第55話「佐藤健の分析」
午後六時三十分。
三河、今川学園。
校舎三階の空き教室で、佐藤健は一冊のノートを広げていた。
机の上には、尾張周辺の地図と数枚の資料が置かれている。
ノートには、これまで調べた学校名と、その中心人物が書き込まれていた。
東尾張連合――東条雅人。
北陵会――城戸圭吾。
南翔高校――高瀬宗介。
そして、秋山天馬を中心とした五人組。
佐藤はペンを止めた。
「……思っていたより、複雑ですね」
その時、教室の扉が開いた。
「おーい、佐藤。まだやってんのか?」
入ってきたのは岡島秀太だった。
その後ろから朝比奈優吾も姿を見せる。
「お疲れさまです」
佐藤が顔を上げる。
岡島は机の上の資料を見た。
「うわ、すげえ量だな」
「二人が集めてくれた情報を整理していました」
朝比奈が椅子を引いた。
「秋山の件、報告は読んだか?」
「はい。ただ、直接聞いておきたいことがあります」
「何だ?」
佐藤はノートを開いた。
「秋山天馬は、本当に勢力を広げるつもりがないんでしょうか?」
岡島が答える。
「本人はそう言ってたぞ」
「そうですか」
「疑ってんのか?」
「いえ。むしろ本当なら、興味深いと思いまして」
岡島は首を傾げた。
「何が?」
佐藤はペンを置いた。
「東尾張連合の東条雅人を倒したのに、支配地域を引き継ごうとしていないことです」
朝比奈が頷く。
「確かに、普通なら名前を売るいい機会だな」
「そうなんです」
佐藤は地図の中央を指差した。
「秋山たちが東尾張連合を吸収していたら、尾張の勢力関係は大きく変わっていたでしょう」
岡島が笑った。
「でも、あいつは興味ねえってさ」
「なら、現時点では積極的に争う必要のない相手ですね」
佐藤はノートに書き加えた。
岡島がその文字を覗き込む。
『秋山天馬――仲間への攻撃に対して反応する可能性が高い』
「……何だこれ?」
「秋山が戦う条件です」
佐藤は答えた。
「岡島さんの報告では、仲間が巻き込まれた場合は必ず動くと答えたそうですね」
「ああ」
「つまり、こちらが彼の仲間に危害を加えなければ、すぐに敵対する可能性は低い」
朝比奈が腕を組んだ。
「逆に言えば、仲間が巻き込まれたら厄介ってことか」
「そうですね」
佐藤は頷いた。
「ただ、まだ五人全員の実力が分かっていません」
岡島が椅子にもたれた。
「俺が見てきてやろうか?」
「喧嘩をするのは駄目ですよ」
「分かってるって」
朝比奈が苦笑した。
「昨日も同じこと言ってたな」
「うるせえな」
佐藤は次の資料を取り出した。
「それより、東尾張連合についてです」
岡島が顔を向ける。
「東条のところか」
「はい。最近、強制的な勧誘をやめたそうです」
朝比奈が頷いた。
「俺も聞いた」
「それによって所属人数が減っています。ただし、主要幹部は全員残っています」
佐藤は名前を読み上げた。
「東条雅人、神谷亮介、相馬恭介、久我山慎吾、三枝圭介」
岡島が言った。
「相馬って、水原に勝った奴だろ?」
「そうです」
「なら、東尾張連合もまだまだ強そうだな」
佐藤は頷いた。
「人数が減ったからといって、簡単に崩せる組織ではないでしょう」
朝比奈が尋ねる。
「じゃあ、北陵会は?」
佐藤は地図の北側を指差した。
「城戸圭吾を中心に、比較的まとまっています」
「水原と片瀬が勝手に動いたんだろ?」
「はい。ですが、城戸が直接止めています」
佐藤は続けた。
「重要なのは、城戸が東側への進出を諦めていないことです」
岡島が眉を寄せる。
「まだ狙ってんのか」
「そう考えるのが自然です」
「東条とまた喧嘩になるかもしれねえな」
「可能性はあります」
佐藤はノートに二本の線を引いた。
東尾張連合と北陵会。
その間に、対立を示す印を書き込む。
「この二つは、今後も衝突する可能性が高いですね」
朝比奈は地図を眺めた。
「南翔高校はどうなんだ?」
「高瀬宗介ですね」
佐藤は別の資料を開いた。
「彼は自分から勢力を広げようとはしていません。南側の学校を守ることを優先しています」
岡島が笑った。
「秋山と似てるな」
「一部は似ています」
佐藤は答えた。
「ただ、高瀬はすでに複数の学校と関係を持っています。秋山たちとは規模が違います」
朝比奈が頷く。
「つまり、南側に手を出さなきゃ動かない?」
「おそらくは」
佐藤は少し考えた。
「ですが、尾張全体で大きな争いが起きれば、静観するとは限りません」
岡島は地図を見つめた。
「なあ、佐藤」
「はい」
「結局、尾張で一番強いのは誰なんだ?」
佐藤は顔を上げた。
「分かりません」
「即答かよ」
「実際に全員が戦ったわけではありませんから」
佐藤は冷静に答えた。
「秋山は東条に勝っています。しかし、城戸との勝負は行われていません」
「東条と城戸は?」
