第80話「尾張の狼煙」
中央高校では、いつもと変わらない学校生活が続いていた。
教室からは生徒たちの笑い声が聞こえ、廊下では部活動へ向かう生徒たちが行き交っている。
しかし、秋山天馬にとって、その光景は以前とは違って見えていた。
「……痛え」
天馬は椅子に座りながら、脇腹を押さえた。
隣にいた大地夢斗が顔を向ける。
「まだ痛むのか?」
「ああ。笑うだけでも痛え」
「だったら大人しくしてろよ」
「お前だって肩、痛めてんだろ」
夢斗は苦笑した。
「まあな」
二人とも病院で診察を受け、大きな骨折などは確認されなかったものの、しばらく安静にするよう言われていた。
天馬は窓の外を見つめた。
「……なあ、夢斗」
「何だ?」
「俺たち、何が足りなかったんだろうな」
夢斗は少し考えた。
「……強さじゃねえの?」
「それは分かってる」
天馬は拳を握った。
「でも、単純に喧嘩が強くなれば勝てるのか?」
夢斗は答えられなかった。
小豆坂で見た今川学園の戦い方。
一人一人の実力だけではない。
仲間同士の連携。
負傷者を下げる判断。
相手の動きを見極め、戦う場所を選ぶ冷静さ。
その全てが、自分たちより上だった。
「……あいつら、ちゃんと考えて戦ってたよな」
夢斗が呟いた。
天馬は頷いた。
「俺たちは目の前の相手を倒すことしか考えてなかった」
「……そうだな」
その時、教室の入口から声が聞こえた。
「秋山、大地」
振り返ると、竜胆椿が立っていた。
「……椿」
「放課後、少し時間あるか?」
天馬が尋ねた。
「何かあんのか?」
椿は静かに答えた。
「桐生さんが話したいことがあるらしい」
夢斗が顔を上げた。
「……桐生さんが?」
「ああ。海斗にも連絡してある」
天馬は少し考えた。
そして、頷いた。
「……分かった」
椿は二人を見た。
「無理して歩くなよ」
天馬が苦笑した。
「お前まで夢斗みてえなこと言うなよ」
「怪我人が無茶するからだろ」
椿は呆れたように答えた。
その表情はいつも通りだった。
しかし、天馬は気づいていた。
椿もまた、小豆坂での敗北を引きずっていることに。
放課後、五人は校舎裏のベンチに集まった。
桐生拓真は腕を組み、天馬たちを見渡していた。
「……全員、怪我の具合はどうだ?」
夢斗が答えた。
「まだ少し痛みますけど、大丈夫です」
椿も頷いた。
「俺も問題ありません」
海斗が拳を握った。
「俺はもう元気っす!」
桐生は海斗を見た。
「お前は元気でも、他の奴らは違うだろ」
「……確かに」
天馬が笑いかけたが、脇腹の痛みに顔をしかめた。
「……いてて」
夢斗が呆れた。
「だから笑うなって」
桐生は小さく息を吐いた。
「……お前ら、相変わらずだな」
しかし、すぐに表情を引き締めた。
「今日集まってもらったのは、小豆坂のことだ」
五人の間に沈黙が流れた。
桐生は続けた。
「俺たちは負けた」
天馬は頷いた。
「……ああ」
「それも、完敗だ」
誰も反論しなかった。
桐生は天馬を見た。
「お前、遠藤と戦ってどう思った?」
天馬は少し考えた。
「……強かった」
「それだけか?」
「いや」
天馬は拳を握った。
「あいつ、俺の攻撃をほとんど読んでた」
桐生が頷いた。
「そうだな」
「俺が何かする前に、もう次の動きを考えてる感じだった」
椿が口を開いた。
「俺も工藤と戦って、同じことを感じた」
夢斗が顔を向ける。
「……椿」
「俺たちの連携は、途中から全部読まれていた」
椿は続けた。
「一度は攻撃を当てられた。でも、次は通用しなかった」
夢斗は俯いた。
「……ああ」
海斗が尋ねた。
「じゃあ、どうすれば勝てるんすか?」
桐生はすぐには答えなかった。
代わりに、天馬を見た。
「……お前はどう思う?」
天馬は考え込んだ。
これまで、自分が喧嘩で負けた時は、もっと強くなればいいと思っていた。
拳を鍛える。
身体を鍛える。
相手より速く動く。
それだけで勝てると考えていた。
しかし、小豆坂では違った。
「……俺たち、もっと周りを見る必要があるんじゃねえか?」
