75.因縁の決着
「はあっ、はあっ……」
強大な堕天使を前に、井川は膝をつき、肩で息をする。
静的な美を演出していた彫像は粉と砕け散り、滑らかなレースのテーブルクロスはずたずたに引き裂かれていた。
ガラスは割れ、テーブルは砕かれ、壁は黒く焼けこげていた。
豪奢な食堂は、荒れ果てた廃墟へと変貌した。
「いや、なかなかやるね、君。この翼が傷つけられたのは一体いつぶりだろうか……。まあ、僕に敵うわけはないんだけどね」
地に倒れ伏す井川を嘲笑いながら見下ろすは、堕天使アザリエル。
その笑みからは、疲れも痛みも、全く感じられない。
「降参してもいいよ。僕は来るもの拒まずの主義だからね。さあ言うんだ、自分はアザリエルの軍門に下ると」
アザリエルの甘い誘惑が、井川の耳を撫で回す。
身体中の打撲痕が、もうやめろと悲鳴を上げる。
そのどこまでも深く魅惑的な沼に、井川は引きずり込まれていく。
もう杖を握る力も残っていない。
いま反撃を試みたところで、結果は分かりきっている。
そもそも、アザリエルに与することが苦しみだと決まったわけじゃない。
いま戦うのをやめれば、すぐに楽になる──
「私は、あなたに降伏なんてしない。私はあなたと最後まで戦う!」
腕から血を流しながら立ち上がったのは、日比野だった。
毅然と言い切った彼女の姿に、アザリエルの口がへの字に曲げられる。
「へえ。ずっと逃げ回っていただけの君が何を言う?」
予想し切っていた返答に、日比野は唇を噛む。
アザリエルのことが全く見えない以上、彼女にできることは何もなかった。
だが、彼女の決意は固かった。
「私は、もう二度と友達を見捨てたりなんてしない。私は、私にできる全てをする。勝負よ、アザリエル!」
言うが早いか、日比野は地面を蹴って駆け出す。
そして、その指先をアザリエルに向けた。
魔術師でないからといって、彼女に全く魔力というものがないわけではない。
ただ、その技量は本職のそれと比べるまでもない。
不器用なりに工夫を凝らし、指先に魔力を集める。
アザリエルは、こちらに指先を向けながら走ってくる日比野を警戒することもない。
人の攻撃など、彼にとっては屁でもないのだ。
ついに間合いに入った日比野の指先を、アザリエルは無造作に掴む。
そして、軽く投げ飛ばそうとした。
「……なっ!?」
アザリエルの目が大きく見開かれる。
彼の手は、煙を上げてぼろぼろと崩れ始めていた。
日比野のような賢者のもつ魔力は、魔の存在にとって大きな脅威である。
それは、この世界ではよく知られた事実だった。
そしてアザリエルは、かつての姿こそ天界の民、いまや地に堕ちた魔物。
自信の身に何が起こっているのか、アザリエルは一瞬で理解した。
「……面白い。ならこうするまでだ!」
アザリエルはやにわに純白の外套をはためかせると、腰から両刃の剣を抜く。
勢いそのままに、剣は日比野の腕へと振り下ろされる。
その瞬間、金属が擦れ合う甲高い音が響く。
不快な轟音に、場の皆が目を伏せた。
「……何で、お前がここに」
しばしの静寂は、震えるアザリエルの声によって破られた。
その視線の先には、剣を鞘に納める少女がいた。
「何をなさっていたのですか、父上」
うら若き女性とは思えないほどに低く、怒りのこもった声で、少女は問いかけた。
「ち、違うんだアリス、これは──」
「私は全て知っています。領民を扇動し、王国への反乱を企てさせていることも。手下を操り、有力な人物を暗殺していることも。
そして、策を弄してあのカンザキ殿を陥れ、地下の牢に閉じ込めていることも」
アリスと呼ばれた少女は、その父の所業を晒していく。
アリスは息をつくと、無言で剣を構え直す。
アザリエルの口から、ひゅうっと笛のような音が漏れた。
「父上のなした事は決して許せません。
