第69話「崩れる均衡」
三河・今川学園。
放課後の校舎では、佐藤健が一枚の報告書を読み返していた。
机の向かいには、岡島秀太と朝比奈優吾が座っている。
「……東尾張、北尾張、南尾張」
佐藤は紙を机に置いた。
「どこも、こちらの予想以上に警戒を強めていますね」
岡島が椅子にもたれた。
「そりゃそうだろ。何度も学校に顔出してりゃ、嫌でも警戒される」
朝比奈も頷いた。
「しかも、一部の連中が余計なことをしている」
「その件です」
佐藤の声が少し低くなった。
「東商、東陽、北山。いずれも、こちらの生徒が相手を挑発しています」
岡島は眉を寄せた。
「俺からも注意したんだけどな」
「注意だけでは足りなかったようです」
佐藤は新しい紙を取り出した。
そこには、南尾張の港湾地区で起きた騒動についても記されていた。
「南尾張では、高瀬宗介を中心に学校同士の連絡網が作られ始めています」
朝比奈が腕を組んだ。
「俺たちが動いたことで、逆に結束が強まっているわけか」
「そういうことです」
佐藤は静かに答えた。
「このままでは、尾張の各勢力が今川学園を共通の敵と見なす可能性があります」
岡島が笑った。
「だったら、いっそ正面からやり合えばいいんじゃねえか?」
「それでは意味がありません」
佐藤は即座に答えた。
「遠藤さんが望んでいるのは、尾張との協力関係を築くことです。無意味な抗争ではありません」
「分かってるよ」
岡島は肩をすくめた。
「冗談だって」
朝比奈が佐藤を見た。
「……それで、どうする?」
佐藤は少し考えた。
「一度、尾張への接触を整理します」
「整理?」
「誰が、どの学校に、何を目的として接触するのか。今後は勝手な行動を認めません」
岡島が頷いた。
「それなら、余計な揉め事は減るだろうな」
「ええ」
佐藤は続けた。
「ただし、すでに動いている生徒たちを全員把握できているわけではありません」
朝比奈の表情が険しくなった。
「……まだ何か起きる可能性があるってことか」
佐藤は静かに頷いた。
「残念ながら」
同じ頃。
尾張と三河の境に近い商業地区。
古いゲームセンターの裏手に、数人の男子生徒が集まっていた。
今川学園の制服を着た生徒が四人。
その中心にいるのは、二年生の大沢拓海だった。
「……佐藤が勝手な行動を控えろって言ってたぞ」
仲間の一人が口を開いた。
大沢は鼻で笑った。
「だから何だよ」
「今、尾張で揉め事起こしたら面倒だろ」
「面倒なのは、いつまで経っても話が進まねえことだ」
大沢はスマートフォンを取り出した。
画面には、尾張中央高校の名前が表示されていた。
「……こいつら、まだ今川に何の返事もしてねえんだろ?」
仲間が頷いた。
「秋山天馬って奴らか?」
「ああ」
大沢は笑った。
「東条も城戸も高瀬も、遠藤さんが直接話してる。それなのに、あの五人だけは好き勝手に動いてるらしいじゃねえか」
「でも、岡島さんと朝比奈さんが会ってるんだろ?」
「顔を合わせただけだろ」
大沢は画面を閉じた。
「だったら、俺たちが実力を確かめてやる」
仲間の一人が不安そうに尋ねた。
「……勝手にやっていいのか?」
大沢は立ち上がった。
「今川学園の名前を広めるためだ。文句は言わせねえよ」
その言葉に、仲間たちは顔を見合わせた。
誰も、すぐには賛成しなかった。
しかし、大沢はすでに歩き始めていた。
翌日の放課後。
尾張中央高校。
秋山天馬は、大地夢斗とともに校門を出たところだった。
「……なあ、天馬」
夢斗が口を開いた。
「最近、三河の連中の話ばっかりだな」
「そうだな」
天馬は答えた。
「東条たちのところでも、色々あったらしい」
「北陵会もだろ?」
「ああ」
夢斗は少し考えた。
「……俺たちのところにも、そのうち来るのかな」
天馬は笑った。
「もう一回来たっておかしくねえだろ」
「できれば平和に帰りたいんだけどな」
「俺もだよ」
二人は商店街へ向かって歩き始めた。
その時だった。
前方に、四人の男子生徒が立っていた。
見慣れない制服。
天馬は足を止めた。
「……今川学園か?」
先頭の大沢が笑った。
「お前が秋山天馬?」
天馬は頷いた。
「そうだけど」
「俺は大沢拓海」
「……で、何の用だ?」
大沢は天馬を見つめた。
