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星の鍵  作者: 蒼星静流
第1章 夜の裂け目から、朝がこぼれた
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第2話 名前のない夜に、灯りをともす

家に帰るまでの道のりを、俺はたぶん一生忘れないと思う。


どこにでもある住宅街の道だった。古びた塀が続いていて、ところどころに小さな花壇があって、夕方になれば犬の散歩をしている人や、買い物帰りの人とすれ違うような、ごく普通の道だ。昼間なら何の感慨もなく歩き過ぎるだけの場所なのに、その日の俺には、目に入るものすべてが妙に遠く感じられた。


世界が一度止まって、そこから無理やり動き出したあとみたいに、景色だけが前と同じ顔をしている。


道端の電柱も、コンビニの看板も、アスファルトのひび割れも、いつもなら背景でしかないのに、その日はやけに輪郭がくっきりしていた。くっきりしているくせに、どこか本物じゃない。夢の中で見る街並みみたいに、知っているはずの風景なのに、妙に薄い膜が一枚かかっているような感覚が抜けなかった。


その原因は、たぶん、俺の斜め後ろを歩いている少女だった。


さっきまで隕石の落下地点にいて、クレーターの底にいたはずの存在が、今は何でもない顔で住宅街の中を歩いている。それだけで十分に現実感が狂うのに、当の本人はいたって静かで、まるで最初からこうして俺の家へ向かうことが決まっていたみたいな顔をしている。


何度か振り返りそうになって、そのたびにやめた。


見たらまた、現実が少しずれる気がしたからだ。


少女は一定の距離を保ったまま、黙ってついてきていた。近すぎず、遠すぎず、俺が一歩進めばそのぶんだけ静かに距離を詰める。走っているわけでもないのに、離れない。足音もほとんどしない。さっき森の中で感じたあの違和感は、街に出ても変わらなかった。


何か話しかけたほうがいいのか、とも思った。


けれど何を言えばいいのか分からない。


名前も知らない。どこから来たのかも分からない。そもそも、どういう存在なのかさえ分からない。分からないことだらけの相手に向かって、普通の会話の糸口なんて見つかるはずもなかった。


結局、俺は何も言えないまま歩いていた。


少女のほうも、何も言わなかった。


ただ一度だけ、信号待ちで立ち止まったとき、彼女は空を見上げた。夕焼けはすでに群青に溶けはじめていて、西の端にだけ、最後の赤が薄く残っていた。そこを見ている横顔は妙に静かで、街灯が点く直前の曖昧な暗さの中で、現実のものというより、水面に映った何かのように見えた。


「……どうした」


気づけばそう聞いていた。


自分でも驚いた。さっきまで一言も出てこなかったくせに、声にするときは案外あっさり出るものらしい。


少女は視線を空に向けたまま、少しだけ間を置いた。


「空の色が、変わっている」


「夕方だからな」


そう答えると、少女はゆっくりとこっちを見た。


「夕方」


言葉を確かめるみたいに繰り返す。


「日が沈む前後の時間のことだよ」


俺がそう補うと、少女は小さく頷いた。


「了解」


その返事に、思わず変な気分になる。


了解、という言葉は日常でも使われる。使われるけれど、目の前の少女の口から出ると、何かの応答コードみたいに聞こえる。会話をしているのに、会話とは少し違う場所で言葉が受け渡されている感じがした。


信号が青に変わり、俺たちはまた歩き出した。


俺の家は、駅から少し離れた住宅街の端にある、小さな平屋だった。借家なのか持ち家なのか、そういう説明を人にしたことがないから、自分でもいまいち実感はない。ただ、物心ついたころからこの家にいて、気づけば一人で生活することが当たり前になっていた。


玄関先の灯りは消えたままだった。夕方に出たまま、何も変わっていない家。そこへ見知らぬ少女を連れて戻ってきたという事実に、門の前に立って初めて、本格的な現実味が追いついてきた。


俺、何してるんだろう。


さっきまで無理やり脇へ追いやっていた疑問が、急にまとまって胸の中へ戻ってくる。


クレーターの底にいた少女を、そのまま家に連れて帰ってきた。冷静に言えば、どう考えてもおかしい。警察とか、救急とか、そういう選択肢を全部すっとばして、自分の家へ連れてきている。正気かと言われたら、自分でも答えに困る。


