第3話 役割という名前の刃
朝、最初に目に入ったのは、床に散ったガラスの破片だった。
寝起きの頭はまだ半分夢の中にあって、最初の数秒はそれが何なのか分からなかった。カーテンの隙間から入り込む朝の光が、畳の上で小さく光っている。それだけ見れば、きれいだとすら思えたかもしれない。けれど、目が覚めるにつれて、その光の正体が砕けたコップの破片だと分かって、ようやく現実が追いついてきた。
身体を起こす。
背中が重かった。昨日一日で起きたことが多すぎて、眠ったはずなのに疲れが抜けきっていない。首筋にはまだ鈍いだるさが残っていて、頭の奥では眠気の残骸みたいなものが揺れている。
部屋の空気は、朝にしては少し冷えていた。昨夜、いつもより遅くまで電気をつけたり消したりしていたせいか、家の中にまだ生活のリズムがうまく戻ってきていない気がする。時計を見ると、六時を少し過ぎたところだった。普段ならもう少し寝ていてもいい時間だったけれど、床の上に散らばるガラス片が、それを許してくれなかった。
俺は布団の上に座ったまま、しばらく破片を見ていた。
昨夜、何かが割れたような音を聞いた気がする。
夢の一部みたいに曖昧だったけれど、いま目の前に証拠がある以上、あれは現実だったのだろう。ローテーブルの端を見ると、いつもそこに置いてあるはずのコップがひとつなくなっている。どうやら、それが落ちたらしい。
問題は、どうして落ちたのか、だ。
視線を横へ向ける。
部屋の隅に敷いた予備の布団の上で、宵はまだ横になっていた。
眠っている、のだと思う。
目は閉じられていて、身体も動いていない。ただ、寝息の気配が薄いせいで、本当に眠っているのかどうか分かりにくい。昨夜もそうだった。隣に人がいるのに、その人の存在が不思議なくらい静かで、何度か目を閉じてもすぐに意識してしまったのを覚えている。
朝の光は、宵の頬を淡く照らしていた。
大きめのTシャツに包まれて、布団の上に収まっているだけなら、ただの行き場のない少女に見えなくもない。昨日の夕暮れ、クレーターの底で目を開いたときの異質さが、朝の光の中では少しだけ薄れている気がした。
……いや、薄れて見えるだけだ。
昨日起きたことが夢じゃないなら、この少女は普通じゃない。
名前も、記憶も、自分が何のために生きているのかも分からないと言っていた。立ち上がるだけで地面を割って、人の頬に触れて「柔らかい」と言って、夜の途中に何かが割れても、こうして何事もなかったみたいに眠っている。
普通じゃないのに、こうして家の中にいる。
そのことにようやく、朝の俺は少しだけ現実味のある恐ろしさを覚えた。
でも、その恐ろしさは不思議と「追い出したい」とか「関わりたくない」とは結びつかなかった。警戒はしている。しているはずなのに、それ以上に、どう扱えばいいのか分からない、という戸惑いのほうが大きかった。
とりあえず、ガラスを片付けないと危ない。
布団から出て、できるだけ音を立てないように立ち上がる。台所からほうきとちりとりを持ってきて、床に散った破片を少しずつ集めていく。朝の静かな部屋に、細かなガラスの触れ合う音だけが小さく響いた。
その途中で、布団のきしむ気配がした。
振り返ると、宵が上体を起こしていた。
寝起きの気配がほとんどない。目を開けると同時に意識が完全に浮上したみたいな顔で、真っ直ぐにこちらを見ている。
「……おはよう」
とりあえず言ってみる。
宵は少しだけ瞬きをしてから、口を開いた。
「おはよう、昴」
昨日覚えたばかりの言葉を確かめるみたいに、少しだけ丁寧な調子だった。
「起きたなら、そこ動くなよ。ガラス散ってるから」
宵の視線が床へ落ちる。
割れた破片を見て、ほんの少しだけ眉が動いた。困惑というより、観察対象が増えたときの反応に近い。
「それは、壊れている」
「見れば分かる」
「なぜ壊れた」
「それを俺が聞きたいんだけどな」
ほうきの動きを止めて、俺は宵を見る。
「夜、何かあったか?」
宵は少しだけ考えるように黙った。
でも、その沈黙には昨日から見慣れた“処理”の気配はあっても、何かを隠しているような感じはなかった。
「分からない」
「音とか、起きたとか」
「途中で何かを見た気がする。でも、つながっていない」
「夢か?」
「夢、がどういうものか、まだ曖昧」
そう言われると、追及しようがない。
俺も夜中に何か割れる音を聞いたような気がしていた。でもそれは、深い眠りの底で一瞬だけ浮かんだ感覚にすぎない。どっちかが起きていて、どっちかが覚えていてくれれば話は早かったのに、どうやらそう都合よくはいかないらしい。
