第75話「広がる戦火」
小豆坂、旧運動広場。
東条雅人は、脇腹に走る痛みをこらえながら岡島秀太と向き合っていた。
額から流れた汗が、顎を伝って地面へ落ちる。
「……随分しぶといな、東条」
岡島が笑った。
「お前こそ、まだ余裕そうじゃねえか」
「余裕なんかねえよ。さっきの腹への一発、結構効いてんだぜ」
岡島は腹部を軽く押さえた。
東条はその動きを見逃さなかった。
(……やっぱり効いてる)
先ほどから岡島は、こちらの攻撃を正面で受けなくなっていた。
踏み込みを誘い、横へ回り込む。
そして、こちらが体勢を崩した瞬間に攻撃してくる。
(……だったら)
東条は拳を構え直した。
「行くぞ、岡島」
「来いよ」
東条が右足を踏み込む。
岡島はすぐに横へ動いた。
しかし、東条は拳を振らなかった。
「……何?」
岡島が一瞬だけ目を細めた。
東条は踏み込んだ足を軸に身体を回し、岡島の移動先へ左の拳を伸ばした。
拳が岡島の肩を捉える。
「……っ!」
岡島が後ろへ下がった。
東条は追撃する。
右の拳を腹部へ打ち込もうとした。
だが、岡島は両腕を下げて防いだ。
「……読んでたのかよ!」
岡島が笑う。
「少しはな!」
岡島の拳が東条の頬を捉えた。
東条はよろめいたが、倒れなかった。
すぐに踏み込み、岡島の胸元を掴む。
「……逃がさねえ!」
岡島も東条の腕を掴んだ。
二人は互いの体勢を崩そうと、地面を踏みしめる。
その時だった。
「……もう見てらんねえよ」
広場の反対側で、低い声が聞こえた。
北陵会の片瀬翔は、今川学園の生徒たちを睨んでいた。
その前に立っていたのは、今川学園三年の三浦直哉だった。
「……片瀬だったな」
三浦が口を開いた。
片瀬は眉を寄せた。
「何で俺の名前知ってんだ?」
「北陵会の主要メンバーだろ。調べてある」
三浦は落ち着いた口調で答えた。
「お前らの頭は、城戸圭吾だったな」
片瀬は城戸の方を見た。
城戸は少し離れた場所で、朝比奈優吾と向き合っている。
まだ二人は戦っていなかった。
しかし、互いに視線を外していない。
片瀬は三浦へ向き直った。
「……で、何の用だ?」
三浦は広場の中央を見た。
「東条と岡島の戦い、長引いてるな」
「だから?」
「このまま一組ずつ戦うつもりかと思ってな」
片瀬は鼻で笑った。
「……そんな約束、誰もしてねえだろ」
三浦が頷いた。
「そうだな」
その瞬間、三浦は制服の上着を脱いだ。
近くにいた今川学園の生徒へ渡す。
「……なら、俺たちも始めるか」
片瀬の表情が変わった。
「……いいぜ」
宮坂亮が一歩前へ出た。
「片瀬、待て」
片瀬が振り返る。
「何だよ?」
「相手は三年だ。しかも、今川学園の幹部だぞ」
片瀬は笑った。
「だったら、なおさらだろ」
水原廉も拳を握った。
「俺も行く」
しかし、片瀬は首を横に振った。
「お前は周りを見てろ」
「何でだよ?」
「他にも今川の連中がいる」
片瀬は三浦を見つめた。
「こいつは俺が相手する」
三浦は静かに拳を構えた。
「……来い」
片瀬は迷わず踏み込んだ。
右の拳が三浦の顔へ伸びる。
三浦は腕で受け止めた。
しかし、片瀬はそのまま左の拳を振るった。
三浦の肩に拳が当たる。
「……っ」
三浦が一歩下がった。
片瀬は笑った。
「どうした? 今川の幹部ってのは、その程度か?」
三浦は肩を回した。
「……威勢がいいな」
次の瞬間、三浦が踏み込んだ。
片瀬は拳を構える。
しかし、三浦は真正面から攻めなかった。
片瀬の右側へ回り込み、腹部へ拳を打ち込む。
「……ぐっ!」
片瀬は顔をしかめた。
三浦は続けて肩を押し込み、相手を後退させる。
片瀬は足を踏ん張った。
「……舐めんな!」
右の拳を振り抜く。
三浦は避けきれず、頬に一撃を受けた。
二人は互いに距離を取った。
三浦が口元を拭う。
「……なるほどな」
片瀬は笑った。
「まだまだこれからだろ」
三浦も拳を構え直した。
「……ああ」
広場の別の場所で、新たな戦いが始まった。
「……片瀬の奴、始めやがった」
城戸圭吾が呟いた。
向かいに立つ朝比奈優吾も、三浦と片瀬の方へ視線を向けた。