けれど、門扉に手をかけたところで、今さら引き返す気にはなれなかった。


ここまで来たら、もう進むしかない。


鍵を取り出して玄関の扉を開ける。


いつもの音がした。金属の擦れる音、扉の重み、靴箱の匂い、閉め切られていた家の少し乾いた空気。そういう、変わらないものたちに触れた瞬間、妙に安心しかけて、すぐにその安心がひび割れる。


後ろに、少女がいる。


それだけで、この家の空気まで今までと違うものに思えた。


「……入れよ」


振り返って言うと、少女は玄関の前でぴたりと止まった。


家の中を見ている。


いや、見ているというより、観察している、のほうが正確かもしれない。靴箱、傘立て、玄関マット、段差、薄暗い廊下。目に入るものを一つずつ順番に、意味を測るみたいに視線がなぞっていく。


「どうした」


「境界がある」


「境界?」


少女は足元の上がり框を見た。


「外と内を分けている」


「……ああ、まあ、そうだな」


そう言われてみれば、その通りだった。玄関なんて、普段は何も考えずに跨いでいる場所だ。なのに、あらためて「外と内の境界」と言われると、急にそこが見慣れない構造物みたいに感じられる。


少女はしばらくそこを見つめていたが、やがて足を上げた。


そしてそのまま、靴を履いた状態で上がろうとする。


「待て待て待て」


思わず声が大きくなる。


少女がぴたりと止まる。


「……何?」


「靴、脱ぐ」


「脱ぐ」


「家の中は、靴を脱いで入るんだよ」


少女は自分の足元を見下ろした。さっきまで意識していなかったみたいに、少しだけ首を傾げる。


「なぜ?」


「なぜって……そういうものだから、というか、外の汚れを中に持ち込まないため、っていうか」


説明しながら、自分でもひどく曖昧だと思う。でも、日本の家では靴を脱ぐ、なんて、普段は理由を考えることもない。そういう習慣を、一から言葉で説明するのは意外に難しかった。


少女は少し考えたあと、玄関でしゃがみこんだ。


そこまではよかった。


問題はその次で、靴をどう扱っていいのかが分からないらしい。片方の足を上げたまま、しばらく止まっている。まるで、機械に「次の手順」が入力されていないみたいだった。


「貸してみろ」


俺は玄関に戻り、しゃがんで、少女の足元を見た。


靴は見覚えのない形だった。ブーツともスニーカーとも違う。素材もよく分からない。色は夜みたいに暗く、継ぎ目が少なくて、やけにすっきりしている。ファスナーも紐も見当たらない。


さっきは気にしている余裕がなかったけれど、服装も含めて、本当にこの辺では見ないものだった。


俺が靴に手を伸ばすと、少女は少しだけ身体をこわばらせた。


「……取られる?」


「取らない。脱がせるだけ」


そう言って、足元を軽く引く。


驚いたことに、その靴はほとんど力を入れずに外れた。ぱちん、と小さな音がして、足に沿うように形が緩む。まるで持ち主に合わせて密着していたものが、自動で解除されたみたいだった。


「……何だこれ」


思わず呟くと、少女は言った。


「分からない」


本人にも分からないらしい。


もう片方も同じように外し、とりあえず靴箱の脇へ置いた。少女は裸足のまま上がり框の前に立ち、しばらく自分の足裏を見ていた。


「これでいいのか」


「いい。たぶんな」


「たぶん」


「細かいところは気にするな」


そう言って俺が先に上がると、少女も静かに続いた。


家の中に彼女が入ってくる。


たったそれだけのことが、やけに大きな意味を持っている気がした。


家というのは、本来、外から切り離された場所だ。知らない誰かを中へ入れるだけで、そこにあった静けさや匂いや温度が変わる。まして、それがさっき空から落ちてきたばかりの少女ならなおさらだ。


廊下を進む俺の背中へ、少女の視線がついてくるのが分かった。


右手に小さな台所、左に洗面所と風呂、その奥に六畳の居間兼寝室。古い家だから、間取りは単純だった。普段なら誰に見せるでもない生活の中身が、その日は不意にむき出しにされている気がして、少し落ち着かなかった。


