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星の鍵  作者: 蒼星静流
第1章 夜の裂け目から、朝がこぼれた
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第1話 世界が一度止まった日

あの日のことを思い出そうとすると、最初に浮かぶのは光でも音でもなく、ひどく澄みすぎた静けさだ。


たぶん、あの瞬間からすべては始まっていたんだと思う。けれど、そのときの俺には、何が始まろうとしているのかなんて分かるはずもなくて、ただ、いつもと同じ道を、いつもと同じように歩いているはずなのに、世界の手触りだけがどこか違っていることに、うまく言葉にできない居心地の悪さを覚えていた。


静かだった。


ただ静か、というだけじゃない。音がないのではなくて、音のほうがこちらを避けているような、そんな静けさだった。


風は吹いていなかった。春とも初夏ともつかない季節の、その時間帯なら、本当ならもう少し空気がゆるく流れていてもいいはずなのに、頬を撫でるものが何もない。木の葉は一枚も揺れず、電線も鳴らず、遠くを走る車の音さえ妙に薄い。耳を澄ませば何か聞こえてきそうなのに、実際には、世界から必要な雑音だけがきれいに抜き取られてしまったみたいに、輪郭だけを残した景色が広がっていた。


空は赤かった。


夕焼け、というには赤すぎたのかもしれない。西の空に張りついた色は、きれいというより濃密で、何かの内側を透かして見ているような、不吉な深みを帯びていた。遠くの山の稜線は、黒い切り絵みたいにくっきりと浮かび上がっていて、その向こう側に沈みきれない赤がじっと滲んでいる。


その景色を見たとき、理由もないのに息を吸い込みにくいと思った。


胸の奥に、目には見えない薄膜みたいなものが一枚、ぴたりと貼りついているような感覚だった。痛いわけじゃない。苦しいと呼ぶほどでもない。でも、呼吸をするたびに、世界のどこかがほんの少しだけずれていることを身体が先に察してしまう。そんな違和感だった。


何かがおかしい。


そう思った。


けれど、その「何か」が何なのかは、どうしても掴めなかった。


立ち止まるほどではない。引き返すほどでもない。ただ、胸の底に小さな棘が刺さったままになっているみたいに、感覚だけが消えない。そういう曖昧な気持ちを抱えたまま、俺は舗装路の上を歩いていた。住宅街の外れから、少しだけ山に近いほうへ出た道だった。人通りはもともと多くない。だから余計に、その静けさが世界全体のものみたいに感じられたのかもしれない。


最初に異変として認識したのは、音だった。


いや、音と呼んでいいものだったのか、今でも少し分からない。耳で聞いたというより、骨で受け取った、と言ったほうが近い。足の裏から、膝から、背骨の芯から、じわじわと低い振動が這い上がってくる。地面のずっと深いところで、巨大な何かがゆっくり身じろぎしたみたいな、鈍く重い気配だった。


俺は思わず足を止めた。


その瞬間、静けさの中に埋もれていた違和感が、急に輪郭を持って迫ってくる。


――なんだ。


そう思うより先に、身体のほうが空を見上げていた。


そこに、光があった。


最初は、見間違いかと思った。夕焼けの残光が、目の錯覚で一本の線に見えただけじゃないか、と。けれど次の瞬間には、それが明らかに「そういうもの」ではないと分かってしまった。


ひと筋の光が、空を裂いていた。


細く、鋭く、迷いがなかった。


流れ星、という言葉が頭に浮かんだけれど、すぐに違うと思った。あまりにも速すぎたし、あまりにも一直線だった。願い事を考える暇なんてない。綺麗だと思う余裕すらない。ただ、明確な意志を持っているみたいに、真っ直ぐこちらへ向かってくる。


「……落ちる」


自分の声が、自分の口から勝手にこぼれた。


それは予想でも推測でもなくて、目の前の現象を、ただそのまま言葉にしただけだった。


そう口にした瞬間、世界の時間がほんの少しだけ鈍くなった気がした。


一秒が長く引き延ばされたみたいに、光の軌跡が網膜の上に焼きつく。空の色が濃くなる。地面の感触がやけに鮮明になる。自分の鼓動の音だけが、妙に遠い場所から聞こえてくる。


