第70話「最初の衝突」
夕暮れの商店街。
秋山天馬と大沢拓海が、互いの拳を構えたまま向かい合っていた。
少し離れた場所では、大地夢斗が今川学園の生徒二人を相手にしている。
「……随分強気じゃねえか」
大沢が笑った。
「さっきまで喧嘩したくねえって言ってたのによ」
天馬は相手の目を見た。
「何度断っても帰らねえなら、仕方ねえだろ」
「だったら最初からそう言えよ」
大沢は踏み込んだ。
右の拳が天馬の顔へ伸びる。
天馬は腕で受け止め、相手の肩を押し返した。
しかし、大沢は後ろへ下がらなかった。
身体を寄せたまま、左の拳を天馬の脇腹へ打ち込む。
「……っ!」
天馬は息を詰まらせた。
大沢が笑った。
「どうした? 東条を倒したって噂は嘘だったのか?」
天馬は一歩下がり、呼吸を整えた。
「……噂なんて、勝手に広まるもんだろ」
「余裕ぶってんじゃねえよ!」
大沢が再び踏み込む。
天馬は今度こそ相手の動きを見極めようとした。
右の拳。
その後に続く左。
大沢は同じ組み立てで攻めてくる。
天馬は右をかわし、左の拳が伸びる前に相手の懐へ踏み込んだ。
そして、大沢の腹部へ拳を打ち込んだ。
「……ぐっ!」
大沢の身体が折れる。
天馬はすぐに距離を取った。
「……まだやるか?」
大沢は腹を押さえながら笑った。
「……当たり前だろ」
その目には、先ほどまでの軽い余裕がなくなっていた。
少し離れた場所。
夢斗は二人の男子生徒に挟まれていた。
「……お前ら、二人がかりってどうなんだよ」
夢斗が苦笑した。
右側の男が答える。
「喧嘩に人数なんか関係ねえだろ」
「いや、あるだろ」
夢斗は肩をすくめた。
「こっちは一人なんだけど」
左側の男が踏み込んだ。
夢斗は拳をかわし、相手の腕を掴んで引き寄せる。
男は勢いを失い、前へよろめいた。
その背後から、もう一人が近づく。
夢斗は振り返った。
しかし、相手の拳が肩に当たった。
「……っ!」
夢斗は顔をしかめた。
「……痛えな」
男が笑った。
「余裕なくなってきたか?」
夢斗は肩を回した。
「最初から余裕なんかねえよ」
相手は再び踏み込んだ。
夢斗は後ろへ下がりながら、二人の位置を確認する。
(……このままじゃ挟まれる)
一人に集中すれば、もう一人が背後へ回る。
かといって、逃げようとすれば追いかけてくる。
夢斗は小さく息をついた。
(天馬は……)
視線を向けると、天馬も大沢と激しく打ち合っていた。
助けを求める余裕はなさそうだった。
「……仕方ねえな」
夢斗は足を止めた。
右側の男が笑った。
「諦めたか?」
「違う」
夢斗は静かに答えた。
「一人ずつ相手する」
男が眉を寄せた。
「何?」
夢斗は右側の男へ一気に踏み込んだ。
相手が拳を振り上げるより先に、夢斗は肩を押し込んだ。
男は後ろへ下がる。
そのまま夢斗は相手の腕を掴み、壁際へ押しつけた。
「……おい!」
もう一人が駆け寄る。
夢斗は相手を離し、すぐに横へ移動した。
駆け寄った男は勢いを止められず、壁に手をついた。
夢斗はその背後へ回り込んだ。
「……悪いな」
男の背中を押し、体勢を崩させる。
二人の男が、ほぼ同時に地面へ膝をついた。
夢斗は息を整えた。
「……これで終わりにしようぜ」
しかし、二人はまだ立ち上がろうとしていた。
商店街の中央。
天馬と大沢の戦いは続いていた。
大沢は額に汗を浮かべながら、天馬を睨んでいた。
「……お前、思ったよりやるじゃねえか」
天馬も呼吸を整えていた。
「そりゃどうも」
「でも、まだ終わってねえぞ」
大沢は再び拳を構えた。
天馬は相手の足元を見た。
先ほどより、踏み込みが浅い。
腹部への一撃が効いているのだろう。
(……ここで決める)
天馬は一歩前へ出た。
大沢が右の拳を振るう。
天馬は身体を沈め、その腕の下をくぐった。
そして、相手の胸元へ踏み込む。
大沢は反射的に後ろへ下がった。
しかし、天馬の拳が先に届いた。
腹部への一撃。
大沢の身体が折れる。
天馬はさらに踏み込み、相手の肩を押した。
大沢は後ろへ倒れ込んだ。
「……くそっ!」
大沢は地面に手をついた。
天馬は拳を下ろした。
「……もう終わりだ」
大沢は悔しそうに顔を上げた。
「……まだだ」
立ち上がろうとする。
しかし、腹部の痛みで膝が震えた。
天馬は静かに言った。
「無理すんな」