「……止めるか?」
朝比奈が尋ねた。
城戸は首を横に振った。
「いや」
「いいのか?」
「あいつが自分で決めたことだ」
城戸は朝比奈を見た。
「ただし、危なくなったら止める」
朝比奈は小さく頷いた。
「……同じ考えだ」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
城戸が口を開く。
「……朝比奈」
「何だ?」
「お前ら、本当に尾張を従わせるつもりなのか?」
朝比奈は静かに答えた。
「遠藤さんは、争いを減らすために三河と尾張をまとめようとしている」
「……そのために、俺たちを殴るのか?」
朝比奈は少し黙った。
「……話し合いで決まらなかった以上、そうなる」
城戸は拳を握った。
「だったら、俺はお前らを認められねえ」
朝比奈も拳を構えた。
「……分かってる」
城戸は一歩前へ出た。
「俺たちの仲間は、俺たちで守る」
朝比奈が頷いた。
「なら、俺も今川学園の仲間を守る」
二人の視線が交わった。
次の瞬間、城戸が踏み込んだ。
朝比奈はその動きを見極め、腕を上げる。
城戸の拳が朝比奈の腕に当たった。
しかし、朝比奈は下がらなかった。
すぐに反対の拳を伸ばす。
城戸は身体を横へずらし、相手の懐へ入った。
肩を押し込み、朝比奈の体勢を崩そうとする。
朝比奈は足を踏ん張った。
「……強えな」
城戸が呟いた。
朝比奈は静かに答えた。
「お前もな」
二人は互いに腕を掴み、押し合った。
北尾張の頭と、今川学園の幹部。
その戦いも、ついに始まった。
広場の中央付近。
秋山天馬は、次々と始まる戦いを見つめていた。
「……始まっちまったな」
大地夢斗が呟いた。
天馬は頷いた。
「ああ」
竜胆椿は周囲を確認していた。
「東条と岡島。片瀬と三浦。城戸と朝比奈……」
佐久間海斗が拳を握った。
「俺たちも行きましょうよ!」
桐生拓真が海斗の肩を掴んだ。
「焦るな」
「でも!」
「今川の連中は、まだほとんど動いてねえ」
桐生は遠藤道流の方を見た。
遠藤は佐藤健と並び、戦いの様子を見つめていた。
その近くには、中本泰史と工藤春樹が控えている。
椿が小さく呟いた。
「……向こうは、まだ余力を残してる」
天馬は遠藤を見た。
(……あいつが今川の頭)
遠藤は戦いを止めようとはしていなかった。
しかし、無闇に生徒たちを突撃させる様子もない。
まるで、尾張の各勢力の実力を確かめているようだった。
その時、遠藤が佐藤へ何かを伝えた。
佐藤は頷き、後方の今川学園の生徒たちへ声をかけた。
「……各自、予定通りに」
その言葉を聞いた今川学園の生徒たちが、ゆっくりと前へ出始めた。
天馬の表情が変わった。
「……来るぞ」
夢斗も拳を構えた。
「……ああ」
海斗が笑った。
「ようやく俺たちの番っすね!」
桐生は静かに答えた。
「……油断するなよ」
椿は今川学園の動きを見つめた。
(……妙だな)
相手は一斉に突っ込んでくるわけではない。
数人ずつ、一定の距離を保ちながら広がっている。
(……最初から集団戦を想定していたのか)
椿は天馬へ声をかけた。
「天馬、気をつけろ」
「何だ?」
「向こうは、ただ人数を集めてるわけじゃない」
天馬は頷いた。
「……分かってる」
その時、今川学園の生徒の一人が、天馬たちの前に立った。
「……秋山天馬だな」
天馬が顔を上げた。
「そうだけど」
男は笑った。
「今川学園二年、中本泰史だ」
夢斗が眉を寄せた。
「……また幹部かよ」
中本は天馬を見つめた。
「遠藤さんから、お前の相手を任されてる」
天馬は静かに拳を握った。
「……そうか」
中本は一歩前へ出た。
「尾張中央の実力、見せてもらうぜ」
天馬も踏み込んだ。
「……だったら、そっちも見せてみろよ」
二人が向かい合った。
その背後では、今川学園の生徒たちがさらに広がり始めている。
東尾張連合。
北陵会。
南尾張の各校。
そして尾張中央高校。
それぞれの戦いが、同時に動き出していた。
小豆坂の前哨戦は、すでに終わりを迎えようとしている。
そして、尾張と三河の全面抗争が、ついに始まろうとしていた。
第75話 完