「……まあいい。とりあえず踏むなよ」
破片を集め終えて、新聞紙に包んで捨てる。部屋の中に改めて目を走らせるが、他に変わった様子はない。コップ一つが割れただけ、と言えばそれだけだ。
でも、何となく引っかかった。
宵のほうを見ると、彼女は俺が片付ける様子をじっと見ていた。
「どうした」
「昴は、朝になると最初に壊れたものを片付けるのか」
「毎朝そんなこと起きないよ」
「そうか」
「……普通の朝なら、まず顔洗って飯だな」
そう答えると、宵はゆっくりと頷いた。
「普通の朝」
その言葉の響きが、妙に小さく残る。
普通の朝。
昨日までなら、何も考えずにそこにあったものだ。目を覚まして、着替えて、顔を洗って、朝飯を作る。学校がある日は学校へ行くし、ない日はないなりに時間が流れる。俺にとっての普通なんて、その程度のものだったはずだ。
でもいま、その普通の中には、隕石から来た記憶喪失の少女がいる。
たったそれだけで、朝の意味が変わってしまう。
「顔洗うか」
俺が言うと、宵は少し遅れて布団から出た。
昨夜教えたことを覚えているのかどうか心配だったが、少なくとも裸足のまま畳から下りることに迷いはなさそうだった。洗面所へ向かう途中、彼女は壁にかけられたカレンダーの前でふと足を止める。
「これは」
「日付。今日は……」
近づいて確かめる。
「四月十八日」
宵はその数字を見つめる。
「時間を、日ごとに区切っているのか」
「まあ、そういうことだな」
「意味はある?」
「ある。人間はそうしないと、いろいろ面倒なんだよ」
自分でも適当な説明だと思う。けれど、時間の区切りがある意味なんて、普段はあまり考えない。今日と昨日と明日を分けて考えることが当たり前すぎて、それを言葉にするのは妙に難しかった。
洗面台の前に立つと、宵は蛇口を見た。
その視線の意味を察して、俺は先に手本を見せる。蛇口をひねって水を出し、顔を洗う。冷たい水がまぶたと頬を打つだけで、少しだけ頭が冴える。
「こう」
言って場所を譲ると、宵は慎重に蛇口へ手を伸ばした。
最初は勢いよく水が出すぎて、少しだけ驚いたように肩を動かしたが、すぐに調整して両手に受ける。それから俺と同じように顔を洗った。動作そのものはもうぎこちなくない。見よう見まねで覚えるのは速いらしい。
「冷たい」
顔を上げた宵が言う。
「朝はこんなもんだ」
「でも、目が覚める感じがする」
「だろ」
「これは、有効だ」
その言い方に、少しだけ笑いそうになる。
洗面所の鏡に、俺と宵が並んで映っていた。
改めて見ると、やっぱり不思議な光景だった。俺の家の、俺の朝の風景の中に、自分の記憶を持たない少女が当たり前みたいに立っている。そのこと自体がまだしっくりきていないのに、鏡の中の光景は妙に整いすぎていて、何だか最初からそこにそうあるべきだったみたいにも見えてしまう。
「朝食、作る」
台所へ戻りながら言うと、宵もついてきた。
「今日も見るか?」
昨日の夜みたいに問いかけると、宵は少しだけ目を動かした。
「見ていたい」
「なら邪魔しない程度に」
「了解」
冷蔵庫を開けながら、俺は今日のことを考えていた。
学校をどうするか。
今さらそこか、と思う。でもそこだった。昨日はあんなことが起きたせいで、学校どころじゃなかった。たぶん今日は平日だし、普通に考えれば行くべきなんだろう。連絡を入れるかどうかも考えないといけない。
でも、宵を一人にしておくのか。
それを考えると、一気に現実味がなくなる。
記憶喪失で生活に慣れていない上に、夜中にコップを割るような何かが起きている。そんな相手を家に置いて学校へ行くのは、どう考えても危ない。かといって、連れていくわけにもいかない。説明しようがない。
卵を溶きながら、俺はため息をついた。
「昴」
宵の声が背後からする。
「何だ」
「ため息は、疲弊の表現か」
「……だいたいそう」
「疲れているのか」
「まあな」
正直に答えると、宵は少しだけ考えるように黙った。
「私のせいか」
その言葉に、手が一瞬止まる。
振り返ると、宵は台所の入り口でじっとこっちを見ていた。責められると思っているわけではなさそうだった。ただ、因果関係を確認しているだけ、みたいな顔だ。
「全部がお前のせいってわけじゃない」
「全部ではない」
「でも、昨日から一気にいろいろ変わったのは事実」
「それは、負担か」
「……そうだな」
フライパンに油をひきながら、俺は少し考えた。
嘘をつくのも違う気がした。
