第78話「今川の猛威」
小豆坂、旧運動広場。
秋山天馬の前に、今川学園の総大将・遠藤道流が立っていた。
周囲では、尾張と今川の生徒たちが激しく拳を交えている。
しかし、天馬の意識は目の前の男だけに向けられていた。
「……お前が、遠藤道流」
「ああ」
遠藤は静かに頷いた。
「秋山天馬。お前のことは佐藤から聞いている」
「そりゃどうも」
「尾張中央高校の二年。まだ大きな組織を持っているわけではない。それでも、東尾張や北陵会の人間と対等に話しているそうだな」
天馬は眉を寄せた。
「……それがどうした?」
「興味がある」
遠藤は拳を構えた。
「お前が何を目指しているのか、確かめたい」
天馬も拳を握った。
「だったら、拳で聞いてみろよ!」
天馬が踏み込んだ。
右の拳を遠藤の顔へ伸ばす。
遠藤は上半身をわずかに傾けた。
拳が頬の横を通り過ぎる。
天馬はすぐに左の拳を振るった。
しかし、遠藤はその腕を受け止めた。
「……っ!」
天馬の動きが止まる。
次の瞬間、遠藤の拳が腹部へ入った。
「……ぐっ!」
天馬は後退した。
遠藤は追撃しなかった。
「……力はある」
天馬が顔を上げる。
「何だと?」
「だが、攻め急いでいる」
遠藤は落ち着いた声で続けた。
「相手を倒すことばかり考えていると、自分の隙が見えなくなるぞ」
天馬は歯を食いしばった。
「……説教してんじゃねえ!」
再び踏み込む。
今度は正面から拳を振るわなかった。
右へ動くと見せかけ、左足を踏み込む。
遠藤の側面へ回り込もうとした。
しかし、遠藤はすでに身体の向きを変えていた。
「……遅い」
遠藤の拳が天馬の肩を捉えた。
体勢を崩した天馬の胸元へ、さらに一撃が入る。
「……くっ!」
天馬は地面に片手をついた。
(……何だよ、こいつ)
攻撃が当たらない。
それどころか、こちらが動くたびに先回りされている。
遠藤は静かに天馬を見下ろした。
「……立てるか?」
天馬は顔を上げた。
「……当たり前だろ」
ゆっくりと立ち上がる。
遠藤は頷いた。
「なら、続けよう」
天馬は拳を握り直した。
(……絶対に、一発入れてやる)
その目から、闘志は消えていなかった。
遠藤の意識の奥で、声が響いた。
『……道流』
(何だ?)
『あの若者は、まだ己の力を知らぬ』
今川義元の魂だった。
『だが、追い詰められても目を逸らさぬ。侮れば足元をすくわれよう』
遠藤は心の中で答えた。
(分かっている)
そして、天馬を見つめた。
(だからこそ、全力で相手をする)
二人が再び踏み込んだ。
広場の中央。
東条雅人と岡島秀太の戦いも、終盤に差しかかっていた。
「……はぁ、はぁ……」
東条は肩で息をしていた。
頬は腫れ、脇腹にも痛みが残っている。
岡島も無傷ではなかった。
腹部を押さえ、左肩を動かすたびに顔をしかめている。
「……お前、本当にしぶといな」
岡島が笑った。
東条は口元を拭った。
「……そっちこそな」
「そろそろ終わらせようぜ」
「……同感だ」
東条が踏み込んだ。
右の拳を伸ばす。
岡島は腕で受け止めた。
しかし、東条は止まらなかった。
そのまま身体を押し込み、岡島を後退させる。
「……っ!」
岡島の足が乱れた。
東条は左の拳を腹部へ打ち込んだ。
「……ぐっ!」
岡島が膝を折りかける。
東条はさらに踏み込もうとした。
しかし、その瞬間。
岡島は東条の腕を掴み、身体を横へ捻った。
東条の重心が崩れる。
「……しまっ……!」
岡島の右拳が東条の顎を捉えた。
東条は大きく後退した。
視界が揺れる。
それでも倒れまいと足を踏ん張った。
だが、岡島はすでに間合いを詰めていた。
「……これで終わりだ!」
腹部へ一撃。
続けて、胸元へ拳を打ち込む。
東条はついに膝をついた。
「……東条!」
神谷亮介が叫んだ。
相馬恭介も駆け寄ろうとした。
しかし、東条は片手を上げた。
「……来るな」
神谷が足を止めた。
「でも……!」
東条は地面に手をつきながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……まだ、終わってねえ」
岡島は拳を下ろさなかった。
「……立つのか?」
東条は答えなかった。
震える足に力を込める。
しかし、身体は思うように動かなかった。
「……くそっ」
東条は再び膝をついた。
岡島はしばらく見つめた後、静かに口を開いた。
「……もう十分だろ」
東条が顔を上げる。
「……何?」
「お前が弱くねえことは分かった」
岡島は拳を下ろした。