居間の電気をつける。


蛍光灯が一瞬だけ明滅して、それから部屋全体に白い光が満ちる。


少女はその光に反応して、ほんの少し目を細めた。


「明るい」


「電気だよ」


「電気」


また言葉を繰り返す。


それを見ているうちに、何だか自分が小さな子どもに説明をしているみたいな気分になってきた。でも、子ども相手とも違う。目の前の少女は知らないのではなく、たぶん“持っていない”のだ。生活の記憶や習慣みたいなものを、丸ごと置いてきてしまった人間の反応に近い。


少女は部屋の中央で足を止め、ゆっくりと見回した。


机、椅子、テレビ、棚、本、カーテン、時計、床の上のクッション。そういうありふれたものたちが、彼女の視線の中で一つずつ意味を与えられていくように見えた。


「座るか」


俺はローテーブルの前に座布団を置いた。


少女はそれを見たまま動かない。


「……座る、って分かるか?」


「身体を下げて、安定させる行為」


「言い方がいちいち固いな」


半分呆れながら言うと、少女はわずかに瞬きをした。


俺が先に座って見せると、少女はそれを観察してから、同じように腰を下ろした。


動きはやっぱり妙に綺麗だった。


無駄がない、というより、無駄という概念が最初から与えられていない感じだ。人間って、立ったり座ったりするだけでも、少しぐらいふらついたり、衣服を整えたり、どこかに重心の迷いが出たりするものなのに、彼女の動作にはそれがない。ただ「座る」という結果だけが、最短で現れる。


しばらく、沈黙が落ちた。


時計の音だけがやけに大きく聞こえる。


何か言わなきゃいけない、と思う。けれど、何から始めればいいのか分からない。


名前。


まずはそこだろう、と思って、俺は口を開いた。


「……そういえば」


少女が顔を上げる。


「俺、まだ名前言ってなかったな」


言った瞬間、少しだけ妙な感じがした。いま目の前にいる相手に自分の名前を名乗ることが、妙に大きな行為に思えたからだ。名前なんて、普通はもっと軽く口にする。学校でも、買い物でも、自己紹介でも。なのに今は、自分が自分であるための輪郭を差し出すみたいな感覚があった。


「俺は昴。昴っていう」


少女はじっと俺を見た。


「すばる」


「そう」


「名前」


「名前だよ。お前は?」


その問いを投げた瞬間、少女の表情が初めてわずかに揺れた気がした。


困惑、に近かったのかもしれない。


視線がわずかに泳ぐ。けれど、迷うというより、空白を確かめる動きだった。


「……ない」


「ない?」


「思い出せない」


その一言で、部屋の空気が少し沈んだ。


記憶がない、というのは、さっきから何となくそうなんじゃないかと思っていた。生活のことを知らない。言葉は知っているのに、それを使う土台がごっそり抜けている。何かが欠けているのは明らかだった。


でも、本人の口から「思い出せない」と言われると、その欠落が急に重くなる。


「自分の名前も?」


少女は頷く。


「分からない。何をしていたのかも、どこから来たのかも、何のために動いていたのかも、思い出せない」


静かな言い方だった。


嘆くでもなく、取り乱すでもなく、ただ事実を並べるみたいに。


逆に、その静けさが胸に引っかかった。普通ならもっと不安が表に出てもいい。怖がってもいい。泣いたっておかしくない。でも目の前の少女は、記憶の欠落を「不便な情報不足」くらいの温度で口にしている。


「……そうか」


俺はそれしか言えなかった。


名前がないまま呼ぶのも困るし、かといって記憶を無理やり掘り返すわけにもいかない。少し考えてから、俺は天井のほうへ視線を逃がした。


夕方だった。


あの落下は夕暮れに起きて、空は血みたいな赤をしていて、世界は一度止まったみたいに静かだった。


「仮でいいなら、名前、つけるか」


少女が俺を見る。


「仮」


「本当の名前を思い出すまでの間だけ。呼ぶための名前」


少女は少しだけ間を置いた。


「必要か」


「必要だよ。毎回『お前』とか『えっと』とかじゃ不便だし」


そう言うと、少女は素直に頷いた。


「必要」


「……お前、夕方に来たし」


そこまで言って、言葉を探す。


星にしようか、と一瞬思った。でも自分が昴だから、あまりにもそっちに寄りすぎるのも変だ。流星、なんてそのまますぎて嫌だった。もっと柔らかくて、でもこの日の空気に合う名前がいい。