「負担っていうか、慣れてないだけだよ」
「慣れれば、負担ではなくなる?」
「なくなるとは限らないけど、減ることはある」
自分でも妙な答えだと思う。でも本音だった。
宵はその言葉を聞いて、静かに頷いた。
「では、私は早く慣れたほうがいい」
「そう簡単なもんでもないけどな」
卵焼きと味噌汁、それから冷蔵庫の残り物を少しだけ並べる。朝飯としては十分だろう。宵は昨日よりも少し迷いなく座り、昨日よりも少しだけ自然に「いただきます」と言った。
そのわずかな変化が、何だか妙に印象に残った。
朝食のあと、俺は携帯を開いて学校へ欠席の連絡を入れた。体調不良、ということにした。嘘ではない。精神的には相当不調だし、生活の外から隕石由来の記憶喪失少女が転がり込んできた状況を一言でまとめるなら、たぶんそれが一番近い。
宵はその様子を向かいから見ていた。
「学校」
「行くところ」
「昴は今日、行かないのか」
「行けない、のほうが近い」
「私がいるから」
「……まあ、それもある」
携帯を伏せる。
認めてしまうと、少しだけ重みが出る。
「お前を一人で置いていくの、正直ちょっと怖いし」
そう言ったら、宵は少しだけ目を細めた。
「私が、何かを壊すから?」
昨日のコップのことを言っているのだとすぐに分かった。
「それもなくはない」
「昴は、私を危険だと思っている」
その言い方があまりにもまっすぐで、返答に困る。
危険か危険じゃないかで言えば、危険だろう。昨日の時点で十分に分かっている。身体能力も、反応速度も、たぶん普通じゃない。記憶もない。何かしらの秘密を抱えているのは明らかだ。
でも、それだけじゃない。
「危険かどうかで言うなら、たぶん危険だ」
俺は正直に言った。
「でも、だからって追い出す気にもなれない」
宵は黙って聞いている。
「……変な感じだけどな」
そう付け足すと、宵は小さく首を傾げた。
「矛盾?」
「たぶん」
「人間は、矛盾したまま何かを選べるのか」
その問いは、やけに静かに刺さった。
「選ぶときもある」
ようやくそれだけ答える。
宵はそれ以上追及しなかった。ただ、「そうか」とだけ小さく言って、湯気の消えた味噌汁の椀を見つめた。
午前中は、生活の続きを教える時間になった。
洗濯機の使い方、食器の片付け方、掃除機の音、窓の開け閉め。言ってしまえば、何でもないことばかりだ。けれど宵にとっては、その全部が新しい。
洗濯機が回り始めたとき、宵は数秒間、その動きを無言で見つめていた。
「回っている」
「見れば分かる」
「回って、汚れを落とす?」
「水と洗剤でな」
「効率的だ」
「いちいち感想が研究者みたいなんだよな」
そう言うと、宵は真顔で返した。
「研究者、という単語に反応した」
「反応?」
「でも、意味がはっきりしない」
その瞬間、俺は少しだけ息を止めた。
記憶の断片。
そういうものがあるのかもしれない、と、昨日から薄く考えてはいた。全部が全部、真っ白なわけじゃない。単語や概念は知っている。生活の土台だけが欠けているのか、それとも別の何かが抜け落ちているのか。
「……無理に思い出そうとしなくていい」
また同じことを言う。
宵は洗濯機の中で回る衣服を見ながら、小さく頷いた。
「分かった」
掃除機の音には少しだけ警戒していた。スイッチを入れた瞬間、宵の身体がほんのわずかに硬くなる。大きな音に対する反射は、普通の人間より鋭いのかもしれない。
「うるさいけど我慢しろ」
俺が言うと、宵は耳のあたりに指をやった。
「不快ではない。けれど、警戒すべき音に近い」
「そういうの、分かるのか」
「身体が先に反応する」
その言葉が、少し引っかかった。
身体が先に反応する。
つまり彼女の中には、まだ記憶に届かない何かが残っているということだ。
昼前になって、家の中にこもっているのも妙な気がしてきた。
気分転換、というには落ち着かないが、少なくとも食材は少し買い足したかった。宵に着せる服も、いつまでも俺のお下がりというわけにはいかない。
「……ちょっと出るか」
そう言うと、宵は本から顔を上げた。
午前中の間に、彼女には何冊か簡単な本を渡していた。絵や写真が多くて、生活に近い内容のもの。文字は読めるらしいが、難しい内容は避けたほうがいいと思ったからだ。
「外へ?」
「近くの店。買い物」
「私も行く?」
「置いていくほうが怖い」
そう言うと、宵は少しだけ視線を伏せた。
「また、負担」
「そういう意味じゃない」
反射的に言ってから、自分でも少し驚く。
「お前、まだ何しでかすか分からないし」
