第77話「覚醒の兆し」
小豆坂、旧運動広場。
秋山天馬は、今川学園二年の中本泰史と激しい攻防を繰り広げていた。
「……どうした、秋山!」
中本が右の拳を振るう。
天馬は腕で受け止めた。
しかし、中本はすぐに左足を踏み込み、天馬の脇腹へ拳を打ち込んだ。
「……くっ!」
天馬が後退する。
中本は距離を詰めた。
「大沢たちを倒したって聞いたから、もっと強いと思ってたんだけどな!」
「……うるせえ!」
天馬は右の拳を振り抜いた。
中本は身体を横へずらしたが、完全には避けきれなかった。
拳が頬を捉える。
「……っ!」
中本が一歩下がった。
天馬は追撃しようとした。
しかし、先ほどから痛めていた脇腹に痛みが走った。
(……まずい)
一瞬、足が止まる。
中本はその隙を見逃さなかった。
「……そこだ!」
中本の拳が天馬の腹部へ入った。
天馬は膝を折りかけた。
「……まだだ!」
歯を食いしばり、相手の腕を掴む。
中本は驚いた。
「……何?」
天馬はそのまま身体を引き寄せ、額が触れそうな距離まで踏み込んだ。
「俺は……まだ負けてねえ!」
右の拳を振り抜く。
中本は咄嗟に腕を上げた。
拳は顔に届かなかった。
それでも衝撃に押され、中本は数歩後退した。
「……なるほど」
中本は腕を下ろした。
「根性だけはあるみてえだな」
天馬は荒い呼吸を整えた。
「……根性だけじゃねえよ」
「だったら見せてみろ」
中本が再び構えた。
その姿を見て、天馬は思った。
(……強え)
これまで戦ってきた相手とは違う。
中本は一度見せた攻撃を簡単には通してくれない。
こちらの癖を見抜き、確実に弱いところを狙ってくる。
(……どうすりゃいい)
天馬は拳を握った。
その時だった。
視界の端に、見慣れない景色が映った。
古い城門。
その前に集まる大勢の男たち。
そして、遠くに広がる戦場。
(……またか)
以前にも見たことがある光景だった。
しかし、今回は違った。
目の前にいる中本の姿と、見知らぬ戦場の景色が重なって見えた。
(……何なんだよ、これ)
天馬は一瞬だけ動きを止めた。
「……秋山!」
中本の声が響く。
天馬が顔を上げた時には、すでに拳が迫っていた。
「……っ!」
避けきれない。
そう思った瞬間だった。
(……正面で受けるな)
誰かに教えられたわけではない。
それなのに、身体が先に動いた。
天馬は右足を引き、上半身を捻った。
中本の拳が頬をかすめる。
そのまま相手の横へ回り込み、左の拳を腹部へ打ち込んだ。
「……ぐっ!」
中本が後退した。
天馬は自分の拳を見つめた。
(……今の)
考えるより先に身体が動いた。
いつもの喧嘩とは違う。
まるで、何度も同じ状況を経験してきたかのような感覚だった。
中本も表情を変えていた。
「……お前」
天馬が顔を上げる。
「何だよ」
「……今の動き、さっきまでと違ったな」
天馬は答えられなかった。
中本は静かに拳を構え直した。
その意識の奥に、別の声が響いていた。
『……気をつけよ』
中本の中に宿る、今川氏真の魂だった。
『あの男、何かが変わり始めておる』
(……分かってる)
中本は天馬を見つめた。
(……何だ、こいつ)
先ほどまで押していたはずの相手。
しかし、一瞬だけ別人のような動きを見せた。
中本は小さく笑った。
「……面白くなってきたじゃねえか」
天馬は拳を構えた。
「……こっちの台詞だ」
だが、天馬自身も理解していなかった。
自分の中で、何が起き始めているのかを。
広場の西寄り。
大地夢斗と竜胆椿は、工藤春樹と向き合っていた。
「……夢斗、右から行け」
椿が小さく声をかけた。
夢斗は頷いた。
「分かった」
二人が同時に踏み込む。
夢斗が右側から拳を伸ばした。
工藤は腕で受け止める。
その隙に、椿が左側へ回り込んだ。
しかし、工藤は椿の動きを読んでいた。
身体を半歩引き、椿の拳をかわす。
そして、夢斗の腕を掴んだ。
「……っ!」
夢斗の体勢が崩れる。
工藤はそのまま肩を押し込み、夢斗を地面へ倒した。
「夢斗!」
椿が叫んだ。
夢斗はすぐに起き上がろうとした。
しかし、工藤が前へ出る。
椿は間に入った。
「……お前の相手は俺だ!」
椿の拳が工藤の顔へ伸びる。
工藤は腕で受け止めた。
「……悪くない」
工藤は静かに言った。
「だが、二人とも攻める順番が決まっている」
椿が眉を寄せた。
「……何?」
「お前が動けば、次に大地が動く。大地が動けば、お前が援護する」
工藤は続けた。
「連携しているつもりだろうが、同じことを繰り返せば読まれる」
椿は言葉を失った。
確かに、その通りだった。
夢斗が立ち上がる。
「……椿」
「ああ」
椿は工藤を見つめた。
(……このままじゃ勝てない)
工藤は拳を構え直した。
「どうした。もう終わりか?」
夢斗が歯を食いしばった。
「……まだだ!」
再び踏み込もうとした瞬間、椿が腕を伸ばして止めた。
「待て、夢斗」
「……何だよ?」
「次は俺が先に行く」
夢斗は驚いた。
「……でも」
「今までと同じじゃ駄目なんだろ」
椿は小さく笑った。
「だったら、変えるだけだ」
夢斗も笑った。
