第64話「譲れぬもの」
東尾張工業高校。
放課後の教室では、東条雅人が机に広げた一枚の紙を見つめていた。
そこには、東尾張にある複数の高校の名前が書かれている。
「……また一校か」
向かいに座っていた神谷亮介が頷いた。
「東商に続いて、今度は東陽高校だ」
「何があった?」
「三河の連中が来て、今川学園との交流を持ちかけたらしい」
東条は顔を上げた。
「それだけか?」
「最初はな」
神谷は紙の一か所を指さした。
「断った生徒に対して、今度は東尾張連合との関係を問い詰めたそうだ」
「……東商と同じか」
「ああ。ただ、今回は少し違う」
神谷の表情が険しくなった。
「東陽の二年が一人、殴られてる」
東条の目つきが変わった。
「誰に?」
「今川学園の生徒だと名乗っていたらしい。ただ、名前までは分からない」
「怪我は?」
「頬が腫れてる。病院に行くほどではないらしいが、本人はかなり腹を立ててる」
東条は黙った。
神谷が続ける。
「東陽の連中も、黙ってるつもりはないみたいだ」
「仕返しする気か?」
「その可能性が高い」
東条は椅子から立ち上がった。
「……東陽に行くぞ」
神谷が顔を上げる。
「お前が直接?」
「ああ」
「相馬たちに任せてもいいんじゃないか?」
「今回は俺が行く」
東条は制服の上着を手に取った。
「殴られた奴の話を、直接聞きたい」
東陽高校。
校門の近くには、十人ほどの男子生徒が集まっていた。
その中心にいるのは、二年生の坂井悠斗。
左頬には、うっすらと赤い痕が残っている。
「だから、俺たちで行けばいいだろ!」
坂井が声を荒らげた。
「三河の奴らに舐められっぱなしでいいのかよ!」
周囲の生徒たちも頷いた。
「俺も行く」
「相手が三人なら、こっちだって人数集めりゃいい」
「東陽を馬鹿にされたままじゃ終われねえだろ」
その時だった。
「……人数集めて、どうするつもりだ?」
低い声が聞こえた。
生徒たちが振り返る。
そこに立っていたのは、東条雅人と神谷亮介だった。
「東条さん……」
坂井が驚いた表情を浮かべた。
東条は坂井の前まで歩いてきた。
「怪我したって聞いたぞ」
「……大したことないです」
「誰にやられた?」
「今川学園の奴です」
「名前は?」
「分かりません」
東条は頷いた。
「何があったか、最初から話してくれ」
坂井は少し迷ったあと、口を開いた。
「三河の奴らが、今川学園と付き合わないかって言ってきたんです」
「それで?」
「俺たちは東陽だけでやっていくって断りました」
東条は黙って聞いていた。
「そしたら、東尾張連合の名前を出されて……」
坂井は拳を握った。
「東条に守ってもらわなきゃ何もできない学校だろって言われたんです」
神谷の眉が動いた。
「それで殴られたのか?」
「……いや」
坂井は視線を落とした。
「俺が先に胸ぐら掴みました」
周囲の生徒たちが黙り込んだ。
東条は坂井を見つめた。
「そうか」
「でも、向こうが先に馬鹿にしてきたんです!」
「分かってる」
東条は落ち着いた声で答えた。
「ただ、先に手を出したのはお前なんだな?」
坂井は唇を噛んだ。
「……はい」
東条は少し考えた。
「正直に話してくれてありがとな」
坂井が顔を上げた。
「え?」
「自分に都合の悪いことを隠さなかった。それは大事なことだ」
東条は続けた。
「でも、だからって人数集めて仕返しに行くのは違う」
「……じゃあ、泣き寝入りしろってことですか?」
「そうは言ってねえ」
東条は坂井の肩に手を置いた。
「俺も一緒に行く。相手と話をつけよう」
夕方。
東陽高校から少し離れた河川敷。
東条、神谷、坂井の三人は、今川学園の生徒たちがいるという場所へ向かっていた。
河川敷の階段には、三人の男子生徒が座っていた。
そのうちの一人が東条たちに気づく。
「……何だ、お前ら」
東条は足を止めた。
「東条雅人だ」
その名前を聞いた三人の表情が変わった。
「東尾張連合の……」
「ああ」
東条は坂井を示した。
「こいつと揉めたって聞いた」
三人のうち、背の高い男が立ち上がった。
「……ああ、そいつか」
坂井が前に出ようとする。
「お前……!」
「坂井」
東条が制した。
坂井は悔しそうに足を止めた。
東条は男を見た。
「何があった?」
「そいつが先に胸ぐら掴んできたんだよ」
「それは聞いてる」
「だったら、俺たちが悪いわけじゃねえだろ」
東条は首を横に振った。
「お前らが東陽を馬鹿にしたって話も聞いてる」
男は鼻で笑った。
「事実を言っただけだろ」
「事実?」
「東尾張連合の名前がなきゃ、何もできねえ連中だってことだよ」
神谷の表情が険しくなった。
しかし、東条は動かなかった。
「……そう思うなら、それでもいい」
男が眉を寄せる。
「何?」
