第83話「北美濃の亀裂」
北美濃工業高校。
校舎の三階にある旧会議室には、北美濃地区に所属する各校の代表者たちが集まっていた。
窓際に立つ須藤秀光は、机に広げられた一枚の書類を見つめていた。
それは、美濃第一高校の青木優真に提出するための改革案だった。
「須藤。青木との話し合いはどうだった?」
声をかけたのは、久我原宗一。
北美濃工業高校の三年生であり、須藤の側近として地区全体の交渉を担当する男だった。
「決裂はしていない。だが、向こうも簡単には譲らない」
「当然だろうな。あの男が築いた連盟だ。自分の権限を削る提案を歓迎するはずがない」
久我原は書類を手に取った。
その脳裏に、落ち着いた男の声が響く。
『義龍殿の宿主は、道三殿の宿主と正面から渡り合うつもりか』
長井道利。
久我原に宿る武将の魂だった。
久我原は心の中で答える。
(秀光は連盟を壊したいわけじゃない。だが、今の仕組みを放置する気もない)
『ならば、味方の足並みを揃えよ。内に乱れを抱えたまま大事を成すことはできぬ』
久我原は小さく息を吐いた。
「須藤。今日は全員が賛成するとは思うなよ」
「分かってる」
「本当に分かってるか? 青木を嫌っている連中が、必ずしもお前の改革を支持するとは限らない」
「だから集めたんだ。俺に従わせるためじゃない。意見を聞くためにな」
久我原はそれ以上何も言わなかった。
そのとき、会議室の扉が開いた。
「おい、いつまで待たせるつもりだ?」
入ってきたのは獅堂剛馬だった。
北美濃工業高校の三年生。
地区内でも屈指の喧嘩の実力を持ち、須藤派の武闘派幹部として知られていた。
「全員揃ってるぞ。さっさと始めようぜ」
「剛馬。今日は喧嘩の相談じゃない」
「分かってるって。ただ、青木に頭下げるような話なら俺は反対だ」
獅堂の内側で、荒々しい声が響いた。
『主君に異を唱えるならば、相応の覚悟を示さねばならぬ』
日根野弘就。
獅堂に宿る武将の魂だった。
(分かってるよ。だが、秀光はまだ戦うつもりじゃねえ)
『力を示さずして、相手が譲るとは限らぬぞ』
(だからって、今殴り込んだら秀光の考えを台無しにする)
獅堂は腕を組み、会議室の後方に腰を下ろした。
須藤が全員を見渡す。
「始めるぞ」
室内の私語が止まった。
「昨日、青木優真と直接話してきた」
須藤は黒板の前に立った。
「俺が提案したのは三つだ。各地区の代表による合議制。緊急時の自主的な行動。そして、連盟内部での報復行為の禁止」
一人の代表者が手を挙げた。
「つまり、今まで青木が決めていたことを、俺たちも決められるようにするってことか?」
「そうだ。ただし、何でも多数決で決めればいいとは思っていない」
「どういうことだ?」
「学校の規模が違う。抱えている問題も違う。大きな学校だけで決めれば、小さな学校の意見が消える」
須藤の説明に、数人が頷いた。
しかし、別の代表者が口を開いた。
「だったら聞くけどよ。小さな学校と大きな学校が同じ一票ってのも、おかしくないか?」
その言葉に、会議室の空気が変わった。
「俺たちは毎回、何十人も応援を出してる。人数が少ない学校と発言力が同じじゃ、割に合わねえだろ」
「人数が多いからって、何でも決められたら困るんだよ」
反対側に座っていた生徒が言い返した。
「俺たちの学校は二十人もいない。今までだって、人数の多い学校の決定に従うしかなかったんだ」
「だったら連盟に守ってもらえばいいだろ」
「守ってもらう代わりに、何も言うなってことか?」
二人が睨み合った。
獅堂が椅子から立ち上がろうとしたが、久我原が片手で制した。
「座ってろ。まだ口論だ」
「分かってるよ」
須藤は二人の間に視線を向けた。
「どっちの言い分も間違っていない」
「じゃあ、どうするんだよ?」
「だからこそ、仕組みを考える必要がある。人数だけでも、学校の数だけでも決めない方法をな」
「そんな都合のいい方法があるのか?」
「今は完成していない」
須藤は正直に答えた。
「青木には一週間もらった。その間に具体的な案を作る」
会議室の奥から、不満げな声が上がった。
「一週間? それで何が変わるんだよ」
「少なくとも、何も話さずに従うよりは変わる」
「俺たちは青木に反対するために集まったんじゃないのか?」
須藤の表情が険しくなった。
「違う」
短い返答だった。
「俺は青木を倒すために、この改革を始めたんじゃない」
「でも、青木が拒否したらどうする?」
「そのときは、改めて考える」
「結局、何も決めてねえじゃねえか」
その言葉に、獅堂が立ち上がった。
「おい。秀光が何も考えてねえと思ってんのか?」
「剛馬、座れ」
「けどよ!」