次の瞬間、世界は白く壊れた。


閃光がすべてを塗りつぶした。


目の前の景色も、足元の道も、空も、山も、自分の手すら分からない。ただ、白い、としか言いようのない光が、強引に世界の輪郭を奪い去る。熱が来たのか、圧力が先だったのか、その順番は覚えていない。記憶の中では、何もかもが一度に襲ってきた。


遅れて、轟音が来る。


音というよりは、破壊そのものがやってきた感覚だった。空気が固い壁みたいになって身体にぶつかり、胸の中の息が一気に押し出される。鼓膜の奥で何かが弾けたみたいな衝撃が走って、足が浮いた気がした。


反射的に俺はその場にしゃがみ込み、頭を抱えるようにして耳を塞いだ。そうでもしなければ、自分の輪郭がそのまま吹き飛ばされてしまいそうだった。


地面が震える。


小石が跳ねる音がする。


何かが折れ、砕け、崩れる音が、近くでも遠くでもいっせいに響いた。


それなのに、そのすべてがどこか水の底みたいに鈍く、遠く感じられた。世界が一枚の厚い膜で包まれてしまって、その向こう側で出来事だけが起きているような、そんな奇妙な感覚があった。


どれくらいそうしていたのかは分からない。


数秒だったのか、十数秒だったのか、それとももっと短かったのかもしれない。時間の感覚が完全に狂っていた。


やがて、少しずつ視界の白さが薄れていく。


耳鳴りがひどかった。キーンという高い音が、頭の内側に針みたいに刺さっている。その向こうで、自分の荒い呼吸だけが、妙に現実感を持って響いていた。


俺はゆっくりと顔を上げた。


静かだった。


けれど、それは落下前の静けさとは違う。


あのときの静けさが「何かが起こる前の空白」だったのだとすれば、今ここにある静けさは、「何かが起きたあとに残された欠損」だった。音が消えたというより、いったん世界の側が壊れてしまって、まだ必要なものだけがちゃんと戻ってきていない、そんな半端な現実だった。


焦げた匂いが鼻を刺す。


焼けた土のにおいと、草木が一気に炙られたような苦い匂いが混ざっている。空気は乾いていて、熱を含み、目の前の景色をわずかに揺らしていた。


視界の端で、まだ光の残滓が揺れている。


俺は立ち上がり、ふらつく足で前を見た。


そして、その光景に息を呑んだ。


森の一部が、消えていた。


いや、消えたというより、そこだけ世界から抉り取られたみたいだった。木々は何本もなぎ倒され、土が剥き出しになり、その中心には円く深い傷口みたいな窪みが口を開けている。その縁からは、黒っぽい煙が細く立ち上っていて、まだ地面のどこかに火と熱が残っていることを示していた。


隕石だ。


理解は、驚くほどあっさりしていた。


そうとしか言いようがない光景だったからだ。


けれど、その理解とは別のところで、俺の頭は妙に空白のままだった。驚いているはずなのに、叫び声も出ない。怖いはずなのに、足がすくまない。代わりに、もっと奇妙な衝動だけが俺の中にあった。


あそこに、何かがある。


そうとしか言えない確信だった。


本当なら近づくべきじゃない。危険かもしれないし、何が起きるかも分からない。そんなことは、頭では分かっていた。それでも、足が勝手に前へ出る。


理由はない。


理屈もない。


ただ、行かなければならない気がした。


焦げた地面を踏み越えて、折れた枝や散った葉を避けながら、俺はゆっくりとその場所へ近づいていった。熱はまだ地表にこもっていて、靴底越しにも、じんわりとした熱気が伝わってくる。空気は陽炎みたいに揺らぎ、景色の輪郭がところどころ歪んで見えた。


近づけば近づくほど、周囲の破壊ははっきりしてくる。幹の太い木まで途中からへし折られている。根元から倒れたものもあれば、枝だけが無残に裂けたようになっているものもある。地面には抉れた跡がいくつも残っていて、小石や土塊が無造作に散っていた。


こんなの、映画の中でしか見たことがない。


そんな場違いな感想が、一瞬だけ頭をよぎる。


やがて、俺はクレーターの縁に辿り着いた。


そして、見た。


最初、それが何なのか分からなかった。


砕けた岩の中心に、妙に整った形がある。周りのすべてが乱れているのに、その一点だけが、世界の壊れ方から取り残されている。


人の形をしていた。


心臓が、強く打った。


少女だった。


黒く焼けた地面の上に、眠るように横たわっている。まるで空から降ってきたのが隕石じゃなくて、この少女そのものだったみたいに、あまりにも不自然な位置で、あまりにも静かに、そこにいた。


