第79話「尾張敗北」
小豆坂、旧運動広場。
秋山天馬が地面に膝をつく中、桐生拓真は遠藤道流の前に立っていた。
「……お前が今川学園の頭か」
桐生が尋ねた。
遠藤は静かに頷いた。
「ああ。お前は?」
「尾張中央高校三年、桐生拓真だ」
「秋山の先輩か」
「そうだ」
桐生は拳を握った。
「後輩がここまでやられて、黙って帰るわけにはいかねえ」
遠藤は桐生の後方を見た。
佐久間海斗が天馬の身体を支えている。
「天馬さん! しっかりしてください!」
「……うるせえ。聞こえてる」
天馬は苦しそうに答えた。
海斗は安心したように息を吐いた。
しかし、天馬の顔色は悪い。
立ち上がろうとしても、足に力が入らなかった。
桐生は二人へ視線を向けた。
「海斗、天馬を連れて下がれ」
「でも、桐生さんは!」
「俺のことはいい」
「一人じゃ危険っすよ!」
桐生は振り返った。
「だったら、なおさら天馬を守れ」
海斗は言葉を失った。
天馬が顔を上げる。
「……桐生」
「何だ?」
「……あいつ、強えぞ」
桐生は小さく笑った。
「見りゃ分かる」
そして遠藤へ向き直った。
「……来いよ」
遠藤は拳を構えた。
「後悔するなよ」
桐生が先に踏み込んだ。
右の拳を遠藤の顔へ伸ばす。
遠藤は腕で受け止めた。
しかし、桐生はすぐに左の拳を腹部へ打ち込んだ。
「……っ!」
遠藤が一歩後退する。
桐生は間合いを詰めた。
「まだだ!」
続けて右の拳を振るう。
遠藤は身体を横へずらした。
桐生はその動きを読んでいた。
拳を引き戻し、相手の胸元を掴む。
「……逃がさねえ!」
遠藤の体勢が崩れた。
桐生は肩を押し込み、そのまま拳を振り抜いた。
遠藤の頬に一撃が入る。
「……ぐっ!」
遠藤は数歩後退した。
海斗が目を見開く。
「……すげえ!」
天馬も顔を上げた。
「……桐生」
遠藤は頬を拭った。
「……なるほどな」
桐生は構えを崩さなかった。
「まだ終わってねえぞ」
「分かっている」
遠藤は静かに答えた。
「お前も相当な実力者らしい」
桐生は鼻で笑った。
「今さら気づいたのかよ」
しかし、その表情に余裕はなかった。
(……重い)
最初の攻撃を受け止められた時、腕に強い衝撃が残った。
遠藤はすでに天馬と戦い、負傷している。
それでも、この強さだった。
(……こいつ、本当に高校生かよ)
遠藤が踏み込んだ。
桐生は拳を構える。
右から来る。
そう判断した瞬間、遠藤は身体を沈めた。
桐生の腹部へ拳が入る。
「……ぐっ!」
桐生は後退した。
遠藤は追撃する。
しかし、桐生は足を踏ん張り、左の拳を振り抜いた。
遠藤の肩に拳が当たる。
「……っ!」
遠藤の動きが止まった。
桐生はその隙に距離を取る。
「……やるじゃねえか」
遠藤は肩を回した。
「お前もな」
二人は再び向かい合った。
その時、桐生の脳裏に奇妙な光景が浮かんだ。
見知らぬ城。
大勢の兵士。
そして、長い槍を手にした一人の武将。
(……何だ?)