「……なるほどな」
椿が前へ出る。
工藤は静かに構えた。
(……来るか)
椿は右の拳を伸ばした。
工藤は腕を上げる。
しかし、椿は途中で拳を止めた。
そのまま身体を沈め、相手の足元へ踏み込む。
工藤が体勢を変えた瞬間、夢斗が横から入った。
「……今だ!」
夢斗の拳が工藤の肩を捉えた。
工藤は一歩下がった。
椿はすぐに距離を取った。
「……どうだ?」
工藤は肩を軽く回した。
「……少しは考えたようだな」
夢斗が笑った。
「そりゃどうも!」
しかし、工藤の表情は変わらなかった。
「だが、次は通らない」
椿は拳を握った。
(……分かってる)
一度成功しただけでは勝てない。
そのことは、すでに理解していた。
それでも椿の胸には、不思議な感覚が芽生えていた。
相手の動き。
仲間の位置。
戦う場所の広さ。
それらが、以前よりもはっきりと見えている。
(……何だ、この感覚)
まるで、頭の中に戦場の地図が広がっているようだった。
椿は小さく息を吐いた。
(……今は考えるな)
目の前の工藤を見つめる。
(……まずは、こいつを倒す)
その頃、広場の南側では南尾張の生徒たちが苦戦していた。
「……石原!」
高瀬宗介が叫んだ。
石原和樹は、今川学園の生徒二人を相手にしていた。
「……大丈夫だ!」
そう答えた直後、横から拳を受ける。
石原がよろめいた。
高瀬はすぐに駆け寄り、相手の腕を掴んだ。
「……下がれ!」
石原を守るように前へ出る。
今川学園の生徒が拳を振るった。
高瀬は腕で受け止め、相手の腹部へ拳を打ち込んだ。
男が後退する。
しかし、すぐに別の生徒が近づいてきた。
「……まだ来るのか」
高瀬が呟いた。
藤崎蓮が隣へ並んだ。
「高瀬さん、俺もやります」
「……無理するなよ」
「分かってます」
藤崎は拳を構えた。
少し離れた場所では、柴田亮と村井健太が互いを援護しながら戦っている。
長谷川拓也も負傷した石原を支えていた。
「……高瀬」
石原が口を開いた。
「何だ?」
「……向こう、まだ余裕があるぞ」
高瀬は今川学園の後方を見た。
そこには、遠藤道流と佐藤健が立っていた。
二人とも、まだ戦っていない。
(……そういうことか)
高瀬は拳を握った。
(……俺たちは、まだ本当の主力と戦ってない)
その時、佐藤が遠藤へ何かを伝えた。
遠藤は静かに頷いた。
そして、一歩前へ出た。
広場の中央。
「……健」
遠藤が口を開いた。
「はい」
「そろそろ、俺たちも動くぞ」
佐藤は頷いた。
「分かりました」
遠藤は戦場を見渡した。
東条と岡島。
城戸と朝比奈。
そして、秋山天馬と中本泰史。
尾張の生徒たちは予想以上に粘っていた。
しかし、疲労は確実に蓄積している。
「……強いな、尾張の連中は」
遠藤が呟いた。
佐藤は答えた。
「ええ。特に各勢力の中心人物は、簡単には崩れません」
「……だが、このままでは終わらせない」
遠藤は制服の上着を脱いだ。
佐藤が受け取る。
「……遠藤さん」
「何だ?」
「秋山天馬の動きが変わりました」
遠藤は天馬の方を見た。
中本と拳を交える天馬。
その動きには、確かに先ほどまでとは違うものがあった。
遠藤は目を細めた。
「……そうか」
佐藤は続けた。
「まだ本人も気づいていないようですが……」
遠藤は静かに答えた。
「……俺にも分かる」
その意識の奥に、今川義元の声が響いた。
『……あの若者、ただ者ではない』
遠藤は心の中で答えた。
(……ああ)
『油断するな。あの者の内には、まだ眠れる何かがある』
遠藤は天馬を見つめた。
(……だからこそ、確かめる)
そして、ゆっくりと歩き始めた。
その先では、天馬が中本の拳をかわしていた。
中本が一歩下がる。
「……お前、何なんだよ」
天馬は荒い呼吸を整えた。
「……俺が聞きてえよ」
その時、背後から声が聞こえた。
「……中本」
中本が振り返る。
「……遠藤さん?」
遠藤が二人の前に立った。
天馬は拳を構えたまま、遠藤を見つめた。
「……お前」
遠藤は静かに答えた。
「秋山天馬」
天馬の表情が変わった。
「……何だよ」
「今度は、俺が相手をする」
中本が驚いた。
「遠藤さん、まだ俺は……!」
遠藤は中本へ視線を向けた。
「分かっている。お前はまだ戦える」
そして、天馬を見た。
「だが、こいつとは俺が戦いたい」
中本は少し黙った。
やがて、小さく頷いた。
「……分かりました」
中本が下がる。
天馬は遠藤を見つめた。
今川学園の頂点に立つ男。
その存在感は、これまでの相手とは明らかに違っていた。
(……何だよ、こいつ)
遠藤が一歩前へ出る。
その瞬間、天馬の視界に再び古い城が映った。
そして、見知らぬ戦場。
大勢の兵士たち。
その中心に立つ、一人の男の後ろ姿。
(……誰だ)
天馬は目を見開いた。
しかし、次の瞬間には景色が消えていた。
遠藤は静かに拳を構えた。
「……来い、秋山」
天馬も拳を握った。
「……言われなくても!」
二人の視線が交わった。
小豆坂の戦いは、新たな局面へ突入しようとしていた。
そして、秋山天馬の中で眠っていた何かが、確かに目覚め始めていた。
第77話 完




