第7話 それでも、ここにいていい
朝は、何も知らない顔でやってきた。
玄関は壊れていて、壁には切れ目が残っていて、床にはまだ細かな木片が散っている。夜のあいだに起きたことを考えれば、この家はもう昨日までの家ではなかった。外と内を分けていた扉は切り裂かれ、安全だと思っていた場所は、安全ではないと証明されてしまった。
それでも、朝の光だけはいつもと同じように窓から差し込んでいた。
そのことが、少しだけ腹立たしくて、少しだけありがたかった。
「……ひどいな」
改めて部屋を見回して、俺はそう呟いた。
柱の表面には細い傷が走り、壁紙はところどころ裂けている。ローテーブルの端は欠け、玄関の扉だったものは、今は壁際に寄せられたただの板切れになっていた。
普通なら、警察を呼ぶべきだ。
管理会社に連絡するとか、近所へ説明するとか、そういう手順があるのだろう。
でも、何をどう説明すればいいのか分からなかった。
隕石から来た少女の仲間が、俺を殺しに来て、家の玄関を空間ごと切りました。
言えるわけがない。
「昴」
後ろから、宵の声がした。
振り返ると、宵は包帯を巻いた肩に手を添えたまま、部屋の入口に立っていた。顔色は悪くない。けれど、どこか頼りない。昨日までの宵は、危うさの中にも不思議な静けさがあった。でも今朝の彼女は、少しだけ人間らしく弱って見えた。
「寝てろって言っただろ」
「横になっていると、落ち着かない」
「怪我人なんだから落ち着いてろ」
「怪我人」
宵はその言葉を確かめるように繰り返した。
「私は、怪我人なのか」
「肩に包帯巻いてるやつは、だいたい怪我人だよ」
そう言うと、宵は少しだけ視線を落とした。
「でも、動ける」
「動けるかどうかじゃないんだよ」
自分でも、ずいぶん自然にそんなことを言うようになったと思う。
最初に会ったときは、何を話せばいいかも分からなかった。靴を脱がせるだけで戸惑って、箸の持ち方を教えて、水を飲む反応にいちいち驚いていた。
それが今は、怪我をした宵に「寝てろ」と言っている。
たった数日で、世界はずいぶん変わってしまった。
宵は部屋の傷跡を見た。
「私が壊したものもある」
「白群が壊したものもある」
「でも、私がここにいたから起きた」
それは否定しきれなかった。
宵が来なければ、白群も来なかったのかもしれない。俺が星の鍵だなんて言われることもなかったのかもしれない。
でも、宵が来なければ。
俺は何も知らないまま、どこかで消されていたのかもしれない。
「全部お前のせいってわけじゃない」
俺は言った。
「俺のことも関係してるんだろ。星の鍵とか、よく分からないけど」
その言葉を口にすると、宵の表情が少しだけ曇った。
「昴は、怖いか」
「怖いよ」
昨日と同じ答えだった。
たぶん、嘘をつく意味はない。
「白群も怖いし、お前の力も怖い。自分が何なのか分からないのも怖い」
宵は何も言わずに聞いていた。
「でも、怖いからって、全部遠ざければいいわけでもないだろ」
「なぜ」
「……お前が俺を守ってくれたから」
そう言うと、宵の指が包帯の上で止まった。
「私は、昴を殺すために来たかもしれない」
「でも、守った」
「また記憶が戻れば、同じことをするかもしれない」
「そのときは止める」
「止められなかったら」
「そのとき考える」
宵は少しだけ困ったような顔をした。
「昴は、いつも先のことを全部決めない」
「決められないだけだよ」
俺は苦笑する。
「でも、全部分かってからじゃないと何も選べないなら、たぶん何もできないだろ」
その言葉は、自分に向けたものでもあった。
星の鍵が何なのか分からない。
白群たちの組織が何なのか分からない。
宵が本当は何者なのかも、俺自身が本当に何を引き起こす存在なのかも分からない。
でも、分からないことばかりの中で、ひとつだけ確かなことがあった。
宵は俺の前に立った。
俺を守るために、白群と戦った。
なら、今はそれを信じたい。
「宵」
名前を呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「ここにいろ」
宵の目が、わずかに揺れる。
「命令か」
「違う」
俺は首を振った。
「お願いでもない。……何だろうな」
少し考える。
言葉を探す。
「たぶん、俺がそうしてほしいだけだ」
