74.決意
嘘だろ、魔王軍とか聞いてねえって……。
目の前に立ち塞がるあまりにも強い相手に、井川は怯えた。
彼の脳裏に映るは、黒い雷に蹂躙されていく町。
あの惨禍を引き起こしたものと同格の人物が、今目の前にいる。
足がすくみ、杖を構える手は震えていた。
できることならば、今すぐにでもここから逃げ出してしまいたかった。
だが、ふと瞼の裏に浮かんだ親友の顔が、彼の心に鞭打った。
俺は、何のためにここに来たんだ……。
井川は唇を噛んで意識を覚醒させると、翼を広げた男を見据える。
井川の横で、男に目をこらす日比野もまた、恐怖に苛まれていた。
強敵だろうと覚悟はしていたが、まさか幹部とは。
理性的な彼女の頭脳は、今の自分たちに勝ち目などないとの結論をとうの昔に弾き出していた。
しかし、理性が日比野に警鐘を鳴らし続ける一方で、彼女の心の感情的な部分は、彼女に逃走を許そうとしないのであった。
日比野の心の中に、かけがえのない人々の顔が次々と映し出される。
……私は、みんなに頼られる委員長。
私もみんなの期待に応えたい。
こんなことに怯んでる場合じゃない。
何も情報の映らない目をカッと開き、また糸のように細める。
少しでも情報を得ようと、日比野は翼を広げた男を見据える。
2人の内心の恐怖など気にも留めない様子で、純白の翼を広げた男は身の上を語り始めた。
「別に幹部だからって特別残酷なわけじゃない。望んで魔王に仕えてるわけでもないしね。
……この翼の通り、僕はもともと天界に住まう天使だった。それがどうしてこんな身分になったかわかるかい?」
「ポカやらかして天界を追い出されたからじゃねえのかよ?」
何かを訴えかけようとする男に辟易し、井川はつっけんどんに返答する。
「まあ、間違っちゃいない。いや、僕からしたらとても納得できやしないけどね。
天界の長は神だ。僕たち天使はその手下、いや召使いみたいなものかな。神の目となって下界を監視し、困っている人に恵みを、驕れる人に罰を与えるのが僕たちの役目だった。
僕たちにあったのは仕事だけ。それも娯楽も休養も、会話さえ許されないような酷い職場でのね。少しでも怠ければ天罰だ、逆らうなんてできやしなかった」
アザリエルはそう言うと、当時の痛みを思い出したかのような泣き顔を作ってみせる。
言葉巧みなアザリエルにも、2人は微塵の反応も示さなかった。
「ある日、ついに我慢の限界に達したいくらかの天使が反旗を翻した。僕もその一員だった。まあ、結果は見えていたさ。僕たちは不浄だとみなされ、はるか下界へと叩き落とされたんだよ。
下界での生活もまともなもんじゃかった。数日間何も食べられず、人に助けを求めれば翼を生やした悪魔呼ばわりされ追い出される。反対に魔物の元へ行けば、人だと石を投げられる。君たちに分かるかい? あらゆる社会から拒絶される辛さが。
僕が魔王のもとで働く目的はたった一つ。あの神が天塩にかけて育ててきたこの世界をめちゃくちゃにしてやるんだ。それが僕なりの復讐なんだよ」
アザリエルの目は、2人には何かに取り憑かれているかのように見えた。
「じゃあ、何でお前は神埼を……」
震える声で、井川は言葉を発する。
「カンザキ? ああ、あれの実力は本物だったからね。僕に協力してくれる戦力として使えるのならなおよし、反抗してきたら強敵になる前に精神を叩き折って僕の手下に加えるつもりだったよ」
アザリエルは、いとも簡単にそう言ってのける。
その返答を聞き、井川の怒りは頂点に達した。
「へえ。面白いこと言ってくれるじゃねえかよ。俺の親友をよくもまあオモチャみてえに……。
業火に焼かれて、自分の行いを反省しながら地獄に堕ちろ……地獄炎!」
井川がやにわに叫ぶと、井川の構えた杖から龍のような炎が飛び出す。
龍は、躍動しながらアザリエルに突っ込んでいく。
* * *
