目ではない。


それだけで少しだけ、胸の奥に張っていたものが緩む。


「頭、痛くないか」


聞くと、宵は自分の後頭部に手をやった。


「少しだけ違和感がある。でも、動作には支障がない」


「……そっか」


少しだけ、じゃないだろと思いはしたけれど、あまり蒸し返さないほうがいい気がした。昨日のことをどこまで覚えているのか、たぶん本人にも分からない。それなら、無理に掘り返しても仕方ない。


「今日も顔洗うか」


そう言うと、宵は素直に洗面所へ向かった。


その後ろ姿を見ながら、俺は自分でも妙なことに気づく。昨日までの俺なら、もう少し距離を取っていたはずだ。何を考えているか分からない相手に対して、警戒を前に出していたと思う。


でも今は、それより先に「頭は大丈夫か」とか「無理するな」とか、そういう言葉が出てくる。


それが甘さなのかどうかは分からない。


ただ、少なくとも、俺はもう宵を完全に“異物”として扱えなくなっている。


朝食は、昨日より少しまともに作った。


焼き魚と味噌汁、卵焼き、それからご飯。普段一人で食べる朝飯よりは少しだけ品数が多い。自分でも何でそうしたのか分からないけれど、宵と二人で囲む食卓に、昨日と同じ簡素さだと何だか味気ない気がしたのかもしれない。


宵は焼き魚を前にして、しばらく箸を止めていた。


昨日スプーンを渡したものの、さすがに毎食スプーンというわけにもいかない。今日は朝から箸の持ち方を教えることになった。


「親指と人差し指、そこ。いや、違う、もう少し上」


「こうか」


「惜しい。そこだと魚より先に箸が折れそう」


「箸は折れるものなのか」


「力の入れ方による」


宵は真剣だった。


たぶん、こんなに真面目に箸の練習をするやつはそういない。箸を一本ずつ確認し、指の位置を何度も直して、俺の動きを見て真似をする。初めてのことを吸収する速さは相変わらずだった。


「……できた」


そう言って小さく魚をつまみ上げたときの声は、ほんの少しだけ得意そうに聞こえた。


「お、やるじゃん」


何気なくそう言うと、宵は少しだけ目を丸くした。


「今のは、肯定か」


「肯定っていうか、褒めた」


「褒める」


「できたことに対して、いいって言うやつ」


宵は魚を箸で持ったまま、考えるように止まった。


「それは必要か」


「必要じゃないかもしれないけど、言われると少しうれしいもんだよ」


「うれしい」


言葉を繰り返してから、宵は魚を口に運ぶ。


しばらく噛んで、飲み込んで、それから小さく言った。


「では、いま少しだけ、うれしいに近い」


それがあまりにも真っ直ぐで、俺は一瞬だけ何も言えなくなった。


宵の言葉はいつも遠回りだ。感情そのものより、感情に似た何かを観測して報告しているみたいな響きがある。でも今の一言には、少なくとも昨日までより少しだけ、自分の中にある感覚へ手を伸ばすような柔らかさがあった。


「……そうか」


それだけ返すと、宵は小さく頷いた。


朝食のあと、俺はテレビをつけた。


昨日は見る気がしなかった。でも、いつまでも避けているわけにもいかない。ニュース番組の画面には、案の定、隕石らしき落下物の話題が出ていた。山間部の一部が陥没し、現在も調査中。幸い大きな人的被害は確認されていない。正体不明の落下物。専門家が「隕石の可能性」なんてことを言っている。


そこまでは、まあいい。


問題は、画面の端に映る現場の映像を見たときだった。


宵の身体が、ほんの僅かに強張った。


本当に僅かだったから、見逃してもおかしくない。でも昨日のことがあったから、俺には分かった。彼女の中で何かが反応している。


「……消すか」


リモコンに手を伸ばすと、宵が言った。


「そのままでいい」


「大丈夫か」


「分からない。でも、見ていたい」


その言い方は、怖がっているようには聞こえなかった。むしろ、自分にとって必要な何かがそこにあるか確かめたい、という感じだった。


ニュースの中で、レポーターが周辺住民への聞き込みをしている。夜中に大きな音がしたとか、空が赤かったとか、そういう言葉が流れていく。どれも俺にとっては、昨日の出来事をなぞるだけのものだった。