「それは同じ意味ではないのか」
「……半分くらいは違う」
宵は何か言いたげにして、結局黙った。
外に出る支度をして、玄関へ向かう。そこでまた靴の問題が発生した。昨夜脱いだ、あの見慣れない靴を見下ろして、宵はしばらく止まる。
「履き方、分かるか」
「たぶん」
「その“たぶん”信用ならないんだよな」
結局、昨日と逆の手順で足を通し、軽く押し込むと、またぱちんと小さな音がした。形が足に沿って収まる。どう見ても普通の靴じゃない。
「これ、どういう仕組みなんだ」
思わず呟くと、宵はかすかに首を振った。
「分からない。でも、これは私のものだと思う」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
外へ出ると、昼前の光がまぶしかった。
昨日の夕焼けとは違う、何でもない春の陽射し。空は青く、風は少しだけある。道を歩く人も、遠くで聞こえる車の音も、全部が普通だった。
その普通の中に、宵がいる。
この光景にもまだ慣れない。
近所の小さなスーパーまでは歩いて十分もかからない。途中、何人かとすれ違ったが、幸い声をかけられることはなかった。宵は外の風景をじっと見ていた。道路標識、家の門、植え込みの花、自動販売機。見るもの全部が新しいのだろう。
「昴」
「何だ」
「これは」
宵が指差したのは、自動販売機だった。
「飲み物とか買うやつ」
「箱から出てくる?」
「お前、いちいち驚くな」
「驚いているのではなく、確認している」
「似たようなもんだろ」
そう言いながら、俺は少し気が緩んでいた。
歩いているうちに、昨日の緊張が少しずつ薄まっていく。もちろん完全に消えたわけじゃない。でも、こうして昼の光の中で宵と並んでいると、昨夜の異様さがほんの少しだけ遠ざかる気がした。
スーパーの中で、宵はさらに目立った。
目立つ、というのは見た目のせいだけじゃない。商品の棚の前で立ち止まり、一つ一つを真剣に見つめるのだ。野菜、果物、パン、調味料。どれもこれも、意味を確かめるように見ている。買い物カゴを持つ俺のほうが、逆に落ち着かなくなるくらいだった。
「そんなに珍しいか」
キャベツをカゴに入れながら聞く。
「これだけ多くの物が、整然と並んでいるのが不思議」
「店だからな」
「誰かが管理している」
「そりゃそうだろ」
宵はしばらく棚を見ていたが、やがて小さく言った。
「世界は、思っていたより静かだ」
その言葉に、俺は少しだけ足を止めた。
「……思っていたより?」
宵自身も、言葉にしてから引っかかったらしい。ほんのわずかに眉が寄る。
「違う。いまのは、何か別の……」
そこで言葉が途切れる。
記憶の断片だろうか、と俺は思う。でも、宵はすぐに首を振った。
「分からない」
それ以上は続かなかった。
食材と、適当な生活用品と、安いTシャツを数枚買う。宵の服はサイズがよく分からないから、だいたいで選ぶしかない。店を出たあと、公園の脇を通りかかると、ベンチに小さな子どもが座ってアイスを食べていた。
その子が急にこちらを見て、宵に向かって笑った。
宵は立ち止まる。
「……どうした」
「今、あの子どもがした表情」
「笑っただけだろ」
「敵意がない」
「普通はな」
「普通」
その言葉を繰り返した宵は、少しだけ不思議そうな顔をしていた。
「敵意がない状態で、知らない相手に表情を向けるのか」
「まあ、人によるけど」
「変だ」
「そうか?」
「私には、まだ分からない」
それはそうだろうと思う。
宵の世界に、どれくらいの“普通”があったのか分からない。そもそも、彼女がいた場所にこういう街や公園や子どもの笑顔が存在していたのかどうかも分からない。
帰り道、俺たちは小さな橋を渡った。橋の下には浅い川が流れていて、春の光を反射してきらきらしていた。宵はそこで足を止め、水面を見下ろす。
「これは、空を映している」
「川だからな」
「揺れると、空も壊れて見える」
そう言う宵の横顔が、やけに静かだった。
その一瞬だけ、俺は彼女がどこかとても遠い場所を見ているような気がした。
家に戻ったのは昼過ぎだった。
昼飯を簡単に済ませて、午後は少し落ち着いた時間が流れた。宵には買ってきた服を着せてみたが、袖や裾を直しながら鏡の前で首を傾げている姿は、昨日よりずっと普通の少女に近く見えた。
「似合ってると思う」
何となく言うと、宵は鏡越しに俺を見た。
「似合う、は肯定か」
「だいたいそう」
「では、受理する」
「お前、ほんとその言い方好きだな」
「好き、なのかは分からない。でも、言いやすい」