宵は黙っていた。
朝の光が、彼女の白い頬に触れている。隕石の底で目を開けたときの宵とは、もう違って見えた。いや、本当は同じなのかもしれない。でも、俺の見方が変わった。
得体の知れない存在。
危険な力を持つ少女。
俺を殺す任務を帯びていたかもしれない、地球外の戦闘個体。
その全部が事実だとしても、それだけではもう足りなかった。
宵は宵だ。
この家で水を飲み、箸を覚え、肉じゃがを好きだと言って、ブランコに揺れて、アイスを好ましいと言った少女だ。
「私は、ここにいていいのか」
宵がもう一度、静かに聞いた。
その問いは、昨夜よりも少しだけ震えていた。
俺は頷く。
「いていい」
「危険でも」
「危険でも」
「昴を傷つけるかもしれなくても」
「そのときは怒る」
「怒る」
「怒るし、止めるし、たぶん文句も言う」
宵は少しだけ瞬きをした。
それから、本当にわずかに、口元を緩めた。
「昴は、文句が多い」
「お前が心配かけるからだろ」
「それは、私がここにいる理由になるか」
「十分だろ」
そう答えると、宵はしばらく俺を見ていた。
やがて、小さく頷く。
「……分かった」
それだけだった。
けれど、その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
壊れたものが直ったわけじゃない。
問題が消えたわけでもない。
白群はまた来ると言った。しかも、次は一人では来ないかもしれない。宵の異常は報告される。俺が星の鍵であることも、向こうには知られている。
何も終わっていない。
むしろ、始まったばかりなのだと思う。
それでも、今ここで、宵がこの家に残ることだけは決まった。
俺たちは午前中を、壊れた家の片付けに使った。
玄関には、ひとまず余っていた板と家具を組み合わせて簡単な目隠しを作った。見た目は最悪だったけれど、外から丸見えよりはましだ。裂けた壁紙はどうにもならないので、布で隠すことにした。
宵は何度も手伝おうとした。
そのたびに俺が止める。
「だから、肩」
「片手でも作業はできる」
「だから、そういう問題じゃない」
「では、何の問題だ」
「俺の気分の問題」
そう言うと、宵は少しだけ黙った。
「昴の気分」
「そう」
「それは、優先すべきか」
「今日は優先しろ」
「分かった」
変な会話だった。
でも、昨日までなら成立しなかった会話でもあった。
昼前になると、腹が減った。
壊れた部屋で、壊れた玄関のそばで、それでも腹は減る。人間の身体は意外と図太い。
「何か食うか」
俺が言うと、宵は少しだけ考えた。
「肉じゃがは、まだあるか」
「気に入ったのか」
「好きだと思う」
その言い方が昨日より少しだけ自然で、俺は思わず笑った。
「じゃあ、温めるか」
電子レンジの使い方を覚えた宵が、少し得意そうに容器を持ってきた。危なっかしいところはまだあるけれど、手順は覚えている。温めた肉じゃがを食卓へ並べ、味噌汁を作り直す。
食卓だけ見れば、昨日までと同じだった。
いや、同じではない。
壁は裂けているし、玄関は壊れているし、宵の肩には包帯がある。
でも、湯気はちゃんと上がっていた。
「いただきます」
宵が言う。
俺も手を合わせる。
昨日よりも、少しだけ重い「いただきます」だった。
食事の途中、宵がふいに箸を止めた。
「白群は、また来る」
「だろうな」
「次は、もっと強い方法を選ぶと思う」
「……だろうな」
食欲が少し落ちる。
でも、宵は続けた。
「昴は、逃げたほうがいいのかもしれない」
「どこに」
「分からない」
「分からないなら、逃げようがないだろ」
「それでも、私のそばにいるよりは」
「宵」
俺は箸を置いた。
「俺が狙われてる理由が俺自身にあるなら、お前から離れてもあんまり意味ないだろ」
「でも」
「それに、お前がいなかったら、昨日の夜で俺は死んでた」
宵は言葉を失った。
「だから、俺からすれば、お前のそばにいるほうがまだ生きてる可能性が高い」
「合理的な判断か」
「半分くらいはな」
「残り半分は」
「一人にしたくない」
自分で言って、少しだけ照れくさくなった。
でも、言ってしまったものは仕方ない。
宵は箸を持ったまま、じっと俺を見ていた。
「私は、一人ではないのか」
「少なくとも今はな」
宵は視線を落とす。
肉じゃがの湯気が、彼女の表情を少しだけ曖昧にする。
