第81話「美濃の支配者」
岐阜県、美濃地方。
尾張の北に位置するこの地域には、数多くの高校が存在していた。
かつては学校同士の抗争が絶えず、地域ごとに異なる勢力が争っていた。
しかし、現在の美濃は違う。
その大部分を、一つの巨大組織が支配していた。
美濃連盟。
加盟校は十二校。
総勢三百人を超える生徒たちを抱える、美濃最大の勢力だった。
そして、その頂点に立つ男がいる。
美濃第一高校三年、青木優真。
「……また揉め事か」
美濃第一高校の生徒会議室。
窓際の椅子に座った青木は、机に置かれた報告書を眺めていた。
向かいには、同じ三年の安藤涼太が立っている。
「西美濃商業と大垣工業の連中が揉めています」
「原因は?」
「西美濃商業の一年が、大垣工業の二年に殴られたそうです」
青木は顔を上げた。
「理由を聞いている」
安藤は一瞬黙った。
「……通学路で肩がぶつかったことが原因らしいです」
青木は小さく息を吐いた。
「それだけで殴ったのか?」
「はい」
「被害者は?」
「頬を腫らしていますが、大きな怪我はありません」
「そうか」
青木は報告書を閉じた。
「殴った本人を連れてこい。学校側への報告も確認しろ」
安藤が頷いた。
「分かりました」
「それと、西美濃商業には手を出すなと伝えろ」
「報復を止めるんですね?」
「当然だ」
青木は静かに答えた。
「殴られたから殴り返す。それを繰り返していたら、いつまで経っても終わらない」
安藤は少し笑った。
「相変わらずですね」
「何がだ?」
「昔の青木さんなら、真っ先に殴り込みに行っていたでしょう」
青木は口元を緩めた。
「……昔の話だ」
安藤は頷いた。
美濃連盟が誕生する以前、青木優真は美濃でも有名な喧嘩自慢だった。
しかし、ただ強いだけの男ではなかった。
敵対する学校の内部事情を調べ、対立する幹部を交渉によって引き離し、必要な時だけ拳を振るった。
時には昨日までの敵を仲間に迎え、時には味方だった者を容赦なく追放した。
そうして勢力を広げ、わずか一年余りで美濃最大の組織を築き上げた。
そのやり方から、青木には一つの異名がつけられていた。
『美濃の蝮』
一度狙った相手を簡単には逃がさない。
そして、相手が気づいた時には、すでに逃げ道を失っている。
「……安藤」
青木が声をかけた。
「はい」
「北美濃の件はどうなっている?」
安藤の表情が変わった。
「……まだ返事がありません」
「そうか」
青木は机の引き出しから別の資料を取り出した。
そこには、美濃連盟に加盟する十二校の名前が記されていた。
その中の一校に、赤い印がつけられている。
北美濃工業高校。
青木はその名前を見つめた。
「……須藤秀光」
安藤が口を開いた。
「最近、北美濃工業の連中が独自に集会を開いているようです」
「知っている」
「それも、連盟に報告せずにです」
青木は静かに答えた。
「……それも知っている」
安藤は眉を寄せた。
「だったら、どうして放っておくんですか?」
青木は資料を机に置いた。
「須藤が何を考えているのか、まだ分からないからだ」
「連盟を裏切るつもりでは?」
「その可能性はある」
青木は窓の外を見た。
「だが、決めつけるには早い」
その時、会議室の扉が開いた。
「青木さん、少しいいですか?」
入ってきたのは、美濃第一高校三年の稲葉勝治だった。
「どうした?」
「北美濃工業から連絡がありました」
青木が顔を向けた。
「……須藤からか?」
「はい」
稲葉はスマートフォンを差し出した。
そこには短い文章が表示されていた。
『連盟の新しい規則について、直接話がしたい』
『北美濃工業代表、須藤秀光』
青木はしばらく画面を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……ようやく動いたか」
安藤が尋ねた。
「どうします?」
青木は立ち上がった。
「会おう」
「こちらへ呼びますか?」
「いや」
青木は首を横に振った。
「俺が行く」
稲葉が驚いた。
「青木さん自らですか?」
「ああ」
「危険では?」
青木は笑った。
「須藤は、そんな安っぽい真似をする男じゃない」
安藤は黙った。
青木は窓の外へ視線を向けた。
「……それに」
「それに?」
「俺も、あいつと話しておきたいことがある」
その頃、北美濃工業高校では、数十人の生徒たちが体育館に集まっていた。
壇上に立つ男を、全員が見つめている。
北美濃工業高校三年、須藤秀光。
美濃連盟の北部地区を任されている男だった。
「……全員、集まったな」
須藤が口を開いた。
生徒たちが頷く。
須藤は一枚の書類を掲げた。
「美濃連盟から、新しい規則が届いた」
最前列の生徒が尋ねた。
「……どんな規則ですか?」
「今後、加盟校同士の争いについては、青木の承認がなければ独自に処理できない」
生徒たちの間に動揺が広がった。
須藤は続けた。
「さらに、連盟の指示に従わない学校は、共同防衛の対象から外される」
一人の生徒が声を上げた。
「それって、青木さんの言うことを聞かなかったら守ってもらえないってことですか?」
須藤は頷いた。
「そういうことだ」