椿が顔を上げた。
「……周り?」
「ああ」
天馬は続けた。
「誰がどこで戦ってるのか。誰が危ねえのか。どうすれば仲間を助けられるのか」
夢斗が頷いた。
「……確かにな」
「俺、中本と戦ってる時、ほとんどお前らのこと見えてなかった」
天馬は悔しそうに笑った。
「遠藤が来てからなんか、自分のことで精一杯だった」
桐生は静かに頷いた。
「……それに気づけたなら、少しは成長したな」
天馬が顔を上げる。
「……桐生」
「ただし、勘違いするなよ」
桐生は続けた。
「仲間を見ていれば勝てるわけじゃねえ。まずは自分の実力を上げる必要がある」
海斗が勢いよく頷いた。
「じゃあ、特訓しましょう!」
夢斗が苦笑した。
「お前、俺たちの怪我の話聞いてた?」
「……あ」
桐生が笑った。
「まずは全員、怪我を治せ」
そして、真剣な表情に戻った。
「その間に、これからどうするか考える」
椿が尋ねた。
「……今川学園に再戦を挑むんですか?」
桐生は首を横に振った。
「今すぐは無理だ」
天馬も頷いた。
「……分かってる」
「それに、今川学園だけを見ていればいいわけじゃねえ」
桐生の言葉に、四人が顔を上げた。
「……どういうことですか?」
海斗が尋ねた。
桐生は静かに答えた。
「尾張の外には、まだ俺たちの知らねえ強い連中がいる」
天馬は遠くを見つめた。
「……三河だけじゃねえってことか」
「ああ」
桐生は頷いた。
「尾張だけで満足してたら、また同じ目に遭う」
天馬は拳を握った。
「……だったら、もっと強くなるしかねえな」
夢斗が笑った。
「結局そこに戻るのかよ」
「でも、今度は一人で強くなるんじゃねえ」
天馬は仲間たちを見た。
「五人で強くなる」
椿が静かに笑った。
「……悪くない」
海斗も頷いた。
「俺、絶対に足引っ張らないようになります!」
桐生は四人を見つめた。
「……よし」
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「なら、今日からやり直しだ」
天馬は顔を上げた。
「……ああ!」
その日の夕方、東尾張工業高校では、東条雅人が神谷亮介たちと話していた。
東条の頬には、まだ岡島との戦いで受けた傷が残っている。
「……東条、本当にいいのか?」
神谷が尋ねた。
東条は頷いた。
「ああ」
「今川学園への対抗を考えるなら、他の勢力と手を組む方法もある」
東条は少し考えた。
「……今はまだ、その時じゃねえ」
相馬恭介が顔を上げた。
「何でだ?」
「俺たちは東尾張の学校を守るために集まった」
東条は続けた。
「負けたからって、すぐに他の連中へ頼るわけにはいかねえ」
久我山慎吾が頷いた。
「……まずは俺たち自身が強くなるってことか」
「ああ」
東条は拳を握った。
「岡島には、借りを返さねえとな」
神谷が小さく笑った。
「……お前ならそう言うと思った」
東条は窓の外を見つめた。
「次は、東尾張連合の本当の強さを見せてやる」
一方、北陵高校でも、城戸圭吾が仲間たちと向き合っていた。
「……城戸さん」
片瀬翔が口を開いた。
「俺、もっと強くなりたいです」
城戸は頷いた。
「……俺もだ」
水原廉が尋ねた。
「今川学園には、また挑むんですか?」
城戸は少し考えた。
「……いずれな」
宮坂亮が顔を上げた。
「それまでは?」
「北陵会を立て直す」
城戸は静かに答えた。
「俺たちの仲間を守れる組織にする」
片瀬が拳を握った。
「……分かりました」
城戸は窓の外を見た。
「……朝比奈」
小豆坂で戦った男の顔が浮かぶ。
「次は、俺が勝つ」
南尾張でも、敗北を受け止める動きが始まっていた。
南翔高校の高瀬宗介は、藤崎蓮と石原和樹に話していた。
「……今川学園は強かった」
石原が頷いた。
「……ああ」
「でも、俺たちにもできたことがある」
藤崎が顔を上げた。
「……できたこと?」
「柴田と村井が互いを助けた。長谷川も最後まで一緒に戦った」
高瀬は続けた。
「学校が違っても、協力できることは分かった」
石原が静かに笑った。
「……確かにな」