しばらく考えて、ふと、あの時間帯の色が浮かぶ。


日が落ちきる少し前、赤と群青の間で揺れていた空。


「……宵」


自分で口にしてみる。


少女は瞬きをした。


「よい」


「夕方から夜に変わるあたりの時間のこと。あのとき、ちょうどそんな空だったから」


説明してから、少し気恥ずかしくなった。言葉にすると、思っていた以上に詩みたいだ。


でも少女――いや、宵は、その名前を口の中で確かめるようにもう一度繰り返した。


「宵」


それから、小さく頷く。


「仮の名前として、受理する」


「受理って」


思わず笑いそうになる。


妙に硬い言い方なのに、拒否されなかったことが少しだけ嬉しかった。


「じゃあ、決まりな。お前は、宵」


「了解、昴」


名前が交換された。


ただそれだけのことなのに、部屋の中にあった曖昧さが、ほんの少しだけ形を持った気がした。もちろん、何も解決したわけじゃない。正体は分からないし、記憶も戻っていないし、これからどうするかなんて何も決まっていない。でも、名前があるというだけで、人は少しだけ誰かになれる。


そのことを、俺はたぶん初めて意識した。


「……とりあえず、水でも飲むか」


立ち上がって台所へ行く。


コップを二つ出して、水を注ぐ。蛇口から出る水の音が、やけに普通だった。その普通さが、逆にありがたかった。俺は一度深呼吸してから、コップを持って戻る。


宵はさっきと同じ姿勢で座っていた。まるで俺が立ち上がってから戻るまでの時間を、そのまま固定されていたみたいに動いていない。


コップを差し出すと、宵はそれをじっと見た。


「飲む、って分かるよな?」


「液体を体内に取り込む行為」


「もう少し普通に言えないのか」


「普通が分からない」


その返しに、俺は言葉を失った。


そうだった。彼女にとっては、本当に普通がないのかもしれない。


宵はコップを両手で持ち上げた。持ち方は危なげない。でも、そのまましばらく眺めている。


「どうした」


「透明だ」


「水だからな」


「匂いが少ない」


「水だからな……」


宵は少しだけ顔を近づけ、それからようやく口をつけた。


飲み方は普通だった。少しずつ喉を鳴らし、飲み込む。その一連の動きが終わったあと、宵はコップの中身を見つめた。


「冷たい」


「夏じゃないけど、一応冷蔵庫の水だから」


「体温との差がある」


「まあ、そうだな」


その会話のぎこちなさが可笑しくて、でも笑っていいのか分からなくて、俺は曖昧に息を吐いた。


腹が減っていることに、そのとき初めて気づいた。


緊張が少し緩んだせいかもしれない。夕方からずっと何も食べていないし、あんなことがあったあとだ。空腹があるのは当然だった。


「……飯、どうするか」


自分に言うみたいに呟く。


冷蔵庫を開ければ、それなりに材料はある。凝ったものを作る気力はないが、何か簡単なものならできる。


「宵、お前、腹減ってるか」


聞くと、宵はわずかに首を傾げた。


「空腹、という感覚が、いま判別できない」


「判別できないって……」


「ただ、内部が少し軽い感じがする」


「それを普通は腹が減ったって言うんだよ」


そう言うと、宵はこくりと頷いた。


「では、空腹」


何だか一つずつ辞書を作っているみたいだと思う。


「適当に作るから、座ってろ」


台所に立つと、少しだけ落ち着いた。包丁を持つ、鍋を出す、米をよそう。そういう手順が決まっていることは、思っている以上に心を安定させる。


冷やご飯があったから、炒飯にしようかと思って、結局やめた。油の音や匂いが強すぎると、いまの宵には刺激が強い気がした。代わりに、簡単な雑炊みたいなものにする。卵と刻みねぎ、それから冷蔵庫の隅にあった鶏肉を少しだけ。味噌汁も温め直す。