そんなやり取りをしながら、午後の光は少しずつ傾いていく。
何でもない時間だった。
洗濯物を取り込んで、夕飯の下ごしらえをして、宵が本棚から選んだ本をまた読み返している。昨日の夜から今日の昼までで、ようやく少しだけ、この家の中に彼女が存在する形が整ってきた気がしていた。
たぶん、油断していたんだと思う。
それが起きたのは、夕方が近づいて、部屋の中の光が少しだけ柔らかくなったころだった。
夕飯の支度のために、俺は台所で包丁を使っていた。宵は居間の机で、俺が渡した地図帳を広げている。地図に興味を持ったのは意外だったが、「世界の形を把握したい」と言われると、それ以上何も言えなかった。
「昴」
そのとき、宵が俺を呼んだ。
「何だ」
「この場所は」
「どれ」
包丁を置いて机のほうへ向かう。地図の上に落ちた宵の指は、日本列島のあたりを示していた。
「ここが、いま俺たちがいる国」
そう説明しようとした、その瞬間だった。
窓の外で、車が急ブレーキをかけたみたいな高い音がした。
キィッ、と耳を刺す。
街中では珍しくない音だ。珍しくないはずなのに、宵の反応だけはまるで違った。
彼女の身体が、びくりと強く震えた。
次の瞬間、地図帳が床に落ちる。
「宵?」
呼んでも返事がない。
宵は椅子から立ち上がりかけて、そのまま額を押さえた。呼吸が急に浅くなる。目の焦点が合っていない。
「おい、どうした!」
駆け寄ったとき、宵の目は確かにこちらを見ていた。けれど、俺を見ているようで見ていない。視線の奥で、別の何かを見ている目だった。
「……対象、確認」
ぞっとするほど冷たい声だった。
「宵?」
返事はない。
代わりに、彼女の唇が微かに動く。
「鍵……星の鍵、保有個体……識別番号……」
言葉が断片になっている。
でも、その中で一つだけ、はっきりしたものがあった。
鍵。
星の鍵。
意味は分からない。なのに、その言葉だけが妙に生々しく耳に残った。
宵がゆっくりと立ち上がる。
動きが違う。
昨日までの、生活を学ぼうとしていた宵とも、朝起きてコップを見つめていた宵とも違う。もっと研ぎ澄まされていて、余計な感情の混じらない、冷たい刃みたいな立ち方だった。
俺は思わず後ずさる。
「……お前、誰だよ」
口から出たのは、そんな馬鹿みたいな言葉だった。
でも本当に、目の前の相手が同じ宵なのか分からなかった。
宵――いや、宵の身体をした何かは、静かに俺を見た。
その目の中に、昨日から感じていた“普通じゃなさ”が、今は隠しようもなく剥き出しになっている。
「対象名、昴」
俺の名前を、まるで書類を読み上げるみたいに発音する。
「抹殺任務を再確認」
ぞくり、と背筋が冷える。
抹殺。
その言葉の意味だけは、嫌でも分かった。
「何、言って……」
そこまでしか言えなかった。
宵の右手が、何もない空間へ伸びる。
その指先の前で、空気がわずかに歪んだように見えた。
本当に歪んだのか、目の錯覚だったのか、判断する前に本能が叫ぶ。
危ない。
身体が先に動いていた。
咄嗟に横へ飛ぶ。
次の瞬間、さっきまで俺が立っていた位置の後ろにあった壁紙が、音もなく裂けた。
遅れて、机の端に置いてあったリモコンが真ん中からずれ落ちる。
切れていた。
何かで、ではない。そこに刃物なんて見えなかったのに、まるで空間ごと断ち切られたみたいに、綺麗に。
息が詰まる。
意味が分からない。
でも、殺される、という感覚だけは異様にはっきりしていた。
「宵!」
名前を呼ぶ。
反応はない。
彼女は一歩、こちらへ近づいた。
「任務の遂行を優先」
「待て、何なんだよ、お前……!」
混乱で頭が真っ白になる。
どうしてだ。さっきまで普通に話していた。地図を見て、服を着て、笑顔の意味を知らなくて、そんな宵だったはずなのに。
目の前にいるのは、まるで別人だった。
いや、本当はこっちが本来の彼女なのかもしれない。
その考えがよぎった瞬間、足元が冷えた。
宵の手がもう一度、空をなぞるように動く。
今度は見えた気がした。透明な線みたいなものが、指先から一瞬だけ生まれて、こちらへ走る。
俺はローテーブルを蹴飛ばして、その陰に身を投げた。
木の端がぱきん、と軽い音を立てて割れる。
何だよこれ。
何でこんなことになる。
昨日の隕石から、世界がおかしくなったのは分かる。分かるけど、何で今、家の中で、宵に殺されかけてるんだ。
ローテーブル越しに宵を見る。
彼女の顔には迷いがなかった。