「座れと言った」
須藤の声に、獅堂は口を閉じた。
しばらく須藤を見つめていたが、やがて椅子に戻った。
「……分かったよ」
須藤の胸の内で、低い声が響いた。
『秀光よ。人を率いる者は、決断を迫られる』
斎藤義龍。
須藤に宿る武将の魂だった。
(分かっている)
『皆の声を聞くことはよい。されど、相反する望みをすべて叶えることはできぬ』
(それでも、聞かずに決めるよりはいい)
『ならば覚悟せよ。いずれ、誰かの望みを退けねばならぬ日が来る』
須藤は拳を握った。
目の前の代表者たちは、決して敵ではない。
だが、同じ北美濃に属しているからといって、同じ未来を望んでいるわけでもなかった。
「もう一つ聞かせてくれ」
今度は窓際に座る代表者が発言した。
「緊急時には各校の判断で動いていいって言ったよな?」
「ああ」
「例えば、俺たちの学校が他校に襲われた場合、北美濃工業は助けに来てくれるのか?」
「当然だ」
「でも、北美濃工業が動くには、他の学校の了承が必要になるんじゃないのか?」
須藤は答える前に、書類を見た。
「そこは例外を設けるつもりだ。救援は先に行い、後から報告する」
「その救援が報復だと判断されたら?」
「……」
「助けに来た連中が処分される可能性もあるってことだろ?」
久我原が顔を上げた。
「いい指摘だ」
須藤も頷いた。
「救援と報復を区別する基準が必要だな」
「基準なんか作ってる間に、仲間がやられたらどうする?」
獅堂が口を挟んだ。
「俺なら助けに行く。許可なんか待たねえ」
「それで連盟全体が巻き込まれたらどうするんだ?」
「仲間を見捨てろってのか?」
「そうは言ってない!」
再び声が重なった。
久我原は静かに目を閉じた。
(道利。お前ならどうする?)
『まず、何を守るための掟かを定めよ。掟を守るために仲間を失うようでは本末転倒じゃ』
(そうだな)
久我原は立ち上がった。
「全員、一度聞いてくれ」
代表者たちが振り向く。
「今日ここで結論を出す必要はない。むしろ、今出てきた問題を隠したまま青木に提出する方が危険だ」
「じゃあ、今日は何を決めるんだ?」
「何が問題なのかを整理する」
久我原は黒板に三つの言葉を書いた。
学校の規模。
救援の判断。
決定への異議。
「この三つについて、各校で意見をまとめてくれ。明日までに提出してもらう」
「明日まで?」
「一週間しかない。時間は無駄にできない」
須藤は久我原を見た。
「宗一、助かる」
「礼は改革案が完成してからにしろ」
会議はその後も続いた。
しかし、最後まで全員の意見が一致することはなかった。
やがて代表者たちは、それぞれの学校へ戻っていった。
会議室に残ったのは、須藤、久我原、獅堂の三人だけだった。
「思ったより面倒なことになったな」
獅堂が天井を見上げる。
「俺はてっきり、全員が青木に不満を持ってるもんだと思ってたぜ」
「不満が同じでも、求める答えが同じとは限らない」
久我原は書類を揃えた。
「大きな学校は自分たちの力に見合う権限が欲しい。小さな学校は発言権と保護が欲しい。どちらも当然の要求だ」
「じゃあ、どうすりゃいい?」
「それを考えるのが俺たちの仕事だろ」
須藤は窓の外を見た。
校庭では、部活動を終えた生徒たちが帰り支度を始めていた。
彼らのほとんどは、連盟の内部で何が起きているのか知らない。
「俺は、あいつらが安心して学校に通える美濃にしたい」
須藤が呟いた。
「そのために青木と一緒に連盟を作ったんだ」
久我原は何も言わなかった。
「けど、今の連盟は、青木がいなければ何も決められない。あいつが間違えたとき、誰も止められない」
「秀光」
「俺は青木を信じている。だが、青木一人を信じるだけの仕組みじゃ駄目なんだ」
獅堂は腕を組んだ。
「だったら、最後までやるしかねえな」
「ああ」
「ただし、青木が力ずくで潰しに来たら、俺は黙ってねえぞ」
「そのときは俺が判断する」
「……分かった」
久我原は二人を見比べた。
(今はまだ、三人とも同じ方向を向いている)
だが、今日の会議で明らかになったことがある。
北美濃は一枚岩ではない。
そして、改革を進めれば進めるほど、それぞれの学校が抱えていた不満が表に出てくる。
久我原は黒板に残された三つの言葉を見つめた。
「秀光。一つだけ覚えておけ」
「何だ?」
「青木との交渉がまとまったとしても、それで終わりじゃない」
「……分かってる」
「本当に難しいのは、北美濃の連中を納得させることかもしれないぞ」
須藤はゆっくり頷いた。
美濃連盟の改革は、まだ始まったばかりだった。
しかし、その最初の一歩で、北美濃の内部には確かな亀裂が生まれていた。
第83話 完