高瀬は頷いた。
「だからこそ、これからも各校の意思を尊重したい」
藤崎が尋ねた。
「南尾張を一つにまとめるんじゃないんですか?」
「無理にまとめるつもりはない」
高瀬は答えた。
「必要な時に助け合える関係を、少しずつ作っていく」
石原が頷いた。
「……それが俺たちらしいな」
高瀬は小さく笑った。
「そうだな」
その頃、三河の今川学園では、遠藤道流が佐藤健から報告を受けていた。
「……尾張の各勢力は、いずれも活動を続けています」
佐藤が言った。
遠藤は頷いた。
「そうか」
「小豆坂で敗れたにもかかわらず、解散した組織はありません」
「……当然だろうな」
遠藤は静かに答えた。
佐藤が顔を上げる。
「……当然、ですか?」
「あいつらは、負けた程度で諦めるような連中じゃない」
遠藤は窓の外を見つめた。
「だからこそ、俺たちも油断できない」
佐藤は頷いた。
「……分かりました」
遠藤は机の上に置かれた資料へ視線を向けた。
そこには、尾張周辺の学校についての情報がまとめられていた。
「……健」
「はい」
「尾張の動きは引き続き調べておけ」
「承知しました」
遠藤は静かに続けた。
「ただし、今すぐ再び攻め込む必要はない」
佐藤が頷いた。
「小豆坂での勝利を、無駄な争いで失うべきではありませんからね」
遠藤は小さく笑った。
「……そういうことだ」
そして、資料の別のページへ目を向けた。
「……それより」
佐藤が顔を上げる。
「何でしょう?」
遠藤は一つの地名を指差した。
「美濃の動きが気になる」
佐藤の表情が変わった。
「……美濃ですか」
「ああ」
遠藤は静かに答えた。
「尾張だけが、動き始めているわけじゃない」
佐藤は資料を確認した。
そこには、美濃の学校間で勢力争いが激しくなっているという報告が記されていた。
「……調査を進めます」
遠藤は頷いた。
「頼む」
夕暮れの尾張中央高校。
秋山天馬は一人、校舎の屋上へ続く階段の踊り場に立っていた。
窓から見える空は、赤く染まり始めている。
「……遠藤道流」
天馬は小さく呟いた。
あの男の強さ。
何度攻撃しても届かなかった拳。
そして、地面に倒れた時の悔しさ。
その全てが、今も鮮明に残っていた。
「……絶対に忘れねえ」
天馬は拳を握った。
その瞬間、再び見知らぬ光景が脳裏に浮かんだ。
古い城。
大勢の兵士。
そして、燃えるような夕空を背に立つ一人の武将。
天馬は目を細めた。
(……また、この景色か)
これまで何度も見てきた。
しかし、今度は少しだけ違った。
武将の後ろ姿が、以前よりもはっきりと見えた。
その男は、遠くに広がる大地を見つめていた。
まるで、まだ誰も見たことのない世界を目指しているかのように。
(……お前は、何を見てるんだ?)
天馬は心の中で問いかけた。
答えはなかった。
やがて、景色は消えた。
天馬は自分の手を見つめた。
「……まあ、いいか」
そして、小さく笑った。
「今は、俺自身のことを考えねえとな」
窓の外へ視線を向ける。
尾張の街並みが、夕日に照らされていた。
「……いつか」
天馬は静かに呟いた。
「この尾張で、誰にも負けねえ男になってやる」
その決意は、まだ小さなものだった。
しかし、小豆坂での敗北を経験したことで、確かに変わり始めていた。
東尾張連合。
北陵会。
南尾張の各校。
そして、秋山天馬たち。
それぞれが異なる道を歩みながら、再び立ち上がろうとしていた。
尾張の若者たちは、まだ一つになっていない。
互いに競い合い、時には対立することもあるだろう。
それでも、彼らの胸には共通する思いがあった。
二度と、あのような敗北を繰り返したくない。
そして、その頃。
尾張の北に位置する美濃でも、新たな勢力争いが始まろうとしていた。
その中心にいるのは、二人の男。
青木優真。
そして、須藤秀光。
後に尾張の運命を大きく変えることになる彼らの存在を、天馬たちはまだ知らなかった。
戦いは終わらない。
小豆坂で上がった狼煙は、やがて美濃へと広がっていく。
第80話 完