一瞬だけ、身体が熱くなる。
誰かの記憶が、自分の中へ流れ込んでくるような感覚だった。
しかし、遠藤の踏み込みによって、その光景は消えた。
「……っ!」
桐生は咄嗟に腕を上げた。
遠藤の拳が腕を捉える。
続けて腹部へ一撃。
桐生は膝をついた。
「……くそっ」
遠藤は追撃せず、距離を取った。
「……まだやるか?」
桐生は顔を上げた。
「……当たり前だ」
立ち上がろうとする。
しかし、足元がふらついた。
その時、天馬が声を上げた。
「……桐生!」
桐生は振り返った。
天馬は海斗に支えられながら、必死に立っていた。
「……もういい」
桐生の表情が変わった。
「何?」
「……俺を助けるために、お前まで倒れる必要ねえだろ」
桐生は歯を食いしばった。
「……天馬」
「悔しいけどよ……」
天馬は遠藤を見た。
「……今日は、俺たちの負けだ」
その言葉を口にするまで、どれほどの覚悟が必要だったのか。
桐生には分かっていた。
桐生はゆっくりと拳を下ろした。
「……分かった」
遠藤も構えを解いた。
「賢明な判断だ」
天馬は悔しそうに顔を歪めた。
「……次は負けねえ」
遠藤は静かに答えた。
「なら、強くなれ」
天馬は何も言い返さなかった。
広場の中央では、東尾張連合の神谷亮介が仲間たちを集めていた。
東条雅人は相馬恭介と久我山慎吾に支えられている。
「……神谷」
東条が声をかけた。
「何だ?」
「……まだ、やれる奴はいるか?」
神谷は周囲を見渡した。
相馬は頬を腫らし、久我山も肩を負傷していた。
神谷自身も、今川学園の生徒たちとの戦闘で何度も拳を受けている。
「……いる」
神谷は答えた。
「でも、これ以上続ければ全員倒れる」
東条は歯を食いしばった。
「……そうか」
「東条、撤退しよう」
神谷は続けた。
「ここで全員やられたら、東尾張の学校を守る奴がいなくなる」
東条は目を閉じた。
自分たちを信じている後輩たち。
東尾張連合に加わった学校の仲間たち。
その顔が浮かんだ。
「……分かった」
東条は静かに答えた。
「撤退する」
相馬が頷いた。
「……了解」
久我山は岡島秀太の方を見た。
岡島も腹部を押さえながら、こちらを見つめていた。
「……岡島」
久我山が呟いた。
岡島は小さく手を上げた。
「……またな」
久我山は拳を握った。
「……次は負けねえからな」
岡島は笑った。
「楽しみにしてるぜ」
東尾張連合は、負傷した仲間を支えながら広場を後にした。
北側でも、戦いは終わりに近づいていた。
城戸圭吾は朝比奈優吾の前で膝をついていた。
「……はぁ、はぁ……」
城戸は呼吸を整えようとした。
しかし、胸元の痛みが強く、思うように息ができなかった。
朝比奈も頬を腫らし、左腕を押さえている。
「……城戸」
朝比奈が声をかけた。
「……何だ」
「もう終わりにしよう」
城戸は顔を上げた。
「……まだ、俺は」
「分かってる。まだ戦うつもりなんだろ」
朝比奈は静かに続けた。
「だが、お前の仲間を見ろ」
城戸は周囲を見た。
片瀬翔は三浦直哉との戦いに敗れ、宮坂亮に支えられていた。
水原廉も負傷し、片膝をついている。
三浦も無傷ではなかったが、すでに戦闘を続ける必要はないと判断していた。
「……片瀬」
城戸が呟いた。
片瀬は顔を上げた。
「……城戸さん」
「……悪い」
片瀬は首を横に振った。
「謝らないでください」
宮坂も口を開いた。
「俺たち、全力で戦いました」
水原が悔しそうに笑った。
「……でも、負けちまいましたね」
城戸はしばらく黙っていた。
やがて、朝比奈へ視線を戻した。
「……今日は、お前らの勝ちだ」
朝比奈は静かに頷いた。
「……ああ」
城戸は立ち上がった。
「だが、北陵会は今川の下にはつかねえ」
朝比奈は答えた。
「分かってる」
「……次は、必ず勝つ」
朝比奈は城戸を見つめた。
「俺たちも、負けるつもりはない」
二人は最後まで視線を逸らさなかった。
南側では、高瀬宗介が撤退を決断していた。
「……全員、下がるぞ!」
柴田亮が驚いた。
「おい、高瀬! まだ終わってねえだろ!」
「終わりだ」
高瀬は静かに答えた。
「これ以上続けても、仲間が傷つくだけだ」
柴田は拳を握った。
「……くそっ」
村井健太が柴田の肩を支えた。
「柴田さん、行きましょう」
柴田は村井を見た。
「……お前も、怪我してんじゃねえか」
「お互い様ですよ」
村井は苦笑した。
藤崎蓮は石原和樹を支えていた。
長谷川拓也も足を引きずりながら歩いている。
「……高瀬さん」
長谷川が口を開いた。
「何だ?」
「……俺、今日来てよかったです」
高瀬は驚いた。
「……どうして?」
長谷川は今川学園の生徒たちを見た。
「今川学園が強いことは分かりました」
そして、高瀬へ視線を戻した。
「でも、強いからって従う必要はない。それも分かりました」
高瀬は静かに頷いた。
「……そうか」