でも宵の横顔は、少しずつ張りつめていった。


「宵」


「……聞こえる」


「何が」


「違う。いまのは違う」


そう言って、宵は自分のこめかみに触れた。


また何か思い出すのかと、一瞬身構える。


けれど今回は、昨日みたいな激しい変化にはならなかった。ただ、数秒だけ目を閉じて、それからゆっくりと息を吐く。


「大丈夫か」


聞くと、宵は頷く。


「断片がある。でも、まだ遠い」


「無理すんなよ」


「昴は、そればかり言う」


「お前が心配かけることばっかりするからだろ」


そう返すと、宵は少しだけ黙った。


テレビの中では、コメンテーターが無責任なことを言っている。隕石はロマンだとか、滅多にない出来事だとか、そんなものだ。


俺は画面を見ながら、改めて宵のほうを意識した。


この部屋にいる彼女自身が、ニュースの向こう側の“非日常”そのものだ。


それなのに、朝飯を食べて、箸を覚えて、俺の家のテレビを並んで見ている。


その違和感が、もう奇妙なくらい自然になり始めている。


午前中は、家の中のことをいくつか続けて教えた。


宵の服を畳むこと、冷蔵庫の中身の把握、電子レンジの使い方、窓を開けるときの網戸。どれもこれも小さなことばかりだけど、生活ってたぶんそういう小さなことの積み重ねでできている。


「これは、押すと温まるのか」


電子レンジの前で宵が言う。


「押すだけじゃなくて、時間も決める」


「なぜ」


「温まりすぎるとまずい」


「熱は多ければよいわけではない」


「そういうこと」


宵は頷き、表示パネルを見つめた。


「世界には、調整のための装置が多い」


「いきなりでかい話するな」


「昴の家には多い」


「まあ、文明ってそういうもんだろ」


言いながら、自分でも妙な気分になる。文明、とか装置、とか、そういう単語が俺の狭い台所の中で出てくること自体、どこか現実味がなかった。


昼前には、近所の小さな公園まで散歩に出た。


家の中にいるばかりでは、かえって息が詰まる気がしたからだ。宵にとっても、新しいものを知る機会にはなるだろうと思った。


公園には、平日の昼らしく人は少なかった。小さな子どもを連れた母親が一組、少し離れたベンチで老人が将棋の雑誌を読んでいるくらいだ。桜の季節はもう過ぎていて、木々は青々としていた。風が吹くたび、葉の裏側が少し白く見える。


宵はブランコの前で立ち止まった。


「これは」


「遊具」


「座る場所が揺れている」


「乗るか?」


試しに聞くと、宵は少しだけ考えてから頷いた。


「試す」


そう言うと思った。俺は苦笑しながらブランコの鎖を押さえ、宵が座るのを見守る。座るまではよかったが、足で地面を蹴って揺らすという発想はないらしい。


「こうやって、少しずつ前後に」


手本を見せようとして、自分が最後にブランコへ乗ったのがいつだったか思い出せなくなった。小学校の低学年くらいだろうか。そんな昔の感覚を、今になって隣の少女へ教えることになるとは思わなかった。


