第60話「南尾張の決意」
南翔高校。
放課後の空き教室には、十人ほどの男子生徒が集まっていた。
教壇の前に立つ高瀬宗介は、黒板に書かれた三つの学校名を眺めていた。
南浜高校。
南丘商業高校。
港南工業高校。
いずれも南尾張にある学校だった。
「……この三校で、三河の生徒が目撃されてる」
藤崎蓮が説明した。
「南浜では直接声をかけられています。南丘商業では校門の前にいたらしくて、港南工業では学校帰りの生徒に話しかけていたそうです」
高瀬は頷いた。
「怪我人は?」
「今のところ、いません」
「そうか」
その言葉に、高瀬は少し安心した。
しかし、教室の後ろにいた三年生の男子が口を開いた。
「高瀬、そろそろ俺たちも動いた方がよくないか?」
南翔高校三年の石原和樹。
高瀬とは一年生の頃から付き合いのある生徒だった。
「動くって?」
「向こうが南側の学校を調べてるなら、こっちも人数を集めておくべきだろ」
「喧嘩するためにか?」
「違う。何かあった時のためだ」
石原は真剣な表情だった。
「東条も城戸も三河の連中と会ったんだろ? このままだと、俺たちだけ何も知らないままになる」
高瀬は少し考えた。
「……確かにな」
藤崎が顔を上げる。
「じゃあ、南側の学校に声をかけますか?」
「ああ。ただし、勘違いするなよ」
高瀬は全員を見渡した。
「俺たちは南尾張の学校を支配してるわけじゃない」
石原が頷いた。
「分かってる」
「困ってることがないか聞く。それで、協力してほしいって言われたら協力する」
「向こうが断ったら?」
「それ以上は何もしない」
高瀬は迷わず答えた。
「俺たちが守るって言いながら、無理やり仲間に引き入れたら意味ないだろ」
教室にいた生徒たちは静かに頷いた。
藤崎が口を開く。
「じゃあ、俺は南浜高校に行ってきます」
「一人で大丈夫か?」
「はい。村井とも知り合いですし」
「分かった。俺もあとで行く」
石原が手を挙げた。
「俺は港南工業に行く。昔の知り合いがいるからな」
「頼む」
高瀬は黒板の学校名を消した。
「何かあったら、必ず連絡してくれ」
その日、南翔高校の生徒たちは、それぞれ別の学校へ向かうことになった。
南浜高校。
校門前で待っていた村井健太は、藤崎の姿を見つけると手を振った。
「藤崎さん!」
「悪いな、急に呼び出して」
「いえ、大丈夫です」
二人は近くの公園へ移動した。
藤崎が尋ねる。
「あれから三河の連中は来たか?」
村井は首を横に振った。
「来てないです。ただ……」
「ただ?」
「友達の一人が、ちょっと変なことを言われたみたいで」
藤崎の表情が変わった。
「何て?」
「今川学園と仲良くしておけば、南翔に頼る必要はなくなるって」
藤崎は黙った。
村井は続けた。
「別に脅されたわけじゃないんです。でも、なんか嫌な感じがして」
「誰が言ったか分かる?」
「名前は分かりません。ただ、昨日来た三人のうちの一人らしいです」
藤崎は頷いた。
「分かった。高瀬さんに伝える」
村井は少し俯いた。
「……藤崎さん」
「ん?」
「俺たち、どうしたらいいんですかね」
「どうしたらって?」
「今川学園って、三河じゃかなり大きいんですよね?」
「ああ、そうらしいな」
「もし南翔と今川が揉めたら、俺たちも巻き込まれるんじゃないかって……」
藤崎は言葉を探した。
簡単に大丈夫だと言うことはできなかった。
実際に何が起こるのか、藤崎にも分からない。
「……正直、俺も分かんねえよ」
村井が顔を上げた。
「え?」
「三河の連中がどこまでやるつもりなのか、まだ分からないからな」
藤崎はベンチに腰を下ろした。
「でも、一つだけ言える」
「何ですか?」
「南翔に協力するか、今川と仲良くするか、それはお前らが決めていいんだよ」
村井は黙った。
「俺たちに気を遣って決める必要はない」
「……いいんですか?」
「当たり前だろ」
藤崎は笑った。
「高瀬さんも同じこと言うと思うぞ」
村井はしばらく考えてから、口を開いた。
「俺、南浜の連中と話してみます」
「ああ」
「誰かに言われたからじゃなくて、自分たちでどうするか決めたいです」
藤崎は頷いた。
「それでいいと思う」
同じ頃。
港南工業高校の近くでは、石原和樹が三年生の柴田亮と話していた。
「……三河の連中か」
柴田は腕を組んだ。
「ああ。こっちにも来てるって聞いた」
「来たよ。二日前にな」
石原が尋ねる。
「何かされたか?」
「いや。学校の人数とか、南翔との関係を聞かれただけだ」
「それだけか?」
「今のところはな」
柴田は少し考えた。
「ただ、気になることは言ってた」
「何だ?」
「南側には、はっきりした代表がいないって」
石原は眉を寄せた。
「……どういう意味だ?」
「高瀬は南翔の代表であって、南尾張全体の代表じゃないだろってさ」
石原は黙った。