感情がないわけじゃない。むしろ、感情を全部切り落として、目的だけを残したみたいな顔だ。冷たい、というより、空っぽの完璧さだった。
「昴」
呼ばれる。
でもそこに、昨日の柔らかさはない。
「抵抗は非合理」
「お前のほうがよっぽど意味分かんねえよ!」
叫ぶと同時に、手近にあったクッションを投げつける。
時間稼ぎにもならない。でも何もしないよりはましだった。
クッションは宵の肩に当たり、床へ落ちる。彼女はそれを一瞥しただけで、また俺へ視線を戻す。
「対象は、覚醒前に排除する必要がある」
「覚醒? 何の話だよ」
「星の鍵。世界の破壊と再生」
断片的な言葉だけが、部屋の中に落ちていく。
それらの意味はつながらないのに、不穏さだけがいやに明確だった。
覚醒。鍵。破壊と再生。
全部、俺に関係があるように言っている。
あり得ない。
そんなもの、俺は知らない。
俺はただの――
そこで、自分が「ただの何なのか」を言葉にしようとして、妙に空白を感じた。普通の高校生、でいいはずなのに、その“普通”がひどく頼りなく思える。
宵がこちらへ踏み出す。
俺は立ち上がり、台所のほうへ逃げた。
狭い家だから、逃げ場なんて大してない。それでも、じっとして殺されるよりはいい。台所の隅には金属ラックがあり、鍋や調味料が置いてある。咄嗟に手を伸ばして、小さめのフライパンを掴んだ。
我ながら情けない。
でも丸腰よりはましだった。
「昴」
宵の声が、すぐ近くで聞こえる。
振り向くと、もう目の前まで来ていた。
速い。足音がほとんどない。
俺は反射でフライパンを振るう。
宵はそれを、信じられないほど簡単に避けた。身体を半歩ずらすだけで、最小限の動きで。振り抜いた俺の勢いがそのまま空を切って、バランスが崩れる。
その瞬間、宵の左手が俺の手首を掴んだ。
冷たい。
昨日、頬に触れられたときと同じ温度なのに、今はまるで鉄の輪みたいだった。
「っ……!」
振りほどこうとしても、びくともしない。
あり得ない力だ。
「離せ!」
「速やかに終了する」
右手が、再び空へ伸びる。
まずい。
そう思った次の瞬間、俺はとっさに身体ごとひねって、台所のカウンターへぶつかった。狭い空間だからこそできた、ほとんど反射の動きだった。
宵の足元がわずかにずれる。
その拍子に、カウンターの端へ置いてあった買い物袋が落ち、中の缶詰や調味料が散らばった。床に転がった油のボトルが足元へ滑り込み、宵の踏み込みが一瞬だけ狂う。
その隙に、俺は手首を引き抜いて、半歩後ろへ下がる。
でも、狭すぎた。
背中が冷蔵庫へ当たる。
逃げ場がない。
宵がもう一歩、近づく。
そのときだった。
床に転がった小さな缶が、宵の踵の下へ入り込む。
ほんの僅かな狂いだった。
でも、それで十分だった。
体勢が崩れる。
宵の身体が、後ろへ大きく傾いた。
「あ――」
声が出たのが俺だったのか宵だったのか分からない。
次の瞬間、鈍い音がした。
宵の後頭部が、食器棚の角へ強くぶつかる。
音が、嫌に重く響いた。
一瞬、世界が止まる。
宵の身体が、そのまま床へ崩れ落ちた。
俺は動けなかった。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
ついさっきまで、俺を殺そうとしていた。空間を切って、壁を裂いて、名前も知らない単語を並べて、冷たい目でこっちを見ていた。
その相手が、今は床に倒れている。
「……おい」
恐る恐る近づく。
宵は目を閉じたまま動かない。
血が出ているわけではなさそうだ。でも顔色は、もともと白いせいもあって変化が読み取りにくい。
「宵」
呼びかける。
返事はない。
俺はしゃがみ込み、その肩に触れた。昨日よりも今日よりも、今が一番、その身体が現実のものだと強く感じた。冷たい。軽い。けれど確かに、そこにいる。
数秒後、宵の睫毛が震えた。
ゆっくりと目が開く。
そこにあったのは、さっきまでの冷たい無機質な視線じゃなかった。
焦点の合わない、少しだけ痛みに揺れた目。
「……昴?」
その声を聞いた瞬間、俺の身体から一気に力が抜けた。
「っ……お前」
そこまで言って、言葉が途切れる。
宵はゆっくりと瞬きをした。
「どうした」
本気で分かっていない顔だった。
「……頭が、少し痛い」
「少しどころじゃないだろ……!」
思わず声が荒くなる。
宵は眉を寄せ、ゆっくりと上体を起こそうとした。俺は慌ててその肩を支える。
「無理すんな」
「私は……」
宵の視線が、散らばった食材や割れた壁紙のほうへ向いた。
「何か、あったのか」
その問いに、俺は答えられなかった。