宵はぎこちなく足を動かした。


最初はほとんど揺れなかったが、数回で要領を掴む。少しだけ身体を前後させるだけで、ブランコはゆっくり弧を描きはじめた。


風が、少しだけ宵の髪を揺らす。


ほんの小さな揺れだ。けれど、宵はその動きに少し驚いたような顔をした。


「浮く感じがする」


「浮いてはない」


「でも、地面から離れて戻る」


「まあ、それはそうだな」


しばらくすると、宵は自分でブランコを止めた。


「どうだ」


聞くと、宵は静かに答えた。


「嫌ではない」


またそれか、と思ったけれど、そのあとに少し間を置いて、彼女は続けた。


「少し、楽しいに近い」


それを聞いて、俺は思わず笑った。


「お前、いちいち慎重すぎるんだよ」


「まだ区別が曖昧」


「でも“楽しい”って分かるんだな」


宵は空を見上げた。


「昴と一緒にいると、世界の輪郭が少しだけ柔らかくなる」


その言葉に、俺のほうが黙ってしまう。


本人は深い意味で言っていないのかもしれない。ただ、感じたことをそのまま言っただけなのかもしれない。それでも、その言い方はあまりにも真っ直ぐだった。


「……そういうこと、さらっと言うなよ」


小さく呟くと、宵はこっちを見た。


「何が問題だ」


「問題っていうか……」


うまく言葉にできない。


顔を逸らして、公園の端に咲いている花へ視線を逃がす。自分が少し照れていることを、たぶん宵はまだ理解していない。それが救いなのか余計に困るのか、自分でも分からなかった。


公園から帰る途中、コンビニへ寄った。


アイス売り場の前で、宵がまた足を止める。透明な蓋の向こうで色とりどりの箱が並んでいるのが、やっぱり珍しいらしい。


「冷たい食べ物だよ」


そう言うと、宵は少し考えてから一本選んだ。棒のついた、ごく普通のバニラアイス。

会計を済ませて外に出ると、陽射しは少しだけ傾き始めていた。コンビニの脇で袋を開け、宵に手渡す。


「溶ける前に食えよ」


「溶ける」


「熱で形が崩れる」


その説明に、宵は小さく頷く。


一口食べて、目を見開いた。


「冷たい」


「だからそう言っただろ」


「でも甘い」


「甘いだろうな」


宵はアイスを見つめ、それからもう一口食べた。


「これは、好ましい」


昨日の雑炊でも似たようなことを言っていたけれど、今回のほうがはっきりしていた。嫌ではないとか、楽しいに近いとか、そういう慎重な言い回しじゃなくて、ちゃんと好ましいと言った。


「気に入ったならよかったよ」


そう言うと、宵はアイスの白い先端を見ながら、ぽつりと呟いた。


「地球には、好ましいものが多い」


その言葉が、妙に胸に残った。


宵はもともと、この地球に何をしに来たんだろう。


昨日、彼女の口から出た言葉が真実なら、俺を殺すためだ。俺の抹殺が任務だ、と確かに言った。そのはずなのに、こうしてブランコで揺れて、アイスを食べて、「好ましい」と言う宵を見ていると、そんな任務の存在が急に遠い悪夢みたいにも思える。


でも、遠いだけで消えたわけじゃない。


それを一番忘れちゃいけないのは、たぶん俺のほうだ。


家へ戻る頃には、宵の歩き方も昨日よりずっと自然になっていた。


玄関で靴を脱ぎ、手を洗い、買ってきたものを冷蔵庫へ入れる。そういう一つ一つの動作が、もう「覚えた手順」から「とりあえずできる習慣」へ少しずつ変わり始めている。


そのことが、俺には少しだけ嬉しかった。


変な話だと思う。


相手は得体の知れない存在で、昨日は実際に殺されかけた。それなのに、電子レンジの使い方を覚えたとか、箸が少しうまくなったとか、アイスを好ましいと言ったとか、そんなことで安心している自分がいる。