すっかり無人と化した豪邸の中を、土岐枝千尋は右へ左へと駆けてゆく。
自分だけが役割を見つけられていないという事実に、少しずつ焦りを覚えながら。
いまだに完治してはいない彼女の全身が、走るたびにずきずきと悲鳴を上げる。
だがその痛みは、土岐枝に生の実感を与えるものでもあった。
数ヶ月前、迷宮で土岐枝の身に降りかかった災難。
そして絶望に打ちひしがれた彼女に手を差し伸べ、暗闇から引っ張り上げてくれた人物。
あの一件を、土岐枝は未だ忘れられずにいた。
そんな彼女にとって、この状況は恩人に報いるまたとない機会であった。
激しい憤りをおぼえる傍ら、彼女は何としてでも活躍して見せようと腕を鳴らしていた。
が、蓋を開けてみれば迫りくる脅威のどれもが、彼女にはとうてい力不足のものであった。
目の前で繰り広げられる戦闘に呆然としている間に、魔術封じの結界は破壊され、井川は杖を振り回して敵を一掃していった。
恩人の救出という役目さえ、気づけば友人に先を越されていた。
せめて、何か少しでも貢献しなければ、合わせる顔がない。
他の被害者の救出。
葛藤している騎士の説得。
重大な情報の入手。
何でもいいから、私に活躍の機会を……。
土岐枝は、思わずそう神に祈った。
その瞬間、土岐枝は強力な腕に引っ張られた。
短い悲鳴をあげ、彼女はなすすべなく引きずり込まれる。
ああ、またあの時と同じだ。
私は誰の役にも立てない、ただ迷惑をかけるだけ。
「あなたは何者? 一体どうしてここにいるの?」
柔らかな女声に、土岐枝は目を開く。
何ということか、彼女を連れ込んだのは女だったのだ。
「……私は、この屋敷に捕まってるかもしれない友達を助けに来たんです。今もそこで他のみんなが……」
普通に考えれば屋敷の者だろうに、土岐枝に女を警戒する気は起こらなかった。
「なるほど……。それで先ほどから騒がしかったのね。
私はアリスティア・フォン・リーデマン。このリーデマン家の長女」
女の名乗りに、土岐枝は目を見開く。
優しそうな雰囲気に心を開けば、相手は敵の身内。
重なる不運に、土岐枝の全身から力が抜けていく。
「あっ、安心して。私はあなたの味方よ」
「……え……?」
「聞いてしまったのよ、父の使用人が何かよからぬことの作戦を立てているのを。命の危機を感じて身を隠して4日、これからどうしようと考えていたところにあなたが来てくれて、助かったわ」
アリスティアは、そう言うと柔和な笑みを浮かべる。
「ここから逃げなさい。ここにいては危険よ」
アリスティアはふいに真剣な表情になると、土岐枝に語りかける。
「……でも、みんなを置いて逃げるなんて……。私なんかがここで頑張らないで、いったいどこで活躍できるんだって……。
私、弱い自分が怖いんです」
土岐枝はアリスティアから目を逸らすと、磨き上げられた地面に目を落とす。
突然、土岐枝は顔に手を添えられ、前を向かされる。
アリスティアと、今度こそはっきりと目が合った。
「言い方が悪かったわね。逃げるんじゃない、あなたにしか出来ないことをするのよ。今、私の父に気づかれずにこの屋敷を出られるのはおそらくあなただけ。あなたが活躍できるのは、今こそよ」
アリスティアのはっきりとした物言いに、土岐枝の心に火が灯る。
「分かりました。行きましょう」
土岐枝は、アリスティアに手を差し伸べる。
しかし、アリスティアはその手を自身の両手で覆い隠した。
「行って。私はまだやらなきゃいけないことがある。それに1人で行った方が見つかる可能性は低い」
土岐枝は、しばし逡巡した。
しかし、やがて決心すると、強く頷いた後に踵を返し、去っていった。
嵐の如く去っていった少女を見送ると、アリスティアは剣を手に取った。
そして廊下に出ると、先ほど少女が向かっていった方向とは正反対に歩き出す。
目的は一つ。
道を踏み外した父を、自分の手で止めるためである。
「……父上」