何かあった、なんてものじゃない。
ついさっき、お前は俺を殺そうとしていた。
そう言いかけて、喉のところで言葉が止まる。
目の前にいる宵は、本当に何も覚えていないように見えた。演技だ、と疑うこともできたかもしれない。でも、さっきのあの顔と今のこの顔は、同じ人間の中にあるにはあまりにも断絶が大きすぎた。
「昴?」
宵がまた俺の名前を呼ぶ。
その声には、昨日から知っているあの静かな戸惑いしかない。
「……転んだ」
結局、俺の口から出たのはそんな言葉だった。
自分でもひどいごまかしだと思う。でも、それ以上どう説明していいのか分からなかった。
「転んで、頭ぶつけた」
宵は目を伏せる。
「私は、また壊したのか」
その言い方が、妙に胸に刺さる。
「お前が全部悪いってわけじゃない」
反射的にそう言ったあとで、俺はようやく自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。手も少し震えている。怖かったのだ、やっぱり。遅れてその実感だけが身体に来ている。
宵は台所の床に散らばったものを見ていた。
「覚えていない」
小さく、そう言う。
「途中から、記憶がつながっていない」
昨日の夜と同じだ。
つながっていない。
その言葉を聞いた瞬間、昨日のコップのことが頭に戻ってくる。つまり、昨夜も何かあったのかもしれない。宵の中で、俺の知らない何かが起きて、そして切れている。
「……立てるか」
いったんそう言うしかなかった。
宵は頷いたが、立ち上がろうとした瞬間にわずかにふらつく。俺は反射的に腕を取った。昨日までなら、この距離の近さにも少し構えていたはずなのに、今はそんな余裕がなかった。
座布団を持ってきて、いったん宵を居間へ戻す。台所はぐちゃぐちゃのままだが、まずは彼女の様子を見るほうが先だ。
「じっとしてろ」
「昴」
「何だ」
宵は少しだけ迷うように黙ってから、言った。
「私は、昴に何かしたか」
その問いに、心臓が一つ強く打つ。
……した。
でも、したと言えば、たぶん宵はまた自分を責める。責める、という感情がどこまであるのかは分からないが、少なくとも自分が危険だという認識は深まるだろう。そして俺自身も、その瞬間を口にしたくなかった。
「……いや」
少し間を置いて、嘘をついた。
「大したことじゃない」
宵は俺を見た。
その視線の中に、どこか疑うようなものがあったかどうかは分からない。ただ、最後にはゆっくりと頷いた。
「そうか」
救急車を呼ぶほどではない、と判断したのは、頭を打った本人が思ったよりもしっかりしていたからだけじゃない。正直に言えば、誰かを呼びたくなかった。部屋の中の裂けた壁紙と真っ二つになったリモコンを見られたら、説明のしようがない。何より、宵を誰かに渡す気になれなかった。
その判断が正しいのかは分からない。
分からないけれど、昨日からずっと、俺は分からないまま選んでばかりいた。
台所の片付けは、結局二人がかりになった。
「座ってろ」と言ったのに、宵は少し休んだあとで立ち上がった。
「私もやる」
「頭痛いんだろ」
「動ける」
「……無理するなよ」
そう言うと、宵は少しだけ変な顔をした。
「昴は、私に対して繰り返し無理をするなと言う」
「そりゃするだろ」
「なぜ」
「昨日も今日も頭ぶつけてるやつがいたら、普通そう言う」
宵は少し考えてから、小さく呟いた。
「それは、気遣いか」
「そういうことになるんじゃないか」
宵は割れた壁紙のほうへ視線を向けた。
「でも私は、昴に負担を与えている」
「それはまあ、否定しにくいけど」
「なのに、気遣うのか」
その問いには、うまく答えられなかった。
ただ、たぶんそれが人間なんだと思う。迷惑をかけられても、負担を背負わされても、それでも相手を心配することがある。理屈に合わなくても、そういう方向へ感情が動くことがある。
「……矛盾したままでも、やるときはやるんだよ」
午前中にした会話と似たことを言うと、宵は少しだけ目を伏せた。
「人間は、難しい」
「俺もそう思う」
片付けの最中、宵は一度だけ割れた壁紙に指を近づけた。
切れ目はやけに滑らかで、鋏や包丁の跡とは思えない。俺がそれを見ていると、宵は指先を止めた。
「これを見ていると、何かを思い出しそうになる」
俺の身体がわずかに強張る。
「……何を」
「分からない。でも、鋭い感覚。熱ではなく、圧でもなく、境界が断たれる感じ」
その表現があまりにも具体的で、背筋が冷える。
「それ以上、無理に考えるな」
少し強く言ってしまった。