「俺たちが何を言っても、お前の考えは変わらねえだろ」
東条は続けた。
「ただ、嫌がってる相手に無理やり話を押しつけるのはやめろ」
「何でお前に指図されなきゃいけねえんだ?」
「東陽の連中が困ってるからだ」
男は東条を睨んだ。
「……やっぱり東尾張連合が仕切ってんじゃねえか」
「違う」
東条は静かに答えた。
「俺たちは、助けを求められたから来た。それだけだ」
男はしばらく黙っていた。
やがて、口元に笑みを浮かべた。
「だったら、力で決めるか?」
神谷が一歩前に出た。
「お前……」
「神谷」
東条が制した。
男は笑った。
「何だよ。東尾張連合の頭が喧嘩もできねえのか?」
東条は男を見つめた。
「……喧嘩したいなら、理由を考えろ」
「何?」
「俺を倒したら東陽の連中が言うことを聞くのか?」
男は黙った。
「違うだろ」
東条は続けた。
「お前が勝とうが負けようが、東陽の連中が誰と付き合うかは、あいつら自身が決めることだ」
坂井は東条の背中を見つめていた。
男は舌打ちした。
「……面倒くせえ奴だな」
「よく言われる」
東条は小さく笑った。
その時、三河の生徒の一人がスマートフォンを取り出した。
「……あ、岡島さんからだ」
男が振り返る。
「何て?」
「東尾張で余計な揉め事起こすなって」
三人の表情が変わった。
東条はその様子を見ていた。
「岡島からか?」
「ああ」
男は不満そうに答えた。
「……今日は帰る」
「そうしてくれ」
男は坂井を見た。
「お前も、次は先に掴みかかってくんなよ」
坂井は拳を握った。
しかし、東条が何も言わずに見つめていることに気づき、ゆっくりと手を開いた。
「……そっちも、うちの学校を馬鹿にすんな」
男は答えず、仲間とともに立ち去った。
帰り道。
坂井はしばらく黙っていた。
やがて、東条に声をかけた。
「……東条さん」
「何だ?」
「俺、正直納得してないです」
東条は頷いた。
「だろうな」
「向こうは謝ってないし、俺だけ殴られて……」
「悔しいよな」
「……はい」
東条は歩きながら答えた。
「でも、今日仕返ししてたら、明日は向こうが人数集めて来たかもしれねえ」
坂井は黙った。
「そうなったら、お前だけじゃなく、東陽の他の奴らまで巻き込まれる」
「……」
「俺は、それが嫌なんだよ」
坂井は東条を見つめた。
「東条さんは、何でそこまでしてくれるんですか?」
東条は少し考えた。
「……昔の俺なら、今日ここで喧嘩してたかもしれねえな」
神谷が小さく笑った。
「間違いなくしてたな」
「うるせえよ」
東条も笑った。
しかし、すぐに真剣な表情へ戻った。
「俺も色々あって、考え方が変わったんだ」
坂井が尋ねる。
「色々って?」
東条は少しだけ笑った。
「……ある奴に負けた」
神谷は何も言わなかった。
坂井は驚いた。
「東条さんが?」
「ああ」
東条は空を見上げた。
「負けた時は、正直悔しかった。でも、そのおかげで気づいたこともある」
「……何ですか?」
「強いだけじゃ、守れねえものがあるってことだ」
坂井は黙って聞いていた。
「だから、お前も自分の学校を大事にしろ」
東条は続けた。
「ただし、東陽のために戦うことと、自分の腹いせで戦うことは違うからな」
坂井はゆっくり頷いた。
「……分かりました」
その夜。
東尾張工業高校の教室。
神谷は東条の隣で、今日の出来事を振り返っていた。
「……岡島が連絡を入れてなかったら、どうなってたと思う?」
東条は窓の外を見た。
「分からねえな」
「今川学園の中でも、考え方が違う奴がいるみたいだ」
「ああ」
東条は頷いた。
「遠藤や佐藤が何を考えてるのかは、まだ分からねえ」
神谷が腕を組む。
「ただ、末端の連中まで統制できてるわけじゃないってことか」
「そうかもしれねえな」
東条は静かに言った。
「……でも、油断はできねえ」
「分かってる」
神谷は頷いた。
「今川学園が本気で動けば、東尾張だけじゃ済まないだろうな」
東条は机の上に置かれた紙を見つめた。
東商高校。
東陽高校。
そして、東尾張工業高校。
それぞれの学校には、それぞれの考え方がある。
東条は、それを一つにまとめようとは思わなかった。
ただ、誰かが困っている時に助けられる関係でありたい。
それだけだった。
「……神谷」
「何だ?」
「相馬と久我山にも伝えといてくれ」
「何を?」
「今川の動きは引き続き調べる。でも、こっちから喧嘩は売らねえ」
神谷は頷いた。
「了解」
東条は窓の外へ視線を向けた。
「ただし、仲間が傷つけられた時は別だ」
その声には、静かな決意が込められていた。
東尾張連合。
かつて力で周囲を従わせようとした組織は、少しずつ変わり始めていた。
しかし、その変化を試すかのように、三河からの影は確実に近づいていた。
第64話 完