火をつけると、鍋の底で小さく音が鳴りはじめる。


その何でもない音を聞いていたら、ようやく自分が家まで戻ってきたんだという実感が追いついてきた。


でも、振り返れば、そこに宵がいる。


台所と居間の境目に座ったまま、こっちを見ている。


「……そんなに珍しいか」


「昴が何かを作っている」


「まあ、飯だからな」


「熱を使って、材料の状態を変えている」


「料理ってそういうもんだろ」


宵はしばらく黙っていたが、やがて言った。


「見ていていいか」


「別にいいけど」


許可を出すと、宵は静かに立ち上がり、台所の入り口まで来た。入り込んではこない。そこから一歩も動かず、鍋の中や俺の手元を見ている。


その距離感が不思議だった。


さっきまでは平気で人の頬に触れるくせに、いまは台所に踏み込まない。自分の中にあるルールが何なのか、本人にもまだ定まっていないのかもしれない。


雑炊をよそい、味噌汁を小さな椀に入れる。あとは冷蔵庫にあった漬物を少しだけ出して、机の上に並べた。


宵はその一つ一つを、やっぱり観察するように見ていた。


「これが、夕食か」


「まあな。大したものじゃないけど」


「温かい」


「温かいほうがうまいから」


「うまい」


「……食べると分かるよ」


そう言いながら、俺は箸を二膳出して、途中で手が止まった。


「……箸、使えるか?」


宵は箸を見つめた。


「不明」


「だろうな」


結局、スプーンも出すことにした。


俺は箸、宵はスプーン。なんだか介護とか保育とか、そういうものに少し近い気分になってきて、自分で少し苦笑した。


「いただきます」


習慣で手を合わせる。


宵がそれを見る。


「何をしている」


「食べる前の挨拶。まあ、決まり文句みたいなもん」


「必要か」


「なくても食べられるけど、言うと少し落ち着く」


宵は少し考え、それから俺の真似をして手を合わせた。


「……いただきます」


少しだけ発音がぎこちなかった。


けれど、それが妙に部屋の空気を柔らかくした。


宵はスプーンで雑炊をすくい、しばらく湯気を見つめてから口に入れた。


その瞬間、目がわずかに見開かれる。


「熱い」


「そりゃ熱いだろ。気をつけろよ」


「熱いのに、飲み込める」


「料理だからな」


「味がある」


「……水にも味はあるだろ」


「もっと複雑だ」


その言い方が、何だか少し面白かった。


宵は一口ごとに、舌の上で何かを確認するみたいに時間をかけて食べた。速くもないし遅すぎもしない。ただ、一つ一つの感覚に対して、ちゃんと反応しているのが分かる。


「どうだ」


聞いてみると、宵はスプーンを持ったまま答えた。


「嫌ではない」


「感想が薄いな」


「まだ判断中」


「そんなに慎重に食うもんじゃないって」


「でも、内部が温まる感じは、好ましい」


その言葉に、少しだけ安心する。


何かを「好ましい」と思えるなら、宵の中にもちゃんと感覚があるということだ。


食事の途中、宵は漬物を一口かじって、しばらく止まっていた。


「今度はどうした」


「塩分が強い」


「嫌か?」


「嫌ではないが、驚いた」


それを聞いて、俺は吹き出しかけた。


「お前、いちいち新鮮だな」


「新鮮?」


「……まあ、何でもない」


食卓に誰かがいるということ自体、俺にとっては久しぶりだった。普段は一人だから、食事はもっとずっと早く終わるし、会話もない。テレビをつけることもあるけれど、その日はそんな気になれなくて、部屋の中には食器の触れる音と、たまに交わす短い言葉だけがあった。


けれど、不思議と気まずさはなかった。


静かではある。でも、さっきまでのクレーターの静けさとも、帰り道の張りつめた沈黙とも違う。少なくとも今ここにある沈黙には、温度があった。


食べ終わると、宵は空になった器をじっと見た。


「なくなった」


「食べたからな」


「内部の軽さが減った」


「それを満腹って言うんだよ」


「満腹」


また一つ、宵の中に言葉が増える。


俺は器を重ねて立ち上がった。


「洗い物するから、ちょっと待ってろ」


台所で水を流す。


背後で、宵がまたこちらを見ている気配がした。振り返ると、案の定、彼女は食卓の前に座ったままこっちを見ていた。


「見るなとは言わないけど、そんなに珍しいか」


「食べたあと、物を洗う必要があるのか」


「必要。次に使うだろ」


「合理的だ」


「お前の言い方だと、全部報告書みたいになるな」


そう返すと、宵は少しだけ首を傾げた。


「報告書、が分からない」


「……また今度説明する」


洗い物を終えて振り向くと、宵はいつの間にか立ち上がって、部屋の隅にある本棚の前にいた。


背表紙を眺めている。


「読むのは分かるか?」


「文字は分かる。けれど、この中に自分と関係のあるものがあるかは分からない」


その言い方に、胸が少しだけ痛んだ。


記憶がない、というのはたぶん、こういうことの積み重ねなんだろう。目の前の何かを見ても、自分とのつながりが一切見つからない。知らないものが多いのではなく、自分という基準点そのものが曖昧だから、何を見ても浮いたままなのだ。