「これ以上やったら、取り返しがつかなくなる」
東条は悔しそうに歯を食いしばった。
「……勝ったつもりかよ」
岡島は答えた。
「少なくとも、今は俺の勝ちだ」
東条は何も言い返せなかった。
その様子を見ていた神谷が、すぐに駆け寄った。
「東条!」
相馬も肩を貸した。
「……無理すんな」
東条は拳を握った。
「……悪い」
久我山慎吾が岡島を睨んだ。
「……次は俺が相手だ」
しかし、岡島は首を横に振った。
「俺も限界が近い」
岡島は腹部を押さえた。
「やるなら、うちの他の連中が相手するぜ」
久我山は拳を握った。
その時、神谷が声をかけた。
「久我山、東条を頼む」
「……神谷?」
「俺たちまで倒れたら、誰がこいつを連れて帰るんだ」
久我山は東条を見た。
そして、静かに頷いた。
「……分かった」
東尾張連合の頭、東条雅人。
その敗北は、周囲の尾張勢に大きな衝撃を与えた。
広場の北側。
城戸圭吾は朝比奈優吾と拳を交えていた。
「……東条がやられたか」
朝比奈が呟いた。
城戸は一瞬だけ中央へ視線を向けた。
その隙に、朝比奈が踏み込む。
城戸は咄嗟に腕を上げた。
しかし、拳が肩を捉えた。
「……っ!」
城戸は後退する。
朝比奈は追撃した。
城戸は相手の腕を掴み、身体を引き寄せる。
「……よそ見してる場合じゃねえな」
朝比奈が答えた。
「その通りだ」
城戸は右の拳を振り抜いた。
朝比奈の頬に拳が届く。
朝比奈は後退した。
城戸も距離を取る。
二人とも、すでに制服は乱れ、顔には傷ができていた。
「……朝比奈」
城戸が口を開いた。
「何だ?」
「お前らの頭は、あれだけ強いのか?」
朝比奈は遠藤の方を見た。
「……ああ」
「そうか」
城戸は拳を握った。
「だったら、俺も簡単には倒れられねえな」
朝比奈は静かに頷いた。
「……俺もだ」
再び二人が踏み込んだ。
その近くでは、片瀬翔が三浦直哉に追い詰められていた。
「……まだやるか?」
三浦が尋ねた。
片瀬は口元を拭った。
「……当たり前だろ」
三浦は小さく息を吐いた。
「……北陵会は、頑固な奴ばっかりだな」
片瀬が笑った。
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
しかし、その足取りは重かった。
北陵会にも、確実に敗北の影が迫っていた。
広場の西側。
「……夢斗!」
竜胆椿が叫んだ。
大地夢斗は工藤春樹の拳を受け、後退していた。
「……大丈夫だ!」
夢斗は答えた。
しかし、その表情には疲労が見えていた。
工藤は二人を見つめた。
「……連携は悪くない」
椿が拳を構える。
「だったら、何で倒せねえんだよ」
工藤は静かに答えた。
「俺も、お前らの動きを見ているからだ」
その時、背後から声が聞こえた。
「……工藤さん」
振り返ると、中本泰史が立っていた。
工藤が顔を向ける。
「中本か」
「遠藤さんから、こっちを手伝うように言われました」
夢斗の表情が変わった。
「……お前、天馬と戦ってた奴か」
中本が頷いた。
「ああ」
椿は周囲を確認した。
(……まずいな)
工藤だけでも苦戦している。
そこに中本まで加われば、状況はさらに悪くなる。
中本は夢斗を見た。
「……お前が大地夢斗か」
「だったら何だ?」
「秋山と一緒に大沢たちを倒したんだろ?」
夢斗は拳を握った。
「……ああ」
中本は静かに笑った。
「なら、今度は俺とやろうぜ」
工藤が椿へ視線を向けた。
「……お前は俺の相手だ」
椿は歯を食いしばった。
(……分断された)
先ほどまで二人で工藤と戦っていた。
しかし、今度はそれぞれが別の相手をすることになる。
夢斗が椿を見た。
「……椿」
「ああ」
椿は頷いた。
「無理するなよ」
夢斗は笑った。
「お前もな」
二人はそれぞれの相手へ向き直った。
広場の南側。
高瀬宗介は、仲間たちの様子を見ていた。
柴田亮は頬を腫らし、村井健太も肩を押さえている。
石原和樹は長谷川拓也に支えられていた。
藤崎蓮も、すでに何度も拳を受けていた。
「……高瀬さん」
藤崎が声をかけた。
「何だ?」
「このままじゃ、全員やられます」
高瀬は頷いた。
「……分かってる」
今川学園の生徒たちは、負傷した仲間を後方へ下げながら、まだ動ける者を前へ出していた。
対する南尾張は、学校ごとに集まった少人数の集団だった。
交代できる人数が違いすぎる。
柴田が口を開いた。
「……高瀬、俺はまだやれるぞ」
高瀬は柴田を見た。
「分かってる」
「だったら……」
「でも、全員を倒されるわけにはいかない」
