73.反撃
一体どれだけの時間、俺はここにいるのだろうか。
もはや全身の感覚は消滅し、ただホワイトアウトした無機質な空間が見えるのみ。
これを絶望と言わずして何というと言いたくなる状況だが、殺されなかっただけマシかもしれない。
奴にどんな考えがあるのか知らんが、どうやら殺す気はないようだ。
とはいえ、殺されなくともじきに俺は死ぬだろう。
水も食料もなく、排泄すら不可能なこの状況では、俺の体は着実に機能を落としていく。
いま目を閉じれば、次に目覚めることはないかもしれない。
暴れる気も起きない。
まったく不甲斐ないものだ。
みじめな最期。
生への希望は失われ、諦めが心の中で首をもたげる。
死ぬ前に、あの憎たらしい貴族の顔を力を込めて殴り飛ばしたい。
この屋敷を、魔法で焼き尽くしてしまいたい。
……いや。
俺が求めているのは破壊か?
違う。
清水昭人に軽口を叩きたい。
井川翔の単純さに心から呆れたい。
野口啓二に剣術を教わりたい。
三城の大暴れに心から悩まされたい。
ドタドタと石の回廊を走る音が聞こえる。
ついに俺の命を刈り取る処刑人が現れたか。
あるいは、どこぞの奴隷市場にでも売り飛ばすつもりか。
現れた人物は、意外にも小柄であった。
鉄格子越しにこちらを覗き込んでいる。
視界はぼやけ、その人相を見ることも叶わなかったが。
「……誰、だ……?」
最大限の自己主張として、俺は自分が生きていることを示す。
格子の向こうの人物は、しばらく立ちすくんだ後──
崩れ落ちた。
全身の力が抜けたかのように膝をつき、両手で力なく格子を掴む。
「……し、しーちゃん……?」
人物の放った言葉に、俺は動揺した。
その名で俺を呼ぶのは、この世でたった一人だけだ。
それがなぜここに……?
俺が考えている間に、その人物は鉄格子の扉の錠を開ける。
中に飛び込んだ勢いのままに、その人物は駆け寄ってくる。
二言三言唱えると、随分と前に玖珠田がいくら暴れ回っても壊れなかった枷が、いとも簡単に解けた。
体を起こすと、あるはずの強い抵抗がさっぱり消えていた。
突然、俺は抱きつかれた。
縋りついて俺の顔を見上げ、嗚咽を漏らす人物の人相を、今度こそはっきり見ることができた。
三城茉里。
「……泣くなよ。本当に泣きたいのは俺の方なんだから……」
尽きかけた力を振り絞り、俺は三城の柔らかい髪を撫でる。
全く、普段はこの上なくうざったい奴なのに、こういう時は殊勝だから困る。
しばらくして、三城は俺から離れた。
「……しーちゃん、どうしたら元気になってくれるの?」
「……とりあえず水をくれ。まともに話せやしない」
そう言うと、三城は直ぐに腰の竹水筒を取り出す。
中の透き通った水を一気に飲み干すと、全身の細胞が一斉に活力を取り戻す。
「……よし、かなり良くなった。飯はあのゴミ野郎を焼いた後だ」
全身の骨や筋肉は平気だ。
動かしていなかったので少し手間取ったが、三城の手を借りて立ち上がる。
「……三城、さっき魔法使ったよな。ということは結界は消えた。それで間違いないな?」
三城は力強く頷いた。
よし、ここからは俺の独擅場だ。
「……た、助けて……」
あっやべえ玖珠田のこと完全に忘れてた!
俺たちは慌てて玖珠田を解放して水をやると、愚痴を垂れ流し続ける彼女からご利益のある支援魔法を受けた。
さあ、反撃の時間だ。
* * *
次々と剣を振りかぶって迫りくる騎士を、風魔法で吹き飛ばす。
殺しだけはするなと念を押されているので、威力は控えめ。
ちょろい仕事だ、と井川は内心でほくそ笑んだ。
魔術師封じの結界が破られたことで、井川の役割は盾から矛へと変わった。
ここの騎士たちは、ルールありきの決闘に慣れきっている。
礼節も何もなく無造作に魔法を放つ井川に、大きくペースを乱されている様子だった。
彼は魔法を次々と放つ。
その度に、騎士は情けない声を上げながら壁に叩きつけられる。
見る人が見れば滑稽だと嗤い声をあげる光景だが、井川の笑みはだんだんと消えていった。
戦いの爽快さの代わりに、怒りがむくむくと心の中で湧き上がる。
こんなにも弱っちい奴らに負けちまったのかよ、神埼……。
井川は内心でため息をつく。
敗因は明白だった、屋敷に張り巡らされた結界。
彼の受けたであろう凄まじい屈辱を思うと、井川の怒りは今にもどんどんと大きく膨れ上がる。
彼は決意した。
彼の親友の代わりに仇を取る、と。
「委員長、ここのボスはどこにいんだ!?」
井川が訊ねた相手は、彼が知り合いの中で一番の信頼をおく学級委員長、日比野美月。
「さっきから変なの、リーデマンの情報が全く見えない」
だが、絶好調な井川と対照的に、日比野の顔は暗かった。
彼女の保有する能力は、相対したものの能力や周辺の地形など、戦闘や探索時に求められるほとんどの情報を知ることができるもの。
彼女の助言は、多くの戦いや調査で活躍した。
だがこれはどうやら事情が異なると、日比野は悟った。
屋敷中の騎士一人一人の名前、剣術の腕、弱点、主君に対する忠誠心の度合いまで知り得た彼女だが、その主君、屋敷の主の情報だけはまるで分からないのだ。
以前に相対した、同じく情報の分からなかった強敵へードルの記憶が頭をよぎり、日比野は鳥肌の立つ腕をさする。
この屋敷の主も、一筋縄で行くような相手ではないのだろう。
「はい、そこまで。みんな良く頑張ってくれたね」
突如、騎士たちを左右に分けて、上品な服に身を包んだ男が悠然と食堂に入ってきた。
その立ち居振る舞いから、彼こそがこの屋敷の主だと断定する。
「あなた、人間じゃないでしょ? 何者なの、エルンスト・フォン・リーデマン!」
日比野は男に向かって口を開く。
男は一瞬、心外だとばかりに目を見開いた。
そしてその後、ふっと相好を崩した。
「よく分かったね。娘にだって分からなかったというのに……」
その言葉と同時に、彼の服を突き破り、純白の巨大な翼が大きく広がる。
「ご名答、僕は人間じゃないよ。あの方に命じられて王国で破壊工作をやっている」
男は言葉を切ると、不安と怒りの平等に混ぜ合わさった2人の表情を交互に見つめる。
そして男は、2人に答えを返した。
「魔王軍幹部、堕天使アザリエルさ」