リーデマン家の次期当主、アリスティア・フォン・リーデマンとして、あなたに決闘を申し込みます」
徐々に夜明けの兆しが見えてきた王都。
その中のリーデマン邸にも、柔らかな朝日が差し込んだ。
「いいだろう。僕は貴族、申し込まれた決闘は受ける」
アザリエルは立ち上がる。
アリスティアの目配せを受けて、井川と日比野の2人は後に下がった。
凛として構え、冷たく敢然とした目で見据えるアリスティア。
翼を広げ、余裕の笑みを見せる、異形のアザリエル。
あまりにも異なる両者は、真正面から視線をぶつけ合った。
ふと、アザリエルは口を開く。
「そうだ。戦いの前に、1つ君に言わなければいけないことがある」
アリスティアは、無言で先を促した。
「僕は、君の本当の父親ではない」
アリスティアの目が、血管が見えるほどに見開かれる。
「そこの2人にはさっき話したけど、僕はかつて天界に住まう天使だったんだよ。色々あって堕落し、いまは魔王に仕える身さ」
続くアザリエルの言葉に、アリスティアは動揺を隠せない。
「……じゃあ、私の本当の父上は……?」
アザリエルは、今日最も邪悪な笑みを浮かべた。
「僕が殺したよ。善良な貴族エルンスト・フォン・リーデマンに成り代わるためにね」
悪魔の取り憑いたような笑い声を上げるアザリエル。
剣を取り落とし、その場に力なく崩れ落ちるアリスティア。
「辛いかい? 苦しいかい? ああ、可哀想に、僕の可愛い娘よ。さあ、いま楽にしてやるから……」
言葉にならない声を上げるアリスティアに、アザリエルはあやすような声で囁く。
そしてアリスティアのもとに近寄ると、手に握られた剣を振り上げた。
* * *
今すぐあのクソ貴族を黒焦げの炭にしてやらねば気が済まない。
その一心で、俺は廊下を駆け抜ける。
鉢合わせした騎士を魔法で焼きながら、俺は食堂を目指していた。
「し、しーちゃん待ってよー……」
後ろから、荒い息遣いとともに、疲れ切った様子の声が聞こえる。
「走れ、早く行かないと井川に先を越されちまう!」
三城の他に井川、日比野、土岐枝もこの屋敷に来ていることは聞いた。
その中でもっとも攻撃力が高いのは、それはもう井川だろう。
いや、別にリーデマンを倒すだけなら俺がやろうと井川がやろうと構わない。
だが、俺はその役目を、決して誰にも譲りたくなかった。
食堂が見える。
そこへ飛び込もうとした俺は、違和感を覚えて立ち止まる。
静かだ。
戦いの気配が全く感じられない。
「隠遁!」
微かな不安を覚え、俺は床に潜る。
三城も察してくれたのか、その場に留まっていた。
俺はゆっくりと地面の中を進み、食堂へと入る。
異様な光景だった。
翼を広げた異形の姿へと成り果てたリーデマン。
泣き崩れるアリスティア。
呆気に取られた様子で立ち尽くす、井川と日比野。
なぜリーデマンに翼が? とか、土岐枝はどこに行った? とか疑問はいろいろあるが、今は悠長にそれを考えている場合ではなさそうだ。
見る間にリーデマンは剣を構えると、その娘であるはずのアリスティアににじり寄る。
そして、その剣を高く振り上げた。
どうやら、俺は絶好のタイミングで登場することになりそうだ。
「ずいぶんとふざけたマネしてくれるじゃねえかよ……」
突然の出来事に、リーデマンは振り下ろそうとしていた剣を止める。
「だ、誰だお前は!? まさか……」
「そう、そのまさかだよ。クソ野郎」
俺は、床から腕を伸ばし、リーデマンの足首を掴む。
リーデマンは情けない声を上げ、剣を取り落とした。
俺はゆっくりと全身を外に出す。
その姿を見たリーデマンは、滑稽な動きで後ずさる。
そして瓦礫につまずき、声を上げながら倒れた。
その肉に向かって、俺は宣言する。
「俺をあんな場所に閉じ込めておくなんて、いい趣味じゃねえかよ。
リーデマン、貴様を地獄に落としてやる」