白い肌には傷ひとつない。


髪にも煤がついていない。


服もほとんど乱れていなかった。


周りはあんなに滅茶苦茶なのに、どうしてそこだけそんなふうに無傷でいられるんだ、と、頭のどこかで思う。けれど、その疑問に答えを出すより先に、ただ「現実じゃないものが現実の顔をしてそこにある」という感覚だけが、じわじわと背筋を冷たくしていった。


近づくべきか、離れるべきか。


その判断がつかないまま、俺はクレーターの縁で立ち尽くしていた。


そのとき、少女の指先が動いた。


ほんのわずかに。


見間違いかと思うくらい小さな動きだったのに、俺の身体はそれをはっきりと捉えてしまった。


喉の奥がひゅっと鳴る。


次いで、長い睫毛の影が震えた。


まぶたが、少しずつ開いていく。


時間が、また引き延ばされたように感じられた。


俺は逃げなかった。


逃げるべきだったのかもしれないのに、その発想が浮かばなかった。


開いた瞳が、真っ直ぐに俺を見た。


その目の色を、そのときの俺はうまく言い表せなかった。暗いとも明るいとも違う。夕焼けを映しているのに、どこか光を拒んでいるような、不思議な色だった。底の見えない水を覗き込んだときみたいに、近いはずなのに距離感だけが狂っている。


見られている。


その感覚だけが、鋭く残った。


少女はしばらく俺を見たまま動かなかった。表情らしい表情はなくて、ただ観察しているみたいだった。俺の顔の造りとか、服とか、立っている位置とか、そういうものを一つずつ確かめているような、そんな視線だった。


やがて、少女が口を開く。


「……ここは、どこ?」


あまりにも普通の声だった。


それが逆に、ひどく場違いだった。


もっと異質な、もっと人間離れした音が出てきてもおかしくないと思っていたわけじゃない。けれど、目の前の状況とあまりにも噛み合わないほど、その声は自然だった。ごく普通の、年頃の少女がただ道を尋ねるみたいな調子で、そんな問いが投げられる。


俺は答えられなかった。


答えるより先に、少女がゆっくりと上体を起こしたからだ。


砕けた岩の破片がぱらぱらと落ちる。


その音だけが妙に生々しい。


でも、少女の身体には傷ひとつない。擦り傷も、打撲の跡も、服の破れもない。こんな場所の中心にいたはずなのに、衝撃も熱も、何ひとつ彼女に届いていないみたいだった。


本能的に、俺は一歩下がった。


それは恐怖だったのかもしれないし、単なる防衛反応だったのかもしれない。ただ、近づいてはいけないものに対して、人間の身体が勝手に取る距離というものがあるなら、あのときの後ずさりは、きっとそういう種類のものだった。


少女は再び、俺を見る。


「……ここは、どこ?」


同じ問いを、同じ声で繰り返した。


少しだけ首を傾げる。


その動きが、妙に整っていた。


きれい、と感じたのは事実だ。でもそれは、人間の動きに対して抱く「しなやかさ」や「自然さ」とは少し違っていた。継ぎ目のない人形が、そのまま角度を変えたみたいな、滑らかすぎる動きだった。迷いもない。ためらいもない。人なら自然に混ざるはずの、ごく小さな揺らぎが何もない。


喉の奥の乾きを飲み込んで、俺はどうにか声を出した。


「……町の外れだ。山の近く」


言葉にしてみると、ひどく現実味のない返事だった。だって目の前の少女は、町の外れだとか山の近くだとか、そういう現実の地理に属している存在には思えなかったからだ。


それでも、俺の言葉を聞くと、少女はぴたりと止まった。


考えているように見えた。


でも、考えるというより、入力された情報をどこかで整理しているような沈黙だった。聞いた言葉を理解するまでの間、というより、それをどこへ格納するか決めているような、そんな妙な間。


