30.清水昭人
「俺には、妹がいるんだ」
清水は、そう話し始めた。
「ん、中学校の時から一人っ子だって言ってなかったか?」
「そうだな。正確には、俺には妹がいた」
清水沙月。
俺の1つ下の妹。
兄妹の仲はとてもよく、毎日のように2人で遊んでいた。
「「いってきまーす」」
「気をつけてね。車に気をつけて」
「「はーい」」
沙月が4年生のころのある日。
俺たちは、いつものように出かけた。
「お兄ちゃん、今日は何する?」
「公園でサッカーしようぜ」
「いいね!」
家から少し離れた公園。
俺たち兄妹の、いつもの遊び場だった。
「あ、水筒忘れた。飲み物買うから、お兄ちゃん先行ってて」
「わかった。お茶とかにしとけよ」
横断歩道を渡り、先へ先へと俺は進んだ。
後ろで、自販機から飲み物を取り出す音が聞こえた。
「お兄ちゃーん」
振り返ると、沙月がこちらに向かって走ってくる。
その時、微かなエンジンの音を聞いたような気がした。
今思えば、その時に呼びかけていれば、あるいは……。
沙月は勢いそのままに、青を示した横断歩道に差し掛かる。
「沙月、左右を見て渡れって、お母さん言ってただ──」
俺は、目の前で起こった光景を理解するのに、何秒も費やした。
スピード違反か、居眠り運転か。
全く減速せずに突っ込んできた車に、沙月は撥ね飛ばされた。
沙月の小さな身体が、空高く舞い上がり、地面に叩きつけられるまで、何十秒もかかったように見えた。
我に返った時には、目の前に血溜まりが広がっていた。
「……さ、沙月。沙月!?」
俺は沙月に駆け寄る。
お気に入りの服が血に染まるのも気に留めず、沙月の肩を揺すって起こそうとする。
沙月はもう目覚めることなどないと、どこか心の隅でわかっていたのに。
その後、音に駆けつけてきた近所のおばさんが、救急車とお母さんを呼んでくれた。
お母さんは、俺を無言で抱きしめた後、担架に乗せられた沙月とともに、救急車に乗っていった。
車の運転手は気絶しただけだったようで、遅れて到着した警察に連行されていった。
お母さんが帰ってくるまで、近所のおばさんが俺を預かってくれた。
「……ねえ、沙月は無事なんだよね?」
「……ええ、きっと大丈夫。お医者様が治してくれるよ」
「ほんと?」
「もちろん。私も昔事故にあったけど、お医者様のおかげで、この年まで元気だからね」
その言葉を信じ込めるほど、俺は子供じゃなかった。
それが俺を心配させないための方便だなんて、すぐに分かってしまった。
日が暮れた後、お母さんが帰ってきた。
お母さんは、おばさんを呼び出した。
2人で何かを話していたが、内容は聞き取れなかった。
5分ほどして、お母さんが部屋に入ってきた。
その顔は笑っていたが、得体の知れない悲しさを纏っていた。
「昭人、帰るよ。
……何から何までお世話していただいて、ありがとうございました」
俺が感謝を伝えるのを待つと、お母さんは俺を促して家路についた。
「ねえお母さん、沙月は大丈夫なの?」
その言葉を口にした途端、お母さんの表情がこわばるのがわかった。
「……家に帰ったら、お父さんと一緒に話すわ」
お母さんは、そう掠れた声を絞り出した。
家に帰ると、いつもは仕事で帰りの遅いお父さんが、リビングの椅子に座っていた。
俺とお母さんが、テーブルを挟んで向かい側に座る。
不気味な沈黙が続く。
静寂を破ったのは、お父さんだった。
お父さんは、震えの混じる声で俺に語りかける。
「……昭人、これから言うことを、落ち着いて聞くんだ。
沙月は……天国へ行ってしまったよ」
半ば予想していた答え。
でも、その言葉を聞くことが、こんなにも辛いことだとは思わなかった。
「……目の前に……いたのに、何もできなかった……」
「……! あなたは何も悪くないの。昭人は何も悪くないの」
お母さんが俺を後ろから撫でる。
それから数日間は、無気力に過ごした。
棺桶の中に眠る沙月は、今にも目を覚ましそうなほどだった。
それが錯覚であると自覚して、また吐き気が出そうなほどの胸の痛みに襲われる。
お母さんもお父さんも、俺は悪くないと言う。
でも、俺にはそれがただの慰めに聞こえて仕方なかった。
俺があの時、先に行かずに待っていたら。
横断歩道は左右を見て渡れと、もう少し早く言っていたら。
考えるたびに吐き気がして、授業どころじゃなかった。
ようやく気持ちに区切りがついたのは、卒業も間近に控えたころ。
卒業アルバムの最後の一枚だけは、笑顔で映ることができた。
中学校になって、将来の夢を発表し合う時間があった。
俺は何になるんだろうと考えていると、しばらく忘れることができていた未練や後悔がむくむくと膨れ上がってきた。
未来とか夢。
俺にそれを享受する資格があるのか。
思い切ってお母さんに相談した。
「なら、人の命を救う仕事についてみるのはどう? 医者とか」
「医者……」
搬送された病院のお医者さんたちは、沙月を救うため、4時間以上も戦っていたと言う。
俺みたいに悲しむ遺族を減らすため、1人でも多くの人の命を救う。
これだ、と思った。
人の命を救ったからといって、それで俺の罪が赦されるとは思っていない。
が、俺にはそうすることしかできない。
俺は、その日から医者を目指すようになった。
* * *
清水は、そこまで言うと一呼吸。
「……というのが、俺が医者を目指すようになった理由だ」
「お、おう……。辛い過去があったんだな、お前」
清水の精神を貫く一つの信念。
それが、「人を救うこと」だということは分かった。
まあ、それが清水の行動理念だというのならば、尊重すべきだろう。
「分かった、これからはお前の行動には一切口は出さない。
だが、自己犠牲はもうやめろ。人を救おうとして自分が死んだら本末転倒だ」
「ああ。そうするよ」
「困ったときは、周りの人を頼れ。お前はどうも1人で抱え込むきらいがあるからな。
もちろん俺も頼れよ。まあ、忙しくない時限定だが」
俺たちは顔を見合わせると、歯を見せて笑った。
もうすっかり真夜中。
早く寝ないと、明日に影響が出る。
俺はシーツを頭まで被ると、深い眠りに沈んでいった。