「……今日は、無理に何か思い出そうとしなくていい」


そう言うと、宵は本棚から手を引いた。


「昴は、思い出してほしくないのか」


「そうじゃなくて」


俺は言葉を探した。


「無理に考えたって、疲れるだけだろ。今日はもう……何ていうか、十分いろいろ起きたし」


我ながら雑な言い方だと思う。でも、うまくまとめる余裕がなかった。


宵は少し黙ってから、静かに頷いた。


「了解」


それから、今度は部屋の時計を見上げる。


「これは、時間を示しているのか」


「そう。もうすぐ九時」


「九時」


「夜の」


「夜」


一つ一つ、世界の輪郭に名前を貼っていくみたいだと思った。


それから、風呂の説明が待っていた。


普段なら何も考えずに済むことの一つ一つが、その日は全部「説明が必要な手順」になっていた。


「先に風呂入るか」


そう言うと、宵は少しだけ表情を動かした。


「風呂」


「身体を洗う。湯につかる」


「必要か」


「必要。少なくとも今日は、外にいたし」


宵は自分の手の甲を見た。


「汚れているようには見えない」


「見えなくても洗うんだよ」


洗面所に連れていくと、宵は鏡の前で足を止めた。


そこに映る自分を、しばらく無言で見つめている。


「あれはお前だよ」


とりあえず言うと、宵は鏡のほうから目を離さずに口を開いた。


「分かる。遅れて動くわけではないから」


「そこじゃなくて……」


何を言いたいのか自分でも分からなくなって、言葉を切る。


宵は鏡の中の自分の頬に、そっと触れた。映像ではなく、実際のほうの頬に。その動きが、初めて自分という輪郭を確かめているみたいに見えて、妙に印象に残った。


「タオルはこれ、着替えは……とりあえず俺のTシャツでいいか」


引き出しから大きめのTシャツと、まだ新しいジャージの下を出す。宵が着ている服の構造はよく分からないし、素材も変わっているから、まずは普通の服に変えたほうがいいと思った。


「使い方、分かるか」


「多分」


「多分かよ……」


シャンプー、ボディソープ、シャワーの使い方、蛇口のひねり方、湯の温度。そういうことを一つずつ説明する。途中で、自分が何をしているのか分からなくなりそうだった。


でも宵は、真剣に聞いていた。


分からないものを分からないままにしないように、丁寧に覚えようとしているのが伝わってくる。


「それで、服を脱いで、身体を洗って、最後にちゃんと流してから出る。分かったか」


「分かった」


「本当に?」


「九割くらい」


「残り一割が怖いんだよな……」


心配はあったが、さすがに風呂の中までついていくわけにはいかない。俺は脱衣所の前で立ち止まり、「何かあったら呼べ」とだけ言って、いったん居間へ戻った。


落ち着かない時間だった。


風呂場のほうから、シャワーの音がする。止まる。しばらくしてまた鳴る。途中で一度だけ、がたん、と何かがぶつかった音がして、その瞬間には思わず立ち上がった。


「宵!?」


脱衣所のほうへ声をかけると、少し間があってから返事が来る。


「問題ない」


本当に問題ないのかは怪しかったけれど、とりあえず声が普通だったので座り直した。


結局、宵が出てくるまで二十分以上かかった。


脱衣所の引き戸が開き、湿った空気と一緒に宵が姿を現す。


俺のTシャツはやっぱり少し大きくて、袖が手首まで来ていた。ジャージも裾を折っている。髪は半分くらいしか乾いていなくて、肩先から水滴が落ちている。


「お前、髪……」


「拭いた」


「いや、全然足りてない」


タオルを持って近づくと、宵は少しだけ身構えた。けれど逃げるわけではない。


「動くなよ」


そう言って、頭の上からわしゃわしゃ拭く。


自分でも少し不思議だった。ついさっきまで隕石の中から現れた得体の知れない存在だと思っていた相手の髪を、今は当たり前みたいに拭いている。その落差に、頭が追いついていない。