「一人ではない、という状態は」
言いかけて、宵は少し迷った。
「好ましい」
「そこは好きって言ってもいいんじゃないか」
俺が軽く言うと、宵は真面目に考え込んだ。
「……まだ、少し怖い」
「好きが?」
「失うものに名前をつけるような気がする」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
宵は自分の記憶を失っている。
名前も、役割も、仲間との関係も、自分が何のために生きていたのかも。
そんな彼女にとって、好きという言葉は、ただ温かいだけのものではないのかもしれない。
好きだと認めることは、それを失う可能性も同時に認めることだ。
「……そっか」
俺はそれだけ言った。
無理に言わせることじゃない。
少しずつでいい。
たぶん、それが俺たちにできる唯一のやり方だった。
午後、俺は壊れた玄関のことをどうにかするために、最低限の連絡だけを入れた。
説明はかなり苦しかった。夜中に大きな物音がして、扉が壊れた。詳しい原因は分からない。自分でも怪しすぎると思ったが、隕石騒ぎで町全体が混乱しているせいか、相手も深く追及する余裕はなさそうだった。
修理はすぐには来られないらしい。
当然だ。
町では二度の落下物であちこちが混乱している。
「しばらくこのままだな」
電話を切って言うと、宵は壊れた玄関を見た。
「境界が壊れたまま」
「まあな」
「不安か」
「かなり」
「私は、見張る」
「怪我人」
「でも、見張ることはできる」
その言い方が少しだけ必死で、俺は反論を飲み込んだ。
宵も、何かをしたいのだと思った。
自分のせいで壊れたわけではないと言っても、彼女の中では納得できないのだろう。守ること。見張ること。そばにいること。そういう具体的な行動がなければ、自分がここにいていい理由をうまく持てないのかもしれない。
「じゃあ、無理しない範囲で頼む」
そう言うと、宵は少しだけ頷いた。
「任された」
「言い方、ちょっと普通になってきたな」
「そうか」
「うん」
宵は少しだけ考えてから、ぽつりと言った。
「普通に近づくのは、いいことか」
「悪いことじゃないと思う」
「私は、普通ではない」
「知ってる」
「昴も、普通ではないかもしれない」
「……それも、そうかもしれない」
星の鍵。
その言葉が、また胸に落ちる。
俺は自分の手を見た。
何も変わらない手だった。
昨日までと同じ。傷もなければ、特別な光が宿っているわけでもない。こんな手で星を壊すなんて、どう考えても現実味がない。
でも、白群は本気だった。
あいつの中で、それは疑う余地のない事実だった。
「昴」
宵が俺を見る。
「自分が怖いか」
「少し」
正直に答える。
「でも、まだ実感はない」
「私も、自分が怖い」
宵は自分の包帯に触れた。
「何を覚えていないのか分からない。何ができるのかも、どこまで壊せるのかも分からない」
「うん」
「でも、昨日、昴を守りたいと思った」
その声は小さかった。
「それは、怖くなかった」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「じゃあ、それを覚えておけばいいんじゃないか」
「守りたいと思ったことを?」
「そう」
宵は俺を見た。
「記憶がなくても?」
「なくても」
「また忘れても?」
「そのときは、また教える」
宵は長く黙った。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「昴は、面倒なことを簡単に言う」
「そうしないと、やってられないからな」
その笑みは、昨日のものよりも少し自然だった。
夕方になると、町の空は不思議なくらい穏やかだった。
二度も隕石が落ちた町とは思えないほど、空は澄んでいた。窓から見える西の空には薄い橙色が広がり、雲の端が淡く光っている。
昨日までなら、その色にただ綺麗だと思えたのかもしれない。
でも今は、夕焼けを見るたびに、最初の落下を思い出す。
世界が一度止まった日。
あの日からまだ数日しか経っていないのに、もうずっと昔のことみたいだった。
宵も、同じ空を見ていた。
「空は、変わるのが早い」
「そうだな」
「でも、毎日変わるなら、毎日覚える必要がある」
「大変だな」