でも、安心したかったのかもしれない。


異常なことばかり続いたあとで、少しぐらいは普通の時間が欲しかった。


夕方、台所で夕飯を作っていると、宵が横に立って野菜を見ていた。


「今日は何を作る」


「肉じゃが」


「肉と、じゃがいも」


「そのままだな」


「名前は正確」


「そうだけど」


皮を剥いたじゃがいもを水にさらしながら、俺は横目で宵を見る。


「手伝うか」


「お前、包丁はまだ危ない」


「私は危険か」


「そういう意味じゃなくて」


「今日はよく、その言葉を否定する」


宵のほうがわずかに先に言う。


思わず手が止まる。


たしかに、今日は何度も同じようなことを言っている。危険かどうか、負担かどうか、そういう言葉を、俺はことごとく曖昧に濁している。


「……全部をそのまま言うと、うまくいかないこともある」


ようやくそう答えると、宵は鍋の中を見ながら静かに言った。


「人間は、言葉を選ぶ」


「お前は選ばないのか」


「私は、まだ選び方を知らない」


その返事があまりにも宵らしくて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。


「じゃあ、少しずつ覚えればいい」


そう言ったとき、宵は珍しくすぐには答えなかった。


鍋の中で煮えていくじゃがいもの匂いが、台所に広がっている。窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなり、家々の影が長く伸びていた。


やがて、宵が小さく言った。


「昴は、少しずつ、が好きか」


「好きっていうか、そうやってしかできないこともあるだろ」


「私は、急にここへ来た」


その言葉に、胸の奥が少しだけひりついた。


急に、か。


たしかにそうだ。昨日の夕暮れ、空から落ちてきたみたいに宵は俺の世界へ入り込んできた。少しずつでも何でもなく、一瞬で。


「でも、今は少しずつだろ」


そう返すと、宵は俺を見た。


その視線に、昨日までよりも少しだけ温度があった。


「そうだな」


夕飯は、昨日よりだいぶまともな時間になった。


食卓の上に湯気の立つ肉じゃがと味噌汁、冷やした麦茶。テレビはつけず、その代わり窓の外から聞こえる虫の声が、夜の始まりを知らせていた。


「いただきます」


今では宵も、ほとんど自然にそう言う。


食べ方もだいぶ落ち着いてきた。箸はまだ少し危ういけれど、昨日よりはずっと上手い。じゃがいもを一つ掴み、慎重に口へ運び、それからゆっくり噛む。


「どうだ」


聞くと、宵はしばらく味を確かめてから答えた。


「柔らかい」


「うん」


「温かい」


「うん」


「少し甘い」


「それで?」


宵は少しだけ間を置いた。


「……好き、かもしれない」


その言葉が、妙に部屋を静かにした。


好き。


宵がその語を使うのを、俺は初めて聞いた気がする。


「お、進歩したな」


冗談っぽく言うと、宵は視線を上げた。


「進歩?」


「昨日なら“好ましい”とか“嫌ではない”で止まってただろ」


「その違いは、大きいか」


「たぶん」


俺は麦茶を飲みながら答える。


「“好き”のほうが、自分に近い感じがする」


宵はそれを聞いて、少しだけ考え込んだ。


「自分に近い」


「好ましい、って言うと、何かを外から見て判断してる感じがするんだよな」


自分でも上手い説明じゃないと思ったけれど、宵は真剣に聞いていた。


「好き、は、自分の中にある感覚」


「たぶん、そんな感じ」


「……なら」


宵は小さく息を吐いて、もう一度言う。


「これは、好きだ」


その確認みたいな言い方が可笑しくて、俺は少しだけ笑った。


食後、二人で食器を片付ける。


宵は洗った皿を拭くことを覚えた。最初はタオルの扱い方がぎこちなかったが、数枚もやれば手つきは安定する。こういうところも、やっぱり妙に覚えが早い。


「昴」


食器棚の前で、宵がふいに言った。


「何」


「好き、は、昴に対しても使えるか」


手が止まる。


心臓が、いま何の前触れもなく一つ飛んだ気がした。


「……何でそうなる」


「確認している」


「何を」


「私は、昴といると、少し落ち着く。世界の輪郭が柔らかくなる。食べ物を知ることも、遊具に乗ることも、言葉の使い方を覚えることも、昴といると少し理解しやすい」


宵の言葉は、相変わらず直線的だった。


「それは、好き、か」


俺は返事ができなかった。


そんな問いを真正面から向けられるとは思っていなかったし、何より、それを考えている宵のほうが俺より真剣そうだった。


「……それは」


喉が少し渇く。


「まだ、たぶん、そこまで言い切らなくていいんじゃないか」


ようやくそれだけ絞り出す。


宵は目を細めた。


「なぜ」


「好き、っていうのは……もう少し、時間かかることもある」


「少しずつ?」


「……そう」


宵はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく頷いた。


「分かった。では、保留する」


「お前、その言い方本当に……」


半分呆れながらも、どこか助かった気がした。


好き。


そんな言葉を今このタイミングで突きつけられたら、どう答えていいか分からない。宵の中でそれがどれほどの意味を持つのかもまだ曖昧だし、俺自身の気持ちだってまだ整理なんてできていない。