髪は思ったより柔らかかった。少し冷たいけれど、水分のせいだけではない気もする。


「……昴」


不意に、宵が俺の名前を呼んだ。


「何だ」


「これは、何をされている状態だ」


「髪を拭いてる」


「必要か」


「必要。風邪ひくから」


「風邪」


「体調崩すやつ。今は説明省く」


宵は少し考えてから、静かに言った。


「昴は、説明を省くことが多い」


「全部説明してたら朝になるだろ」


「それは困る」


「だろ」


そんなくだらないやり取りをしているうちに、少しだけ肩の力が抜けた。


風呂のあとは、寝る支度だった。


押し入れから予備の布団を引っ張り出す。普段使うことなんてほとんどないから、少しだけ湿気くさい匂いがした。シーツをかけ直し、座布団を枕代わりにして、どうにか形を整える。


「今日はここで寝ろ」


宵は敷かれた布団を見つめた。


「これは、休眠のための設備か」


「睡眠な。まあ、そんなもんだ」


「昴は、別の場所で休眠するのか」


「だから睡眠だって。俺はいつもの場所」


自分の布団を指すと、宵はそれを確認するように見比べた。


「近い」


「家が狭いんだよ」


「狭いことは、悪いことか」


「悪いってほどじゃないけど、まあ、広いほうがいろいろ楽ではある」


そう言いながら、自分でも何だこの会話、と思う。


布団を前にして、妙に真面目な顔で「近い」とか「狭い」とか話しているのが可笑しかった。


「寝るの、分かるよな?」


聞くと、宵は少しだけ目を伏せた。


「目を閉じて、意識の連続が途切れる現象」


「一応、概念はあるんだな」


「でも、自分がそれを必要とするかは分からない」


「……は?」


思わず間抜けな声が出た。


「必要とするか、って」


「眠気、という感覚が明瞭ではない」


それを聞いて、俺は一瞬だけ黙った。


そうか。彼女は疲れたとか眠いとか、そういう身体感覚も曖昧なのかもしれない。


「でも、とりあえず横になってみろ」


「なぜ」


「人は、横になると少し落ち着くことが多い」


「昴も?」


「まあ、たぶん」


宵はそれを聞くと、素直に布団の上に座った。それから、俺がやるのを見ていたみたいに、ゆっくり横になる。


その姿は、初めて少しだけ「年相応の少女」に見えた。


大きいTシャツに包まれて、見慣れない家の布団におさまっている。ただそれだけなら、本当にただの行き場のない子どもみたいだった。


でも、目を合わせるとやっぱり違う。


そこにある静けさは、普通のものじゃない。


「電気、消すぞ」


俺が言うと、宵は天井を見たまま訊いた。


「暗くなると、危険ではないのか」


「家の中だから大丈夫。眠るときは暗いほうがいい」


「なぜ」


「……そういうもんなんだよ」


結局そればかりだった。


でもたぶん、生活ってそういうものでできている。言葉にできる理由より先に、積み重ねで形になった習慣がある。宵はその習慣を一つも持っていない。だから俺は、いちいち言葉にして渡すしかない。


電気を消すと、部屋はすぐに暗くなった。


カーテンの隙間から、外の街灯の光が少しだけ差し込んでいる。完全な闇ではない。時計の針の音が、また小さく部屋の中に戻ってくる。


自分の布団に入って、天井を見上げる。


今日は本当にいろいろありすぎた。


隕石が落ちた。


クレーターに少女がいた。


その少女を家に連れて帰ってきた。


名前をつけた。宵、と。


何も整理できていない。明日どうするかも決めていない。学校だってあるはずだし、ニュースで騒ぎになっているかもしれないし、落下地点のことだって放っておけるわけがない。


