第68話「南尾張の約束」
港南工業高校。
三年生の柴田亮は、帰り支度をしていたところでスマートフォンを取り出した。
画面には、南翔高校の藤崎蓮からの着信が表示されている。
「……藤崎?」
電話に出ると、切迫した声が聞こえた。
『柴田さん、今どこにいますか?』
「学校だけど。どうした?」
『南浜の一年生が、港の倉庫街で他校の生徒に囲まれているそうです』
柴田の表情が変わった。
「何人だ?」
『まだ確認中です。村井が現場に向かっています』
「……あいつ、一人でか?」
『友達と二人です。俺たちも向かいます』
柴田は鞄を机に置いた。
「場所を送れ」
『今から送ります』
「分かった。俺が先に行く」
『柴田さん、無理に手を出さないでください』
柴田は苦笑した。
「分かってるよ」
電話を切ると、近くにいた男子生徒が声をかけてきた。
「柴田さん、どうしたんですか?」
港南工業二年の大野翔平だった。
「南浜の一年が絡まれてるらしい」
「今川の連中ですか?」
「まだ分からねえ」
柴田は制服の袖をまくった。
「大野、ついてこい」
「はい!」
「ただし、喧嘩しに行くわけじゃねえぞ」
大野は驚いた。
「柴田さんがそんなこと言うんですか?」
「うるせえな」
柴田は少し笑った。
「今日、約束したばっかりだからな」
二人は急いで学校を出た。
南尾張の港湾地区。
古い倉庫が並ぶ道路の脇で、南浜高校一年の小林優斗が三人の男子生徒に囲まれていた。
「だから、知らないって言ってるだろ!」
小林が声を荒らげた。
その前に立つ男は、制服の上着を肩に掛けていた。
「知らねえわけないだろ」
男は小林を睨んだ。
「お前、昨日あいつらと一緒にいたよな?」
「いたけど、何もしてねえよ!」
「じゃあ、誰が俺の後輩を殴ったんだよ」
小林は唇を噛んだ。
「……俺には分かんねえ」
男が一歩近づく。
「本当か?」
小林は後ずさった。
その背中が倉庫の壁に触れた。
「……本当だ」
男は小林の胸ぐらを掴んだ。
「だったら、知ってる奴の名前くらい言えよ」
「やめろよ!」
小林が腕を振り払おうとする。
しかし、男の力は強かった。
「お前、随分生意気だな」
その時だった。
「……おい」
低い声が聞こえた。
男たちが振り返る。
そこに立っていたのは、柴田亮と大野翔平だった。
柴田は小林の胸ぐらを掴んでいる男を見た。
「そいつ、離してやれよ」
男は眉を寄せた。
「誰だ、お前?」
「港南工業の柴田亮」
その名前を聞いた男の表情が変わった。
「……港南工業?」
「ああ」
柴田はゆっくり近づいた。
「そいつは南浜の一年だろ。何があった?」
男は小林から手を離した。
「俺の後輩が殴られたんだよ」
「誰に?」
「南浜の連中にだ」
柴田は小林を見た。
「お前、知ってるのか?」
小林は首を横に振った。
「俺は何もしてません」
「でも、昨日一緒にいたんだろ?」
「……はい」
柴田は少し考えた。
「だったら、話を聞く必要はあるな」
男が笑った。
「分かってんじゃねえか」
「ただし」
柴田は男を見た。
「三人で一年を囲んで脅す必要はねえだろ」
男の笑みが消えた。
「……何だと?」
「話を聞きたいなら、普通に聞けよ」
男は柴田を睨んだ。
「お前、俺たちの邪魔する気か?」
柴田は答えた。
「困ってる奴がいるから来ただけだ」
男は拳を握った。
「……舐めてんのか?」
柴田は一歩も退かなかった。
「舐めてねえよ」
その時、大野が小林の横へ移動した。
「大丈夫か?」
「……はい」
「怪我は?」
「ありません」
大野は頷いた。
「なら、少し下がってろ」
小林が後ろへ下がる。
男はその様子を見て、苛立ったように言った。
「勝手に帰すんじゃねえよ!」
柴田は男を見た。
「……お前、まだ話があるのか?」
「当たり前だろ!」
男は柴田の胸元を掴もうとした。
しかし、柴田はその腕を掴んで止めた。
「……やめとけ」
男の表情が変わった。
「何……?」
柴田は腕を離した。
「俺は今日、喧嘩しないって決めてんだ」
男は歯を食いしばった。
「……ふざけんな!」
次の瞬間、男が拳を振り上げた。
柴田は身体を半歩ずらし、拳をかわした。
そして男の腕を押さえ、体勢を崩させる。
男は膝をついた。
「……っ!」
柴田は手を離した。
「もうやめろ」
男は悔しそうに顔を上げた。
「……何なんだよ、お前」
柴田は静かに答えた。
「港南工業の柴田亮だって言っただろ」
数分後。