やがて、少女は立ち上がった。


その瞬間、小石が弾けた。


ぱき、と乾いた音がする。


俺は思わず足元を見る。


少女が力を込めたようには見えなかった。ただ立ち上がっただけだ。それなのに、踏みしめた地面がわずかに沈み、蜘蛛の巣みたいに細かな亀裂が広がっている。


少女も、自分の足元を見た。


「……壊れた?」


その言い方は、まるで世界の側に不具合が起きたみたいだった。


自分が壊した、という認識がそこにはない。


「いや、お前が……」


そこまで言いかけて、俺は黙った。


何をどう説明すればいいのか分からなかったし、そもそも俺自身が説明を求める側だった。なんでこんなことになるのか。なんで隕石の中から少女が出てきて、なんで無傷で、なんで立っただけで地面が割れるのか。分からないことだらけなのに、その中心にいる相手に向かって「お前がやった」と言い切るのは、妙に滑稽な気がした。


少女はしばらく足元を見つめたあと、すぐに興味を失ったように顔を上げた。


次に何をするのかと思った、その直後だった。


少女がこちらへ歩いてくる。


一直線だった。


距離を測るとか、相手の反応を伺うとか、そういう予備動作が一切ない。自分と相手の間にある空気ごと、そのまま短くしてしまうみたいに、まっすぐ近づいてくる。


「おい――」


止めようとした。


でも間に合わなかった。


少女の指先が、俺の頬に触れた。


冷たい、と思った。


けれど、冬の手みたいな冷たさとは違う。血の巡りが悪くて冷えている感じでもない。もっと均一で、もっと曖昧な冷たさだった。水面のすぐ下に手を入れたときみたいな、どこにも偏りのない温度。生き物の手というより、精密に整えられた何かに触れられた気がした。


少女は指先で、俺の頬をそっとなぞる。


その動きにはいやらしさも遠慮もなくて、ただ純粋な確認だけがあった。


「……柔らかい」


小さく呟く。


感想というより、観測結果の報告みたいな声だった。


「当たり前だろ……」


思わずそう返すと、少女は一拍遅れて瞬きをした。


それから、口元がわずかに動く。


最初、それが何か分からなかった。


でもすぐに、それが「笑おうとしている」のだと気づく。


気づいてしまったからこそ、余計に奇妙だった。


形だけをなぞったような笑み。


目の中には、その変化に伴う温度が何もない。


「……これが、正しい反応?」


誰に聞かせるでもなく、少女が言う。


俺は答えられなかった。


その問いに対しての答えを、たぶん目の前の少女は求めていない。これは確認であって、感情ではない。そんな気がした。


――普通じゃない。


ようやく、頭の中にその言葉が形を持った。


当たり前だ。隕石の中から現れた無傷の少女が普通なわけがない。そんなことは最初から分かっていた。それなのに、実際に声を聞いて、動きを見て、触れられてみると、「普通じゃない」という言葉一つでは足りないほど、目の前の存在は異質だった。


そのとき、不意に風が吹いた。


さっきまで止まっていた空気が、遅れて世界を思い出したみたいに、乾いた風となって頬を掠める。焦げた匂いを含んだそれが、俺たちの間を通り過ぎた。


同時に、少女の視線が空へ向いた。


反応が速すぎた。


何かを聞き取ったとか、遠くの気配に気づいたとか、そういうレベルじゃない。風が来るのを待っていたみたいに、ぴたりと顔を上げたのだ。


「……来る」


短く、少女が言う。


何が、と聞くより早く、数秒遅れて俺の耳にも音が届いた。


サイレンだった。


遠い。


けれど、確実にこちらへ向かってきている。


ひとつじゃない。重なっている。救急か、消防か、警察か、それとも全部か。あの落下と爆音だ。通報が入っていないはずがない。


俺は反射的に、煙の向こうを見た。


このままここにいれば、間違いなく誰かが来る。


それは当然のことだし、むしろ来ないほうがおかしい。なのに、その当然さが、この状況をいよいよ現実の外に追いやっていくみたいで、妙な焦りが胸に満ちた。


「……ここにいたら、まずい」


声に出した瞬間、自分でも不思議に思った。


どうして俺は、この少女を含めた判断をしているんだろう。


普通なら、ここで大人を呼ぶとか、警察を待つとか、そういう発想が先に来るはずだ。目の前にいるのが隕石の中から現れた正体不明の少女ならなおさら、個人でどうにかしようとするほうがおかしい。


でも、置いていく、という選択肢だけが最初から頭に浮かばなかった。


なぜなのかは分からない。


ただ、この場に少女を残せば、何かが決定的に手遅れになる気がした。それが少女にとってなのか、俺にとってなのか、世界にとってなのかは分からない。ただ、二度と元には戻れない種類の何かが起きる気がして、ひどく嫌だった。