それなのに、身体の疲れはもう限界に近かった。


まぶたが重い。


隣の布団から、音はほとんど聞こえない。


「……宵」


試しに呼んでみると、すぐに返事が来た。


「何」


「眠れそうか」


少しだけ間があった。


「分からない」


「そうか」


「昴は」


「ん?」


「どうして、私をここへ連れてきた」


暗闇の中、その問いだけがはっきりと耳に届いた。


俺はすぐに答えられなかった。


自分でもまだ、ちゃんと説明できないからだ。


しばらく考えて、結局出てきたのは正直とも曖昧ともつかない言葉だった。


「……分からない」


俺は天井を見たまま言う。


「でも、あのまま置いていくのは、違う気がした」


宵は黙っている。


俺は続けた。


「たぶん、それだけ」


また少し沈黙が落ちる。


それから、宵の声がした。


「そうか」


その短い返事に、どんな感情が含まれていたのかは分からない。


でも、不思議と嫌な感じはしなかった。


しばらくして、俺の意識はゆっくりと沈みはじめた。


疲れが一気に押し寄せてくる。


音が遠くなる。


たぶん、そのまま眠ったんだと思う。


だから、最初の音には気づかなかった。


夜のどこかで、乾いた衝撃音が鳴った。


甲高くて、鋭い音。


それは机の上に置いていたガラスのコップが床へ落ちて割れた音だった。


俺は一瞬だけ目を覚ました気がしたけれど、眠気の底が深すぎて、現実まで浮上できなかった。半分夢の中のまま、何か落ちたのか、くらいの認識だけがぼんやりと頭をかすめて、そのまままた意識が沈んでいく。


だから、見ていない。


布団の上にいた宵が、その音の瞬間に、弾かれたみたいに上体を起こしたことを。


暗闇の中で、彼女の目だけが、ひどく冴えた光を帯びたことを。


息をしていなかったように静かだった彼女の身体が、初めて人間らしく小さく震えたことを。


割れたコップの破片が、街灯の薄い光を受けて白く光る。


その光を見た瞬間、宵の中で、何かがひび割れた。


景色が変わる。


暗い部屋ではない、どこか別の場所。


白い壁。


無機質な天井。


冷たい光。


重なり合う複数の声。


――対象、反応確認。


――同期率、上昇。


――記憶領域の固定を優先。


――目的を忘れるな。


その声の誰一人として、顔は見えない。


ただ、冷たい指先みたいな言葉だけが、断片になって脳の奥へ突き刺さる。


宵は自分のこめかみを押さえた。


痛み、に近いものがある。


でも痛みそのものというより、閉じられていた扉が一瞬だけ内側から押し開かれるような、そんな感覚だった。


目的。


その言葉が、闇の中で微かに輪郭を持つ。


私は――


そこまで来て、映像が乱れる。


白い壁が剥がれ、代わりに夜空が見える。


無数の星。


落下。


熱。


それから、誰かの声。


遠く、けれどはっきりと。


――戻れ。


命令するような、祈るような、どちらともつかない声。


宵の唇が、かすかに動いた。


「……かえ……」


声になりきらない音が、暗い部屋に溶ける。


その隣で、俺は眠ったままだった。


浅い夢の底で身じろぎをしただけで、何も知らない。ガラスが割れたことも、宵が起き上がったことも、その目が一瞬だけ、あのクレーターで見たとき以上に遠い光を宿したことも。


宵はしばらくそのまま、固まったように座っていた。


呼吸は浅く、指先だけがわずかに震えている。


やがて、断片的に戻りかけたものは、波が引くみたいに静かに消えていった。


白い壁も、声も、星も、命令も、全部が遠ざかる。


残ったのは、ひどく曖昧な感覚だけだった。


何かを思い出しかけた。


けれど、それが何なのかまでは掴めない。


宵はゆっくりと視線を落とし、床に散ったガラス片を見た。


それから、暗闇の向こうにある俺の布団へと目を向ける。


俺は寝息も立てずに眠っていた。


何も知らない顔で、ただそこにいる。


宵はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく、ほとんど聞こえない声で呟いた。


「……昴は、知らなくていい」


それが誰に向けた言葉だったのか、たぶん宵自身にも分かっていなかったと思う。


次の瞬間には、またいつもの静けさが戻っていた。


宵は布団へ横になり、目を閉じる。


割れたコップだけが、夜の部屋に小さな異変として残される。


けれど、それに気づくのはたぶん、朝になってからだ。


そして俺はまだ知らない。


この夜、宵の中で何かが確かに揺れたことを。


思い出されたものが、ほんの欠片であっても、ただの記憶ではなく、この先の俺たちを引きずっていく“目的”の残響だったことを。


そのときの俺には、まだ何も分からなかった。


ただ、次の朝もきっと、何も知らないまま始まるのだろうと思っていた。


まるで、昨日の続きみたいな顔をして。


けれど本当は、昨日の世界は、もうどこにも残っていなかったのだ。

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