「お前がどれくらい強いのか、確かめに来た」
夢斗が小さく息をついた。
「……またそれかよ」
大沢が夢斗を見た。
「お前は?」
「大地夢斗」
「ちょうどいい。二人まとめて相手してやるよ」
夢斗は天馬を見た。
「……どうする?」
天馬は大沢を見つめた。
「俺たちは、今川学園と喧嘩する理由がねえ」
大沢が眉を寄せた。
「何?」
「だから、帰ってくれ」
天馬はそう言って歩き出そうとした。
しかし、大沢が道を塞いだ。
「……逃げんのか?」
天馬は足を止めた。
「そう思うなら、それでいい」
大沢の表情が険しくなった。
「随分余裕じゃねえか」
夢斗が口を開いた。
「お前ら、佐藤って奴の指示で来たのか?」
大沢は答えなかった。
夢斗は眉を寄せた。
「……違うんだな」
「だったら何だよ」
大沢は夢斗を睨んだ。
「俺たちが勝手に来ちゃ悪いのか?」
天馬は小さく息をついた。
「……悪いだろ」
「何?」
「お前らの上の奴らが、尾張と話し合ってる最中なんだろ?」
天馬は続けた。
「そこで勝手に喧嘩売ったら、困るのはお前らの仲間じゃねえのか?」
大沢は一瞬黙った。
しかし、すぐに笑った。
「……口だけは達者だな」
大沢は天馬の胸元を掴んだ。
「だったら、力で教えてやるよ」
夢斗が動こうとした。
しかし、天馬が片手で制した。
「……夢斗」
「分かってる」
天馬は大沢の腕を掴んだ。
「……離せ」
大沢は笑った。
「嫌だね」
天馬は相手の手首を捻り、胸元から引き離した。
大沢の表情が変わった。
「……っ!」
天馬は腕を離した。
「もう一回言う。帰れ」
大沢は歯を食いしばった。
「……舐めやがって!」
次の瞬間、大沢が拳を振り上げた。
天馬は身体を横にずらした。
しかし、背後にいた今川学園の生徒が夢斗へ近づいた。
「お前も相手してやるよ!」
夢斗は眉を寄せた。
「……勘弁してくれよ」
男が拳を振るう。
夢斗は腕で受け止め、相手の肩を押した。
男が後ろへよろめいた。
「……何だ、こいつ」
夢斗は静かに答えた。
「喧嘩したくねえって言ってんだろ」
だが、相手は止まらなかった。
もう一人が夢斗の背後へ回り込む。
夢斗は振り返ろうとした。
その瞬間、天馬の声が聞こえた。
「夢斗、後ろ!」
夢斗は反射的に身体を沈めた。
背後から伸びた腕が空を切る。
夢斗は相手の足元へ踏み込み、体勢を崩した。
男は地面に膝をついた。
「……くそっ!」
夢斗は息をついた。
「……これ、完全に喧嘩になってるよな」
天馬は大沢を見つめた。
「ああ」
大沢は口元を歪めた。
「……やっぱり強えじゃねえか」
天馬は答えなかった。
大沢は拳を握り直した。
「だったら、もっと本気で来いよ!」
大沢が再び踏み込んだ。
今度の拳は、先ほどより速かった。
天馬は腕で受け止めた。
しかし、大沢はすぐに反対の拳を振るった。
天馬の頬を、拳がかすめる。
「……っ」
夢斗が振り返った。
「天馬!」
「大丈夫だ!」
天馬は一歩下がった。
大沢は笑った。
「……どうした? 東尾張連合の頭を倒したって聞いたけど、その程度か?」
天馬の目つきが変わった。
「……お前」
大沢は続けた。
「尾張の連中なんて、大したことねえな」
天馬は静かに拳を握った。
「……今、何て言った?」
夢斗が天馬を見た。
「天馬、落ち着け」
しかし、大沢は止まらなかった。
「今川学園が本気で来たら、お前らなんて簡単に潰されるんだよ」
天馬は大沢を見つめた。
「……だったら」
大沢が眉を寄せた。
「何だ?」
「その言葉、後悔させてやる」
天馬は一歩前に出た。
その瞬間、頭の奥に奇妙な光景が浮かんだ。
見知らぬ城。
広い庭。
そして、大勢の男たちが頭を下げている姿。
天馬は一瞬だけ動きを止めた。
(……また、あの光景か)
しかし、すぐに現実へ意識を戻した。
目の前には、大沢拓海がいる。
天馬は拳を構えた。
「……来いよ」
大沢は笑った。
「最初からそうしてりゃいいんだよ!」
二人は同時に踏み込んだ。
夕暮れの商店街。
尾張中央高校の二人と、今川学園の四人。
これまで言葉だけで続いていた緊張は、ついに拳を交える衝突へと変わった。
そして、この小さな喧嘩が、尾張全体を揺るがす戦いの始まりになることを、まだ誰も知らなかった。
第69話 完