宵は驚いたように目を上げる。
「あ……いや、悪い」
俺は額に手をやった。
「今日はもう、これ以上変なこと起きると俺の頭がもたない」
宵はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「了解」
夕飯は、朝とは逆にひどく静かだった。
会話がないわけじゃない。でも互いに、何かに触れないようにしているのが分かった。俺はさっきのことをどう扱えばいいのか決められないまま箸を動かし、宵は自分の中で何が欠けて何が残っているのか分からないまま食べているように見えた。
テレビをつける気にはなれなかった。
もしニュースで昨日の隕石のことが流れても、見たいとは思えなかったし、見ずにいるのもまた現実逃避みたいで嫌だった。
外はすっかり暗くなっていた。
カーテンの向こうで、夜の気配が家を包む。昨日の夜とは違う意味で、暗さが妙に重かった。
食後、宵は食器を運ぶのを手伝った。昨日より動きは自然だ。少しずつ、生活の型に身体が慣れ始めているのが分かる。そうであるはずなのに、その“少しずつ慣れていく姿”と、昼間に見た冷たい刃みたいな彼女が、どうしても一人の中で結びつかない。
風呂のあと、居間に戻る。
布団を敷きながら、俺はようやく口を開いた。
「宵」
「何」
「……もしさ」
言いながら、どこまで聞いていいのか分からなくなる。
「また、記憶が途切れることがあったら、教えろ」
宵は少し黙った。
「記憶が途切れたことを、どうやって認識する」
「……あ」
確かにその通りだ。本人が途切れているなら、気づきようがない。
俺はしばらく言葉に詰まり、それから苦笑した。
「じゃあ、変な感じがしたら」
「変な感じ」
「何か思い出しそうとか、頭が痛いとか、いつもと違うとか」
宵は俺を見つめた。
その目は、昼間の刃ではなく、昨日から知っている宵のものだった。
「昴は、知りたいのか」
「知りたいっていうか……知らないままのほうが危ない気がする」
本音だった。
宵の中で何が起きているのか分からないまま一緒に暮らすのは、さすがに怖い。でも、全部を知る覚悟があるのかと言われたら、それもまた分からなかった。
宵は少しだけ考えてから、静かに答えた。
「分かった。そういう感覚があれば、伝える」
「頼む」
それだけ言うと、急に疲れが押し寄せてきた。
今日は、昨日とは別の意味で長い一日だった。何でもない朝から始まったはずなのに、途中で世界の裏側を少しだけ見せられたみたいな感覚がある。
布団へ入る。
電気を消す。
暗闇の中で、昨日と同じように隣の気配を感じる。
しばらくして、宵の声が聞こえた。
「昴」
「ん」
「私は、危険か」
その問いは、昨日よりもずっと重かった。
俺は目を閉じたまま、しばらく答えなかった。
危険だ。
今日、それをはっきり見た。
でも、それをそのまま言ってしまったら、たぶん何かが壊れる気がした。
「……分からない」
結局、そう答える。
「分からないけど、今ここにいるお前は、少なくとも俺が知ってる宵だ」
宵は黙っていた。
俺は続けた。
「それで今は、十分だ」
静かな沈黙が落ちる。
やがて、宵の小さな声が返ってきた。
「そうか」
その短い言葉が、妙に遠く感じた。
意識はすぐには沈まなかった。
昼間のことが、何度も頭をよぎる。裂けた壁紙。真っ二つになったリモコン。宵の口から出た「抹殺」という言葉。星の鍵。覚醒。破壊と再生。
全部が断片で、つながらない。
それでもひとつだけ確かなのは、あれがただの一時的な錯乱じゃないということだった。あの宵の中には、たぶん本当に“任務”のようなものがある。そしてその対象が俺だ、と彼女は言った。
じゃあ、俺は何なんだ。
考えようとすると、頭が重くなる。
答えが出るはずもない。
それでも、眠りの直前まで、俺の耳にはあの冷たい声が残っていた。
――対象名、昴。
その夜、俺は浅い眠りの底で、何度も目を覚ましかけた。
でも、そのたびに隣から聞こえる静かな寝返りの音が、かろうじて現実へ引き戻してくれた。
朝になれば、何かが整理されているわけでもないだろう。
宵の記憶が戻っている保証もない。
むしろ、また何も知らない顔で「おはよう」と言うのかもしれない。
そして俺は、そのたびに、彼女が何者なのかを考え直さなければならないのだろう。
昨日よりも少し近くなった距離と、今日見てしまった決定的な危うさ。
その両方を抱えたまま、俺たちの二日目は終わった。
何も解決しないまま。
けれどたぶん、確実に次の何かへつながりながら。