大沢は歯を食いしばった。
「……舐めやがって」
「舐めてねえよ」
天馬は答えた。
「ただ、これ以上やる意味がねえ」
大沢はしばらく黙っていた。
やがて、拳を地面についた。
「……くそ」
その時だった。
「天馬!」
夢斗の声が聞こえた。
天馬が振り返る。
少し離れた場所で、夢斗が三人目の今川学園の生徒に背後から掴まれていた。
「……夢斗!」
夢斗は腕を振り払おうとしていた。
しかし、前方には先ほどの二人が立ち上がっている。
「……おいおい、三人がかりかよ」
夢斗が苦笑する。
背後の男が答えた。
「お前、さっきから調子乗りすぎなんだよ」
男は夢斗の腕を強く引いた。
夢斗の身体が後ろへ傾く。
その瞬間、前方の一人が拳を振り上げた。
夢斗は身体を捻った。
しかし、完全には避けられなかった。
拳が頬に当たる。
「……っ!」
夢斗はよろめいた。
天馬の表情が変わった。
「……お前ら!」
天馬は駆け出した。
背後で大沢が立ち上がろうとしたが、追いかけることはできなかった。
天馬は夢斗を掴んでいた男の腕を払い、二人の間へ割って入った。
「離れろ!」
男は一歩下がった。
夢斗が頬を押さえる。
「……助かった」
天馬は夢斗を見た。
「大丈夫か?」
「まあ、何とか」
「無理すんなよ」
夢斗は苦笑した。
「それ、さっきお前が言われてた台詞だろ」
天馬は少しだけ笑った。
しかし、すぐに三人へ向き直った。
「……もうやめろ」
男たちは顔を見合わせた。
そのうちの一人が言った。
「何だよ。二人でまとめて相手する気か?」
天馬は答えた。
「これ以上やるならな」
夢斗も隣に立った。
「……俺もまだ動けるぞ」
三人は少しずつ距離を取った。
天馬と夢斗の目には、もう迷いがなかった。
数分後。
商店街の入口に、大沢たち四人が集まっていた。
大沢は腹を押さえながら、天馬を睨んでいる。
「……今日のところは、俺たちの負けだ」
天馬は答えなかった。
大沢は続けた。
「でも、これで終わりだと思うなよ」
夢斗が眉を寄せた。
「……まだやる気かよ」
「俺たちだけじゃねえ」
大沢は笑った。
「今川学園には、俺より強え奴がいくらでもいる」
天馬は静かに答えた。
「……知ってるよ」
大沢が眉を寄せる。
「何?」
「岡島と朝比奈には会ったことがある」
天馬は続けた。
「あいつらが強いのは、何となく分かる」
大沢は黙った。
「でも、だからって俺たちが何も言わずに従う理由にはならねえ」
天馬は大沢を見つめた。
「俺たちは、俺たちのやり方でやる」
大沢はしばらく黙っていた。
やがて、背を向けた。
「……覚えてろよ」
四人は商店街を離れていった。
夢斗は大きく息をついた。
「……やっと終わった」
天馬は夢斗を見た。
「怪我、大丈夫か?」
「頬が痛えくらいだよ」
夢斗は苦笑した。
「お前こそ、腹やられてただろ」
「まあな」
天馬は脇腹を押さえた。
「……結構効いた」
「だろうな」
二人は顔を見合わせて笑った。
しかし、すぐに夢斗の表情が真剣になった。
「……天馬」
「何だ?」
「これ、椿たちにも話した方がいいよな」
「ああ」
天馬は頷いた。
「今川の連中が勝手に動いてるなら、また誰かが絡まれるかもしれねえ」
夢斗はスマートフォンを取り出した。
「じゃあ、連絡しとく」
「頼む」
天馬は夕暮れの空を見上げた。
(……今川学園)
岡島秀太。
朝比奈優吾。
そして、遠藤道流。
まだ直接会っていない今川学園の頭の存在が、天馬の中で少しずつ大きくなっていた。
その時、再び頭の奥に奇妙な光景が浮かんだ。
燃えるような夕空。
見知らぬ城の門。
そして、誰かが自分の名を呼んでいるような感覚。
天馬は足を止めた。
「……天馬?」
夢斗が振り返る。
「どうした?」
天馬は首を横に振った。
「……いや、何でもねえ」
夢斗は少し心配そうに見た。
「本当か?」
「ああ」
天馬は歩き始めた。
「帰ろうぜ」
夢斗も頷いた。
「そうだな」
二人は商店街を後にした。
その日の喧嘩は、尾張中央高校の二人が勝利した。
しかし、それは今川学園との対立が終わったことを意味しなかった。
むしろ、今まで遠くにあった三河の勢力が、天馬たちの日常へ踏み込んできた最初の出来事だった。
そして、この衝突の報告は、やがて今川学園の幹部たちにも届くことになる。
第70話 完