別の生徒が口を開いた。
「でも、連盟に入ってから喧嘩は減りましたよね?」
「ああ。それは事実だ」
須藤は否定しなかった。
「青木が美濃をまとめたことで、救われた学校もある」
生徒たちは静かに耳を傾けた。
「だが、考えてみろ」
須藤は書類を下ろした。
「自分たちの学校で起きた問題を、自分たちで解決できなくなる。それが本当に正しいことなのか?」
最前列の生徒が俯いた。
「……確かに」
「俺は、青木が間違っていると決めつけているわけじゃない」
須藤は続けた。
「ただ、今の美濃連盟には問題がある」
その言葉に、一人の二年生が手を上げた。
「須藤さん」
「何だ?」
「……連盟を抜けるつもりなんですか?」
体育館が静まり返った。
須藤は少し考えた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……まだ決めていない」
「まだ?」
「ああ」
須藤は全員を見渡した。
「俺たちは、青木と一緒に美濃を変えてきた」
その声には、確かな重みがあった。
「俺も、あいつの考えに賛成していた。だからこそ、ここまで協力してきた」
須藤は拳を握った。
「だが、今のあいつは変わり始めている」
生徒たちは黙っていた。
「美濃を守るための連盟だったはずだ。それなのに、いつの間にか連盟を守るために学校が存在するようになっている」
須藤は静かに続けた。
「俺は、それが気に入らない」
一人の生徒が尋ねた。
「……じゃあ、どうするんですか?」
須藤は答えた。
「青木と直接話す」
「話し合いで解決できますか?」
「分からない」
須藤は正直に答えた。
「だが、話す前から拳を振るうつもりはない」
そして、全員を見つめた。
「一つだけ約束してくれ」
生徒たちが顔を上げる。
「俺が許可するまで、美濃第一高校の連中には手を出すな」
「……はい!」
須藤は頷いた。
「それでいい」
集会が終わり、生徒たちが体育館を後にしていく。
須藤は一人、壇上に残っていた。
「……青木」
小さく名前を呟く。
かつて、まだ美濃連盟が存在しなかった頃。
二人は同じ目標を掲げていた。
美濃から無意味な抗争をなくす。
学校の違いだけで敵対する時代を終わらせる。
その考えに、嘘はなかった。
しかし、今は違う。
青木は、強い組織が全体を管理するべきだと考えている。
須藤は、それぞれの学校が自分たちの意思を持つべきだと考えていた。
目指すものは似ている。
それでも、そこへ至る道が違っていた。
「……お前は、どこまで行くつもりなんだ」
須藤は静かに呟いた。
その日の夕方、美濃第一高校の会議室。
青木は稲葉から新たな報告を受けていた。
「……北美濃工業で集会が開かれたようです」
「内容は?」
「連盟の規則について、須藤が説明したそうです」
青木は頷いた。
「そうか」
稲葉が続けた。
「ただ、連盟からの脱退は表明していません」
「だろうな」
青木は静かに答えた。
安藤が口を開いた。
「青木さん、須藤を警戒するべきです」
「している」
「だったら……」
「だが、敵とは決めていない」
青木は安藤を見た。
「俺が美濃連盟を作れたのは、須藤の力があったからだ」
安藤は黙った。
「北美濃の学校をまとめたのは、あいつだ。俺一人の力じゃない」
青木は椅子から立ち上がった。
「だからこそ、簡単に切り捨てるつもりはない」
稲葉が尋ねた。
「……もし、須藤が連盟に逆らったら?」
青木は少しだけ目を細めた。
「その時は、選ばなきゃならないだろうな」
「何をですか?」
「須藤を取るか、美濃連盟を取るか」
会議室に沈黙が流れた。
青木は窓の外を見つめた。
夕暮れの美濃の街並みが広がっている。
「……俺は、この美濃を昔のような場所には戻したくない」
安藤が頷いた。
「分かっています」
「だから、必要なら嫌われ役にもなる」
青木は静かに続けた。
「だが、誰かを従わせること自体が目的になったら終わりだ」
稲葉が顔を上げた。
「……青木さん」
青木は小さく笑った。
「俺自身も、それを忘れないようにしないとな」
机の上には、美濃連盟の組織図が広げられていた。
十二校の頂点に立つ青木優真。
その中でも、最大の戦力を持つ北美濃工業を率いる須藤秀光。
二人の間に生まれた小さな亀裂は、まだ表面化していなかった。
しかし、その亀裂が美濃全土を巻き込む争いへ発展する可能性を、青木は感じ取っていた。
そして、机の端にはもう一枚の資料が置かれていた。
『三河・今川学園、第二次小豆坂の戦いに勝利』
青木はその資料へ視線を向けた。
「……今川学園か」
安藤が尋ねた。
「尾張の件ですか?」
「ああ」
青木は静かに頷いた。
「尾張も三河も、随分騒がしくなってきたな」
稲葉が口を開いた。
「美濃にも影響が出るでしょうか?」
青木は少し考えた。
「……いずれはな」
そして、資料を閉じた。
「だが、今は美濃の問題が先だ」
青木は須藤から届いたメッセージをもう一度確認した。
二人が直接顔を合わせる日は、近づいていた。
美濃を統べる蝮。
その支配に疑問を抱き始めた男。
かつて同じ理想を掲げた二人の道は、少しずつ分かれ始めていた。
第81話完