柴田は言葉を止めた。
高瀬は周囲を見渡した。
(……今川学園)
人数だけじゃない。
負傷者を下げる判断も、仲間を援護する動きも統一されている。
(……俺たちとは、組織としての完成度が違う)
高瀬は拳を握った。
その事実を、初めて痛感していた。
再び、広場の西側。
天馬は遠藤の拳を受け、何度目かの後退を強いられていた。
「……はぁ、はぁ……」
呼吸が乱れる。
脇腹が痛む。
両腕も重くなっていた。
しかし、遠藤も無傷ではなかった。
頬には赤い痕が残り、制服の袖も破れている。
天馬は拳を握った。
「……ようやく、一発入ったな」
遠藤は頬に触れた。
「……ああ」
少し前の攻防で、天馬の拳が遠藤の顔を捉えていた。
遠藤は静かに笑った。
「……いい拳だった」
天馬は息を整えた。
「……まだまだ行くぞ」
遠藤は首を横に振った。
「いや」
天馬が眉を寄せる。
「……何?」
「そろそろ終わらせる」
遠藤の表情が変わった。
天馬は拳を構え直した。
(……来る)
遠藤が踏み込んだ。
天馬は右の拳を警戒した。
しかし、遠藤は拳を振らなかった。
天馬の腕を掴み、身体を引き寄せる。
「……っ!」
天馬は体勢を崩した。
遠藤はそのまま肩を押し込み、天馬を後退させた。
天馬は踏ん張ろうとした。
しかし、足が追いつかない。
遠藤の拳が腹部へ入った。
「……ぐっ!」
天馬は膝を折りかけた。
それでも拳を振り上げる。
遠藤はその腕を受け止めた。
「……秋山」
天馬が顔を上げる。
「……何だよ」
「お前は強い」
遠藤は静かに言った。
「だが、今のお前では俺には勝てない」
天馬は歯を食いしばった。
「……勝手に決めんな!」
最後の力を振り絞り、拳を伸ばす。
しかし、遠藤は身体を横へずらした。
そして、天馬の胸元へ拳を打ち込んだ。
「……っ!」
天馬の身体が後方へ倒れた。
地面に背中を打ちつける。
視界に、曇った空が広がった。
(……くそ)
起き上がろうとする。
しかし、腕に力が入らない。
(……何でだよ)
遠藤の姿が視界に入った。
「……秋山」
天馬は答えなかった。
(……俺は)
その瞬間。
再び、見知らぬ城が見えた。
燃える空。
大勢の兵士。
そして、城門の前に立つ一人の男。
男は背中を向けたまま、遠くを見つめていた。
(……誰だよ)
天馬は心の中で問いかけた。
しかし、答えは返ってこなかった。
ただ、不思議な感覚だけが残った。
(……まだ)
天馬の指が、ゆっくりと動いた。
(……終われねえ)
遠藤はその様子を見つめていた。
「……まだ立つつもりか」
天馬は地面に手をついた。
震える腕に力を込める。
「……当たり前だろ」
遠藤の表情がわずかに変わった。
天馬はゆっくりと顔を上げた。
「……俺は、まだ……」
しかし、そこで身体が大きく揺れた。
視界がぼやける。
天馬は再び膝をついた。
遠藤は静かに拳を下ろした。
「……もう立つな」
天馬は顔を上げた。
「……何だと?」
「これ以上続ければ、お前は大きな怪我をする」
遠藤は続けた。
「今日の勝負は、ここまでだ」
天馬は歯を食いしばった。
「……ふざけんな」
しかし、身体は動かなかった。
遠藤は天馬から視線を外し、広場を見渡した。
東条はすでに敗れていた。
北陵会も南尾張も、追い詰められている。
そして、尾張中央の仲間たちも苦戦していた。
遠藤は静かに呟いた。
「……これが、今の三河と尾張の差だ」
天馬は地面を見つめた。
(……負けるのか)
拳を握る。
(……俺たちは)
悔しさが込み上げてきた。
しかし、その時。
遠くから声が聞こえた。
「……先輩!」
佐久間海斗だった。
その隣には、桐生拓真もいた。
二人は今川学園の生徒たちを退けながら、天馬のもとへ向かっていた。
遠藤が顔を向ける。
「……まだ来るか」
桐生は天馬の姿を確認した。
「……海斗、天馬を頼む」
海斗が驚いた。
「……桐生さん?」
桐生は遠藤を見つめた。
「……ここは俺が引き受ける」
遠藤は静かに拳を構え直した。
「……お前も戦うのか」
桐生は答えた。
「仲間がやられて、黙って帰れるわけねえだろ」
天馬が顔を上げる。
「……桐生先輩」
桐生は振り返らなかった。
「……天馬、少し休んでろ」
そして、遠藤へ一歩踏み出した。
小豆坂の戦い。
今川学園の猛攻によって、尾張勢は壊滅寸前まで追い詰められていた。
それでも、まだ戦いを諦めていない者たちがいた。
しかし、その抵抗さえも、今川学園の圧倒的な組織力の前に試されようとしていた。
第78話 完