「大変でも、覚えていたい」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ宵の横顔を見た。
覚えていたい。宵はそう言った。
その日常はすぐに壊れた。白群が来て、戦いになって、家は壊された。それでも宵はまだ、覚えていたいと言う。
記憶をなくした少女が、自分の意思で何かを覚えていたいと願っている。
それはたぶん、とても大きな変化だった。
夜、簡単な夕食を済ませたあと、俺たちは壊れた玄関から少し離れた場所に布団を敷いた。
もう以前と同じ配置では眠れない。
それでも、眠る場所を用意すること自体が大事な気がした。どれだけ壊れていても、明日のために横になる場所を作る。それは、この家でまだ暮らすという意思表示みたいなものだった。
「今日はちゃんと寝ろよ」
俺が言うと、宵は少しだけ目を伏せた。
「昴も」
「俺は寝るよ。たぶん」
「たぶん」
「警戒しすぎると余計疲れるからな」
そう言いつつ、寝られる自信はなかった。
電気を消すと、部屋は薄い暗闇に沈んだ。
壊れた玄関の隙間から、少しだけ外の冷たい空気が入ってくる。完全な安心とは程遠い。けれど、隣に宵がいることだけは分かった。
「昴」
暗闇の中で、宵が呼ぶ。
「何だ」
「私は、ここに残りたい」
その言葉に、息が止まる。
今までの問いとは違った。
ここにいていいのか、ではない。
ここに残りたい。
それは、許可を求める言葉ではなく、宵自身の意思だった。
「……そっか」
俺は天井を見たまま答える。
「なら、残ればいい」
「簡単に言う」
「難しく言っても同じだろ」
宵は少しだけ黙った。
「私は、昴を守れるか分からない」
「俺も、お前を守れるか分からない」
「それでも?」
「それでも」
暗闇の中で、宵がこちらを向いた気配がした。
「一緒にいるのか」
俺は少しだけ迷って、それから言った。
「一緒にいる」
その言葉は、思ったより自然に口から出た。
宵は何も言わなかった。
でも、しばらくして、布団の端がほんの少しだけ動いた。宵の手が、迷うように伸びてくる。
俺は少しだけ目を向ける。
白い指先が、俺の手の近くで止まっていた。
触れていいのか、分からないみたいに。
俺は小さく息を吐いて、その指先に自分の手を重ねた。
宵の手は、やっぱり少し冷たかった。
でも、最初に頬へ触れられたときのような、人ではない冷たさとは少し違って感じた。
冷たいけれど、そこには確かに温度があった。
「……これは」
宵が小さく言う。
「何だ」
「落ち着く」
「なら、そのままでいい」
「いいのか」
「いいよ」
宵の指が、少しだけ俺の手を握った。
強すぎない。
弱すぎない。
初めて距離を測るような握り方だった。
外では、町のどこかでまだ車の音がしていた。
遠くのニュースも、役所の放送も、白群の警告も、星の鍵という言葉も、この先の危険も、全部が消えたわけではない。
でも、その夜だけは。
壊れた家の中で、俺たちは手をつないでいた。
それがどれほど小さなことでも、宵にとってはたぶん、任務よりも先に覚えるべきものだった。
そして俺にとっても、世界の終末なんて大きすぎる言葉より、ずっと確かなものだった。
あの日、世界は一度止まった。
そこから動き出した世界は、もう元には戻らない。
けれど、戻らないからといって、すべてが悪いわけではないのかもしれない。
宵が隣にいる。
それだけで、壊れた世界の中にも、まだ灯りを置ける気がした。
眠りに落ちる直前、宵が小さく呟いた。
「昴」
「ん」
「明日も、覚えていたい」
俺は目を閉じたまま答える。
「覚えてろよ」
「忘れたら」
「また教える」
少しだけ沈黙があって。
それから、宵は本当に小さな声で言った。
「ありがとう」
その言葉は、まだ少しぎこちなかった。
でも、確かに宵自身のものだった。
俺はその手を握ったまま、ゆっくりと眠りに落ちていく。
壊れた玄関の向こうで、夜はまだ深く、知らない世界は口を開けている。
白群はまた来る。
星の鍵も、いつか俺たちの前に意味を持って現れるのだろう。
それでも今は。
宵がここに残りたいと言った。
俺が、それを受け入れた。
きっとそれで十分だった。
世界を壊すかもしれない俺と。
俺を殺すために来たはずの宵が。
壊れた家の中で、明日を覚えていたいと願っている。
ただ、それだけの夜だった。