ただひとつ分かるのは、宵と過ごしたこの一日が、昨日より確かに柔らかかったということだ。


何でもない会話があって、笑いそうになる瞬間があって、食事が少しだけ楽しくて、外の風やアイスの冷たさを一緒に確かめた。


そんな時間が、昨日の刃の記憶を完全に消してくれたわけではない。


でも、それでもなお、消えないまま一緒にいられることが、少しだけ救いに思えた。


夜が深くなり、寝る準備をする。


昨日よりも自然に布団を敷き、昨日よりも少しだけ自然に並んで横になる。


「電気、消すぞ」


「了解」


もうこのやり取りも、少し習慣になりつつあった。


明かりを落とすと、部屋には昨日よりも穏やかな暗さが満ちた。


しばらくして、宵の声が聞こえる。


「昴」


「ん」


「今日は、昨日より静かだ」


「そうだな」


「このまま続くか」


その問いに、俺は答えられなかった。


続いてほしい、とは思う。


でも、昨日と今日があまりにも非現実の上に成り立っていたせいで、明日も同じだとはどうしても言い切れない。


「……分からない」


結局、そう答える。


宵は少しだけ黙った。


「でも、私は今日を覚えていたいと思う」


その一言が、暗闇の中でひどく静かに落ちた。


俺は天井を見たまま、息を止める。


昨日までの宵なら、たぶんそんな言い方はしなかった。記憶の断片や生活の習慣は口にしても、“覚えていたい”なんていう、自分の意思が強く出る言葉は選ばなかった気がする。


「……そっか」


それだけ言うのがやっとだった。


俺も、そう思った。


この一日は、できれば壊れないでほしい。


でも、やさしいものって、たいてい壊れる前によく光るんだよな、と、なぜかそのとき思った。


その予感は、たぶん間違っていなかった。


どれくらい時間が経ったのか分からない。


俺が眠りに落ちる直前だったのか、あるいは一度眠ってからだったのかもしれない。


低い振動が、家の奥まで届いた。


ほんの一瞬、地面の芯が鳴るみたいな感覚。


目が開く。


暗闇の中で、宵も同時に身を起こしていた。


その動きの速さに、嫌な記憶が一気に蘇る。


「……昴」


宵の声が、いつもより低かった。


「いまの」


俺が聞き返すより先に、次の音が来た。


遠く。


けれど、確実に。


空気を裂いて落ちてくる、あのときと同じ音。


息が止まる。


カーテンの隙間の向こうで、夜が一瞬だけ赤く染まった。


その光を見た瞬間、昨日の夕暮れがそのまま頭の中へ流れ込んでくる。


隕石。


まただ。


「……うそだろ」


思わず声が漏れる。


宵はもう立ち上がっていた。


暗闇の中でも、その横顔ははっきりして見えた。昨日までの戸惑いや、今日一日で少しだけ柔らかくなった表情とは違う、張りつめた気配がそこにあった。


「来た」


短く、宵が言う。


それは昨日の夜、クレーターの前で聞いた言葉と同じだった。


でも今度のそれには、ただ状況を告げるだけじゃない、何かもっと深い確信が混ざっていた。


遠くで、遅れて轟音が響く。


家の窓がかすかに震えた。


その瞬間、俺は理解する。


終わっていない。


昨日の出来事は、まだ始まりでしかなかったんだと。


隣で宵が、ぎゅっと拳を握る気配がした。


暗闇の中、彼女の声だけが静かに落ちる。


「……あれは、私と同じだ」


そこで、夜は完全にかたちを変えた。


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