「決着がついていません」
「高瀬は?」
「戦闘能力について、信頼できる情報が不足しています」
岡島は頭をかいた。
「……何も決まってねえじゃん」
「そういうことです」
朝比奈が笑った。
「だから調べてるんだろ」
「まあ、そうだけどよ」
佐藤はノートを閉じた。
「それに、誰が一番強いかだけで判断するのは危険です」
岡島が尋ねる。
「何で?」
「個人の強さと、組織同士の戦いで勝てるかどうかは別だからです」
佐藤は地図を指差した。
「仮に秋山が尾張で最も強かったとしても、五人だけで数十人を相手にするのは難しいでしょう」
朝比奈が頷いた。
「確かにな」
「逆に、個人の実力が多少劣っていても、人数や連携で勝てる場合があります」
岡島は腕を組んだ。
「……なるほどな」
佐藤は続けた。
「ですから、僕は各勢力の人数、連携、指揮系統、それから中心人物の考え方を調べています」
「全部必要ってことか」
「はい」
佐藤は静かに頷いた。
「尾張を相手にするなら、力任せではいけません」
午後七時。
岡島と朝比奈が帰ったあとも、佐藤は教室に残っていた。
ノートの最後のページには、尾張の勢力関係が整理されている。
佐藤は改めて目を通した。
東尾張連合。
北陵会。
南翔高校。
秋山天馬の五人組。
それぞれに強みがあり、弱点もある。
だが、一つだけ共通していることがあった。
「……どこも、簡単には従わないでしょうね」
佐藤は小さく呟いた。
その時、教室の扉が開いた。
「まだ残っていたのか」
佐藤が振り返る。
入口に立っていたのは、中本泰史だった。
今川学園の二年生。
三河の不良たちをまとめる組織の中心人物の一人である。
「中本さん」
佐藤は立ち上がった。
「お疲れさまです」
「そんなにかしこまるなよ」
中本は笑った。
「尾張の調査、進んでるらしいな」
「はい。おおよその状況は把握できました」
中本は机の上の地図を見た。
「……ずいぶん細かいな」
「まだ足りない部分もあります」
「遠藤さんには報告したのか?」
「これからです」
中本は頷いた。
「そうか」
そして、佐藤の向かいに座った。
「なあ、佐藤」
「はい」
「俺たちは、本当に尾張へ進出するのか?」
佐藤は少し黙った。
「それは遠藤さんの判断です」
「……だよな」
中本は地図を眺めた。
「俺たちのところだって、まだ全部まとまってるわけじゃないのにな」
佐藤が顔を上げる。
「何か気になることがあるんですか?」
「いや」
中本は首を横に振った。
「ただ、尾張の連中が黙って従うとは思えなくてさ」
佐藤は頷いた。
「僕もそう思います」
「だったら、結構大変だぞ」
「はい」
佐藤は落ち着いた声で答えた。
「だからこそ、今のうちに調べておく必要があります」
中本は少し笑った。
「……お前、やっぱり一年には見えねえな」
「そうですか?」
「ああ。俺よりよっぽど落ち着いてる」
佐藤は苦笑した。
「そんなことありませんよ」
中本は立ち上がった。
「遠藤さん、まだ学校にいるぞ」
「分かりました」
「報告するなら、一緒に行こうぜ」
佐藤はノートと資料をまとめた。
「お願いします」
二人は教室を出た。
今川学園、三年生の教室。
廊下の奥にある扉の前で、中本が足を止めた。
「遠藤さん、入りますよ」
「ああ」
中から声が返ってきた。
中本が扉を開ける。
窓際の席に、一人の男子生徒が座っていた。
遠藤道流。
今川学園三年生。
三河の不良たちをまとめる中心人物だった。
遠藤は二人を見た。
「佐藤、調査は終わったか?」
「はい。現時点で分かっていることをまとめました」
佐藤は資料を差し出した。
遠藤は受け取り、ゆっくりと目を通した。
しばらくして、一つの名前に目を止める。
「……秋山天馬」
「はい」
「東条雅人に勝った二年生か」
「そうです」
遠藤は資料を机に置いた。
「尾張には、面白い奴が多いみたいだな」
中本が尋ねた。
「遠藤さん、これからどうするつもりですか?」
遠藤は二人を見た。
「まずは、もう少し話を聞こう」
「直接ですか?」
「ああ」
遠藤は頷いた。
「尾張の連中が何を考えてるのか、本人たちから聞いてみたい」
佐藤が尋ねる。
「誰に会うつもりですか?」
遠藤は地図に目を落とした。
そして、東側の学校が集まる場所を指差した。
「まずは東条雅人だ」
佐藤は頷いた。
「分かりました。連絡を取ってみます」
遠藤は椅子から立ち上がった。
「無理に呼び出す必要はない。向こうが断るなら、それでも構わん」
「承知しました」
遠藤は窓の外を見た。
「……尾張か」
その声は静かだった。
三河の不良たちを率いる遠藤道流。
彼が尾張へ関心を向け始めたことで、これまで地域ごとに続いていた争いは、新たな局面を迎えようとしていた。
第55話 完