石原が苦笑した。
「……それにしても、完敗だったな」
高瀬は答えた。
「……ああ」
その言葉を否定する者はいなかった。
南尾張の生徒たちも、互いに支え合いながら広場を後にした。
やがて、旧運動広場には今川学園の生徒たちと、尾張中央高校の五人だけが残った。
竜胆椿と大地夢斗も、すでに工藤春樹と中本泰史に敗れていた。
夢斗は右肩を押さえ、椿も頬に傷を負っている。
「……天馬」
夢斗が声をかけた。
天馬は顔を上げた。
「……夢斗」
「……悪い。俺たちも負けた」
椿が静かに続けた。
「工藤も中本も、想像以上だった」
天馬は二人を見た。
そして、小さく首を振った。
「……謝んなよ」
夢斗が驚いた。
「……天馬?」
「俺だって負けたんだ」
天馬は遠藤へ視線を向けた。
「……あいつに、何もできなかった」
桐生が口を開いた。
「何もできなかったわけじゃねえ」
天馬は顔を向けた。
「……何?」
「お前は最後まで戦った。それは事実だ」
桐生は続けた。
「でも、負けたことも事実だ」
天馬は黙った。
「だから、次にどうするか考えろ」
桐生の言葉に、天馬は拳を握った。
「……ああ」
海斗が口を開いた。
「……俺、もっと強くなりたいっす」
夢斗が顔を向けた。
「海斗?」
「今日、ほとんど何もできなかった」
海斗は悔しそうに俯いた。
「天馬さんがやられて、桐生さんが戦って……俺は助けることしかできなかった」
桐生は海斗の頭に手を置いた。
「……馬鹿野郎」
海斗が顔を上げる。
「……え?」
「お前が天馬を助けなかったら、どうなってたと思う?」
海斗は答えられなかった。
桐生は続けた。
「戦うだけが仲間を守る方法じゃねえ」
海斗は拳を握った。
「……はい」
遠藤道流は、五人の様子を静かに見つめていた。
佐藤健が隣へ並ぶ。
「……遠藤さん」
「何だ?」
「尾張の各勢力が撤退しました」
遠藤は頷いた。
「……そうか」
「こちらにも負傷者が出ています。岡島さん、朝比奈さん、工藤さんも治療が必要です」
遠藤は広場を見渡した。
今川学園の生徒たちも、決して無傷ではなかった。
東条との戦いで負傷した岡島。
城戸との激闘で腕を痛めた朝比奈。
そして、南尾張の生徒たちとの戦いで負傷した者たち。
「……思った以上に、手強かったな」
遠藤が呟いた。
佐藤は頷いた。
「はい」
「だが、勝った」
「……ええ」
遠藤は天馬たちへ視線を向けた。
「秋山」
天馬が顔を上げる。
「……何だよ」
「今日の結果を忘れるな」
天馬は遠藤を睨んだ。
「……忘れるわけねえだろ」
遠藤は静かに答えた。
「なら、それでいい」
天馬は拳を握った。
「……次は、絶対に勝つ」
遠藤は小さく笑った。
「待っている」
そして、佐藤へ向き直った。
「健、負傷者を確認しろ。必要な者は病院へ連れていく」
「分かりました」
佐藤はすぐに今川学園の生徒たちへ指示を出した。
遠藤は最後にもう一度、天馬を見た。
その意識の奥で、今川義元の声が響いた。
『……道流』
(何だ?)
『あの若者を侮るな』
遠藤は静かに答えた。
(……分かっている)
『今日の敗北は、あの者を変えるやもしれぬ』
遠藤は天馬の背中を見つめた。
(……ならば、次に会う時が楽しみだ)
やがて、天馬たちも広場を後にした。
帰り道。
五人はしばらく無言で歩いていた。
天馬は海斗に支えられながら、ゆっくりと坂道を下っていた。
その途中で、ふと足を止めた。
「……なあ」
夢斗が振り返る。
「何だ?」
天馬は遠くに見える旧運動広場を見つめた。
「……俺たち、弱かったな」
誰も否定しなかった。
椿が静かに答えた。
「……ああ」
桐生も頷いた。
「今川学園は強かった」
天馬は拳を握った。
「……でもよ」
夢斗が顔を上げる。
「……何だ?」
天馬はゆっくりと振り返った。
「……このままで終わりたくねえ」
その目には、まだ闘志が残っていた。
「俺は、もっと強くなる」
椿が静かに笑った。
「……俺もだ」
夢斗も頷いた。
「当たり前だろ」
海斗が拳を握った。
「俺も絶対強くなります!」
桐生は四人を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……だったら、まずは怪我を治せ」
天馬たちは思わず顔を見合わせた。
「……確かにな」
夢斗が苦笑した。
五人は再び歩き始めた。
第二次小豆坂の戦い。
勝者、三河・今川学園。
敗者、尾張の四勢力。
この敗北は、尾張の若者たちに大きな傷を残した。
しかし、それぞれの胸に、新たな決意も生まれていた。
東尾張連合は、東尾張連合として。
北陵会は、北陵会として。
南尾張の各校は、それぞれの学校として。
そして、秋山天馬たちもまた、自分たちの道を歩み始めようとしていた。
まだ誰も知らない。
この敗北が、やがて尾張全土を揺るがす戦いの始まりになることを。
第79話 完