確かに、その通りだった。
高瀬は南翔高校の生徒たちから信頼されている。
他校にも顔が利く。
しかし、東条の東尾張連合や城戸の北陵会とは違い、南尾張全体をまとめる組織を作ったことはなかった。
「……それで、お前は何て答えた?」
石原が尋ねる。
柴田は笑った。
「別に代表なんかいなくても困ってねえって言ったよ」
「そうか」
「ただな、石原」
柴田の表情が真剣になった。
「今までみたいに、それぞれの学校が勝手に動いてて大丈夫なのかとは思った」
石原は答えられなかった。
「もし三河の連中が本気で南側に入ってきたら、俺たちはどうするんだ?」
その問いは、石原自身も考えていたことだった。
夕方。
南翔高校の空き教室に、藤崎と石原が戻ってきた。
高瀬は二人の報告を聞き終えると、しばらく黙っていた。
「……なるほどな」
藤崎が尋ねる。
「高瀬さん、どうします?」
高瀬は窓の外を眺めた。
「南側には代表がいない、か」
石原が頷いた。
「間違ってはいないんだよな」
「ああ」
高瀬は答えた。
「俺は南翔の生徒であって、南尾張の代表じゃない」
藤崎が口を開く。
「でも、他の学校からも頼られてるじゃないですか」
「それと代表になることは別だよ」
高瀬は椅子に座った。
「東条や城戸みたいに、大きな組織を作ろうと思ったことはないからな」
石原が尋ねる。
「じゃあ、これからも今まで通りか?」
高瀬はすぐには答えなかった。
これまで南側の学校とは、必要な時だけ協力してきた。
誰かが困っていれば助ける。
喧嘩が起これば仲裁する。
それで十分だと思っていた。
しかし、今は状況が変わりつつある。
「……一度、みんなで話してみようか」
藤崎が顔を上げた。
「みんな?」
「南浜、南丘商業、港南工業。それぞれの学校の奴らに集まってもらう」
石原が尋ねる。
「南尾張の連合でも作るのか?」
「いや」
高瀬は首を横に振った。
「いきなりそんなことはしない」
「じゃあ?」
「まずは、何に困っていて、どうしたいのか聞きたい」
高瀬は二人を見た。
「俺たちだけで南尾張の方針を決めるのは違うだろ」
藤崎は笑った。
「……分かりました」
石原も頷いた。
「俺から柴田に連絡しておく」
「頼む」
高瀬は立ち上がった。
「それと、三河の連中が来ても、勝手に手を出すなよ」
藤崎が答える。
「はい」
「話し合いで済むなら、それが一番いい」
石原が苦笑した。
「でも、向こうが聞く耳持たなかったら?」
高瀬は二人を見た。
「その時は、俺が前に立つ」
その声は穏やかだった。
しかし、二人には冗談で言っているようには聞こえなかった。
翌日。
南浜高校の村井のもとに、藤崎から連絡が届いた。
『今度、南側の学校で集まって話すことになった。南浜からも参加できる奴がいたら来てほしい』
村井は画面を見つめた。
隣にいた友人が尋ねる。
「何?」
「南翔の藤崎さんから」
「また三河の話?」
「うん。でも、今度は俺たちの意見も聞いてくれるらしい」
友人は少し考えた。
「……行ってみる?」
村井は頷いた。
「行こう」
同じ頃、港南工業の柴田も石原からの連絡を読んでいた。
南丘商業にも、同様の話が伝わっていた。
これまで別々に過ごしてきた南尾張の学校が、初めて共通の問題について話し合おうとしていた。
誰かに従うためではない。
誰かを倒すためでもない。
自分たちの学校を、自分たちで守るために。
その日の放課後。
高瀬は南翔高校の屋上にいた。
遠くには、住宅街と幾つもの学校の校舎が見える。
藤崎が屋上へ上がってきた。
「高瀬さん、三校とも参加してくれるそうです」
「そうか」
高瀬は笑った。
「よかった」
「ただ、港南工業の柴田さんが、一つ聞きたいことがあるって」
「何だ?」
「もし南側の学校が協力することになったら、誰がまとめるんですかって」
高瀬は少し考えた。
「……それも、みんなで決めればいいんじゃないか?」
藤崎は驚いた。
「高瀬さんがやるんじゃないんですか?」
「俺がやるべきだと思うなら、そう言ってくれるだろ」
「でも……」
「藤崎」
高瀬は静かに続けた。
「大事なのは、誰が一番偉いかじゃない」
藤崎は黙って聞いていた。
「何かあった時に、互いに助けられる関係を作ることだ」
「……はい」
高瀬は南尾張の街を見渡した。
三河の今川勢が、何を考えているのか。
遠藤道流が、どこまで尾張に関わろうとしているのか。
まだ分からないことは多い。
それでも、ただ待っているだけではいけない。
「俺たちも、そろそろ変わらないとな」
高瀬が呟いた。
藤崎はその横顔を見た。
「……そうですね」
夕暮れの空の下、南尾張の学校たちが動き始めていた。
その小さな動きが、やがて尾張全体を巻き込む大きな争いにつながっていくことを、まだ誰も知らなかった。
第60話 完