少女はサイレンの鳴る方向を見たまま、微動だにしない。


「来る」


さっきと同じ言葉を、同じ抑揚で繰り返す。


「分かってる。だから――」


そこまで言って、言葉が途切れる。


連れていく理由なんてない。責任もない。名前すら知らない相手だ。


それなのに、口から出てきたのは、あまりにも短いひと言だった。


「……一緒に来い」


少女が、ゆっくりとこちらを向く。


その一瞬の間が長かった。


また、あの「処理している」みたいな沈黙。


それから、少女は小さく頷いた。


「了解」


その返事はひどく簡潔で、妙に機械的だった。


けれど今は、そこに引っかかっている余裕がない。


「走れるか」


聞くと、少女は少しだけ首を傾げる。


「走る、の定義は?」


「……いいから、ついてこい」


自分でも雑だと思う言い方だったが、説明している時間はなかった。


俺は踵を返して走り出した。


焦げた地面を蹴り、折れた枝を飛び越え、森の外れのほうへ向かう。足場は悪く、ところどころ土が崩れていて、走りやすいとはとても言えなかった。けれど、立ち止まっているよりはましだった。


背後から少女がついてくるはずだった。


でも、数歩進んだところで、違和感に気づく。


音がしない。


普通なら、足音がする。枝を踏む音とか、土を蹴る音とか、呼吸とか、そういうものが背後にあるはずだ。


なのに、何も聞こえない。


嫌な予感がして、俺は振り返った。


少女は、すぐ後ろにいた。


近い。


さっきまでいた位置から、いつの間にここまで来たのか分からない距離だった。


息ひとつ乱していない。


走っているようにも見えない。


なのに、距離は一切開いていなかった。


「……お前、」


思わず声が漏れる。


何か言おうとして、でも続かない。


少女はそんな俺を見て、淡々と言った。


「追従している」


意味が分からない。


いや、言葉の意味は分かる。でも、今この状況でその言葉をどう受け取ればいいのかが分からない。


「……そういう問題じゃ……」


言いかけたところで、また遠くからサイレンが重なった。


時間がない。


理解は後回しにするしかない。


「いい、もういい。とにかく――こっちだ」


俺は再び前を向き、走った。


今度はもう振り返らなかった。振り返ってしまったら、今見たものをもっと正確に理解してしまいそうで、それが怖かった。


森を抜けると、舗装された細い道に出た。


夕焼けの色は、いつの間にか少し濁って見える。遠くの道路の向こうで、赤色灯の光が一瞬、木の間にちらついた気がした。


間に合わない。


そう直感した瞬間、俺は進路を変えた。


大きな通りへ出るのはまずい。人目につくし、車も来る。何より、サイレンの音からして、あの方向は危ない。


「……こっち」


自分に言い聞かせるみたいに呟いて、脇の細い路地へ入り込む。


住宅街の裏手へ回るような道だった。古いブロック塀と低い生け垣が続いていて、表通りからは見えにくい。地元の人間じゃなければ、たぶんあまり通らない。


走りながら、俺はようやく自分の鼓動の速さを意識した。


喉が熱い。


肺が痛い。


足も少し震えている。


怖いんだ、たぶん。


今さらみたいに、そんなことを思う。


隕石が落ちてきたことも、その中心に少女がいたことも、目の前の存在がどう考えても普通じゃないことも、何もかもが怖い。怖いのに、怖がっている暇がないから、身体の奥で全部がごちゃごちゃになっている。


しばらく進んだところで、俺はようやく足を止めた。


民家と民家の間、少し奥まった場所だった。表通りの音は遠い。ここなら、少なくともすぐには見つからないだろう。


壁に手をついて、荒い息を吐く。


胸が苦しい。


汗が首筋を伝う。


それから、恐る恐る振り返る。


やっぱり、少女はそこにいた。


静かに。


何事もなかったみたいに。


息ひとつ乱していない。


髪も服も乱れていない。


ただ、俺を見ている。


さっきからそうだ。少女はずっと、俺を「見る」。感情を交わすためじゃなく、存在を確かめるためみたいに、じっとこちらを見ている。


しばらく、言葉が出なかった。


遠くでサイレンの音が揺れている。けれど、少しずつ進行方向が変わっていく気配があった。たぶん、落下地点のほうへ集まっていくのだろう。つまり、今この瞬間だけは、俺たちから遠ざかっている。