村井健太が友人を連れて駆けつけた。
「小林!」
小林が顔を上げる。
「村井先輩……!」
村井は小林の肩を掴んだ。
「大丈夫か?」
「はい。柴田さんたちが助けてくれました」
村井は柴田に頭を下げた。
「ありがとうございます!」
柴田は首を振った。
「礼はいい。それより、こいつらの話を聞いてやれ」
村井は男たちを見た。
「……何があったんですか?」
男は不満そうに答えた。
「俺の後輩が、昨日南浜の連中に殴られたんだよ」
村井の表情が変わった。
「……昨日?」
「ああ」
「もしかして、駅前の件ですか?」
男が顔を上げた。
「知ってんのか?」
村井は頷いた。
「うちの二年と、他校の生徒が揉めたって聞きました」
小林が驚いた。
「村井先輩、知ってたんですか?」
「詳しくは知らない。でも、先生が事情を聞いてるらしい」
男は眉を寄せた。
「……先生?」
「ああ。だから、今ここで一年を脅しても何も解決しないと思う」
柴田が頷いた。
「そういうことだ」
男はしばらく黙っていた。
やがて、小林を見た。
「……お前、本当に関係ねえんだな?」
小林は頷いた。
「はい」
男は小さく息をついた。
「……分かった」
その時、道路の向こうから声が聞こえた。
「お前ら、何やってんだ?」
高瀬宗介、藤崎蓮、石原和樹の三人だった。
柴田が振り返る。
「……遅えぞ、高瀬」
高瀬は周囲を見渡した。
「怪我人は?」
「いねえよ」
柴田が答えた。
「ちょっと揉めただけだ」
藤崎が小林を見た。
「本当に大丈夫?」
「はい」
高瀬は男たちに向き直った。
「話は聞いた。お互い、これ以上はやめよう」
男は高瀬を見た。
「……お前が南翔の高瀬か」
「ああ」
「南尾張の代表気取りって噂の?」
柴田の表情が険しくなった。
「お前……」
しかし、高瀬は笑った。
「代表になった覚えはないよ」
男が眉を寄せた。
「何?」
「俺たちは、困った時に助け合おうって決めただけだ」
高瀬は続けた。
「南浜も、港南工業も、それぞれ別の学校だ」
男は黙った。
「だから、誰か一人が全部を仕切ってるわけじゃない」
高瀬は静かに言った。
「ただ、仲間が困ってたら助けに行く。それだけだ」
男はしばらく高瀬を見つめていた。
やがて、仲間たちに声をかけた。
「……帰るぞ」
三人はその場を離れた。
夕暮れの港。
騒ぎが収まったあと、高瀬たちは倉庫街の近くに集まっていた。
柴田は腕を組んでいた。
「……結局、喧嘩になりかけたけどな」
高瀬は笑った。
「でも、怪我人は出なかった」
「俺が強かったからだろ」
石原が苦笑した。
「自分で言うなよ」
村井が口を開いた。
「……今日、本当に助かりました」
柴田は村井を見た。
「別に、お前らのためだけじゃねえよ」
「え?」
「南尾張の学校同士で助け合うって決めただろ」
村井は驚いた。
柴田は続けた。
「だったら、困ってる奴がいたら助ける。それだけだ」
高瀬は小さく頷いた。
「……ありがとう、柴田」
柴田は少し照れくさそうに顔を逸らした。
「礼なんかいらねえよ」
藤崎が笑った。
「今日の話し合い、意味がありましたね」
石原も頷いた。
「ああ。少なくとも、言葉だけじゃ終わらなかった」
高瀬は港の向こうを見つめた。
「……でも、まだ始まったばかりだ」
村井が尋ねた。
「これから、どうなるんですか?」
高瀬は少し考えた。
「分からない」
「……」
「今川学園が本気で南尾張に来たら、今日みたいにはいかないかもしれない」
柴田が頷いた。
「だろうな」
高瀬は全員を見渡した。
「だからこそ、今のうちに信頼関係を作っておきたい」
村井が頷いた。
「俺たちも協力します」
柴田が笑った。
「港南工業もな」
石原が頷く。
「南翔も当然だ」
藤崎はスマートフォンを取り出した。
「南丘商業の長谷川にも報告しておきます」
高瀬は笑った。
「頼む」
夕暮れの空の下。
南翔高校、南浜高校、港南工業高校。
三つの学校の生徒たちは、互いに顔を見合わせた。
そこに正式な連合の名前はない。
上下関係もない。
しかし、困った時に助け合うという約束は、確かに形になり始めていた。
その一方で、三河の今川学園は尾張への接触を続けている。
東尾張では東条雅人が動き、北尾張では城戸圭吾が警戒を強めていた。
そして南尾張でも、高瀬宗介を中心とした新たな協力関係が生まれつつあった。
それぞれの思いが、やがて一つの大きな戦いへ繋がっていく。
第68話 完