一応の危機は、去ったらしい。


そう判断していいのか分からないまま、俺は壁にもたれかかった。


それから改めて、少女を正面から見る。


近くで見ると、ますます現実感がなかった。


顔立ちがどうこう、綺麗だとか可愛いとか、そういう言い方では足りない。整っているのは確かだけれど、もっと根本的に、「人間としてそこにいること」がまだ完成していないみたいな印象があった。皮膚の白さも、目の静かさも、呼吸の気配の薄さも、全部がこちらの世界の基準からほんの少しだけずれている。


「……とりあえず」


自分の声がひどく掠れて聞こえた。


何を言うべきか、頭の中で必死に探す。


「ここじゃ目立つ」


それは本心だった。


こんな場所で、こんな少女と一緒に立っているのは、いろんな意味で危険すぎる。


「俺の家、来るか」


言った瞬間、自分で自分に呆れそうになった。


何を言ってるんだ、俺は。


見ず知らずの相手だ。しかも隕石の中から出てきた、どう考えても普通じゃない存在だ。警察でも病院でもなく、自分の家へ来るかなんて訊くのは、常識で考えたらどうかしている。


でも、言葉はもう口から出てしまっていた。


少女は、少しも迷わなかった。


「同行する」


即答だった。


その言葉に、俺の中で何かが静かに決まった。


理由は整理されていない。


正しいとも思えない。


それでも、もう後戻りできないんだと、妙に冷静な部分だけが理解していた。


「……じゃあ、行くぞ」


俺が歩き出すと、少女も一歩遅れて動き出す。


その距離が、ぴたりと一定のままだった。


近すぎず、遠すぎず。


まるで、最初からそこが定位置だったみたいに。


夕焼けは、ほとんど沈みかけていた。


赤は次第に薄れ、空は群青へ溶けていく。その移り変わりの中で、さっきまで見ていた光景が、どこか夢みたいに思えてくる。


けれど、頬にまだ残っている冷たい感触だけは、はっきりと現実だった。


俺は歩きながら、何度も考えた。


このまま家へ連れていってどうするんだ、とか、名前はどうするんだ、とか、家に着いたら何を説明するんだ、とか、そもそもこの少女は何なんだ、とか。


答えの出る問いはひとつもなかった。


それでも、不思議と「間違えた」とは思えなかった。


正しいわけでもない。


ただ、あのクレーターの底で目を開けた少女を、あのまま置いていく未来だけは、どうしても想像したくなかった。


理由を探そうとすると、すぐに行き詰まる。


同情だったのかもしれない。


責任感だったのかもしれない。


あるいは、隕石が落ちてきたあの瞬間から、俺の中のどこかが、もう元の判断基準を失っていたのかもしれない。


世界は一度、止まった。


本当に、そうだった。


あの白い閃光にすべてが呑み込まれた瞬間、風景だけじゃなく、たぶん俺の中にあった普通も、一度ちゃんと止まってしまったんだと思う。


それから世界は何事もなかったみたいに、また動き出した。


空は夜に向かい、サイレンは遠ざかり、住宅街には少しずついつもの生活の気配が戻ってくる。どこかの家の灯りがついて、遠くで犬の鳴く声がした。そういう何でもない現実が、ゆっくりと街に帰ってくる。


でも、その「いつも」の中身だけが、ほんの少し、いや、決定的に変わってしまっていた。


隣を歩く少女は、相変わらず静かだった。


名前も知らない。


どこから来たのかも知らない。


何者なのかも、何ひとつ分からない。


それなのに、彼女がこの先の俺の生活を大きく変えていくんだという予感だけは、奇妙なほどはっきりしていた。


たぶん、あのときの俺はまだ知らなかっただけだ。


あの静けさが、予兆だったことも。


あの落下が、偶然では済まされない出来事だったことも。


そして、あの夕暮れにクレーターの底で目を開けた少女が、ただの「迷子」や「被害者」なんかじゃなく、もっとずっと遠くて、もっと深い何かを、この世界へ運んできた存在だということも。


ただひとつ、確かなことがあった。


あの日、世界は一度止まった。


そして動き出した世界の中で、俺は彼女を連れて帰ることを選んだ。


それがどんな意味を持つのかも知らないまま。


ただ、もう二度と、あの日の前と同じ場所には戻れないのだと、どこかで静かに理解しながら。

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