9話 ヒーローの美しさでしか得られない栄養がある
「リリエンタール看護少尉、止まれ!」
後ろから厳しい声が聞こえて、ヴァルブルガは反射的に振り返り敬礼をした。しかし、自分を呼び止めた人物がエメリヒであると気づくと思わず「あっ」という顔はしてしまった。
すぐに取り繕ったが、相手にもヴァルブルガは一瞬反応した様子を気づかれたかもしれない。
(いやいや、大丈夫。アルベルトの部下の人は数回会ったきりだし、私も変わっちゃてるし!)
なんとかそう言い聞かせて落ち着こうとした。
「ごめんね、急に呼び止めちゃって。聞きたいことがあるんだけど」
エメリヒは微笑んでいた。「アルベルトの元妻のヴァルブルガさんですよね?」と聞かれるのではないかとヴァルブルガは戦々恐々としていた。
「なんでしょうか。イェーガー大尉殿」
必死にエメリヒがヴァルブルガの顔を覚えていないことを祈った。
「サラマンダー作戦って誰から聞いたの?」
エメリヒは人好きするような爽やかな笑みを浮かべていたが、目だけは笑っておらずヴァルブルガをずっと射抜いていた。直感的に自分が何かまずいことをしてしまったのだと分かった。
「風の噂で…」
ヴァルブルガが答えるとエメリヒは「ふーん」と笑みを崩さなかった。
「そのコードネームは極秘作戦のものなんだ。なんで君が知ってるのかな? 噂の出所は?」
笑みを浮かべながら、エメリヒはじりじりと近づいてくる。エメリヒが近づいてくるので、ヴァルブルガが無意識にじりじり下がっていた。しかし「逃げるなよ」と腕を掴まれる。
「誰が言った?」
エメリヒの目は見開かれて、獰猛な獣のようになっている。
「捕虜から聞いたのかもしれません。すいません、あまり覚えていなくて。でも私の誤訳かもしれません」
ヴァルブルガの言葉を聞いて、エメリヒの笑顔が剥がれた。
「やっぱり女は嘘つくとき相手の目を見るんだな。あ、今唾飲み込んだでしょ。瞬きの回数も多いね」
ヴァルブルガはまるで心理学者…いや、プロファイラーと対峙しているような感覚がした。ヴァルブルガの無意識の行動に意味を見出し、嘘を見抜く。
サラマンダー作戦は小説の中では極秘でも何でもなく、周知されていたが、バタフライエフェクトが起こってしまったこの世界ではユウカは参加しておらず、極秘作戦になってしまったのだろう。
(どうしよう…。前世の記憶ですって言っても絶対に信じてもらえない)
最悪、頭がおかしくなったと思われるだろう。せっかく看護婦になったのに自分が患者になってしまう事態だけは避けたい。ヴァルブルガは自分にスパイ容疑がかかっていく状況を打破する考えが思いつかなかった。多言語を話せるということがここで不利に働くなんて。
「話を聞かせてよ。言っとくけど拒否権はないからね」
エメリヒはもう笑顔を取り繕っていなかった。嘘でも油断させやすそうな優しい笑みはなく、瞳には疑惑が浮かんでいた。エメリヒが掴む力を強めたような気がした。
「私、爪でも剥がされるんですか」
ヴァルブルガが尋ねるとエメリヒは暗い笑みを浮かべた。それを見て、先程までのわざとらしい笑顔はこの人の素ではなかったことを思い知らされる。
「何言ってるの。俺はご婦人を上官とのお茶にエスコートしてるだけだよ」
腕は強く掴まれていたから、これはエスコートと言うより連行だった。それでも女だからと優しくされているのだろう。自分が処刑台へ歩みを進めているのに、ヴァルブルガの意識はどこか他人事だった。
エメリヒがヴァルブルガのことを既婚者だと知っているということは、リリエンタール看護少尉とアルベルトの妻ヴァルブルガが同一人物だと気づいているのだろう。
ヴァルブルガは司令官の執務室まで連れてこられた。椅子にはアルベルトが座っていて、こちらを見ていた。
「ヴァルブルガ」
アルベルトは思ったより優しい声を出した。もうばれていることは明白だが、責められるとばかり思っていたヴァルブルガは少し拍子抜けしてしまった。
「掛けてくれ」
アルベルトがそう言うとエメリヒはヴァルブルガの腕を離した。ヴァルブルガは恐る恐るアルベルトの正面に座る。
「お茶請けに甘いものはいかがですか、ご婦人。あいにく茶葉を切らしてましてコーヒーしか出せませんが」
エメリヒが微笑みを浮かべて、コーヒーの準備をする。ヴァルブルガは一応は上官に当たるエメリヒにコーヒーの準備をさせるのが申し訳なかった。
(あれ… 拷問じゃなくて、本当にお茶するだけ?)
ヴァルブルガの前に蔓草模様のコーヒーカップに注がれた黒いコーヒーと、チョコレート菓子が置かれる。コーヒーのほろ苦い豊かな香りの中に、クローブのような香辛料の香りがした。口に含むと真っ黒な液体から出てくる華やかな辛味が鼻に抜ける。
コーヒーもチョコレート菓子も戦争になってから一度も口にしたことがなかった。
「美味しい…」
思わず呟くと、アルベルトは「それはよかった」と微かに笑った。腹の底にじんわり響くようなバリトンボイスで耳が幸せだった。こんな状況じゃなければもっと聞いていたいのに。
「どうして前線にいる」
アルベルトが尋ねるが、その声には責めるような色がなかった。
「本当は軍病院勤務だったけど、戦線の混乱でいつの間にか前線配置になってました」
わずかに手が震える。手に持っていたコーヒーカップもカタカタと震えた。
「どうして家を出た」
アルベルトのその言葉は、妄想かもしれないがどこか心配しているような空気があった。
「医療に従事したいという夢があったから」
「そうか。なら屋敷にいるのは随分と退屈だったろうな」
アルベルトは責めているというよりも「なぜ一言も相談してくれなかったんだ」と言っているように聞こえた。前世のことも小説のことも話してしまえるなら、あのままだと死んじゃう運命だったから離婚して家を出ていったと言えるのに。
しかし、今アルベルトには「外に働きに出たかったけどあなたが許してくれなさそうだから家を出ました」という風に誤解されてしまっているような気がした。
(あなたにはユウカというヒロインがいるのよ!)
ヴァルブルガは邪魔なだけだ。ユウカとの関係を邪魔するつもりはないと敵意はないことを示さなければ。
「サラマンダー作戦について知っていることを全て話せ」
アルベルトの瞳の温度が下がったような気がした。声は優しいままだが、氷のような冷たさが同居している。鷹のような猛禽類の鋭い瞳がヴァルブルガを見つめていた。
やっぱり顔がいい。美術館に飾られるべきだ。ユウカと並んだらそれはもう絵画だろう。いや、彫刻のような端正な美しさでもあった。今の状況がただ無心でアルベルトの美しさを鑑賞できる時間だったらいいのに。
「本当に何も知らないんです。そういう名前の作戦があった…としか」
ユウカが参加していないとなると小説にさらっと書かれた占領地と捕虜の奪還作戦の内容は現実には起こっていないのだろう。
給仕を終えた後、座らずにアルベルトの後ろに控えていたエメリヒがトランクを開いた。中には薬品と思われる瓶などが並んでいた。その中からエメリヒは注射器を取り出す。
「看護婦さんなら見慣れてますよね。中に何が入っているかわかりますか」
ヴァルブルガは注射器を見つめた。採血や最近ではモルヒネを投与することが多い。
「筋弛緩剤とかですかね…」
ヴァルブルガは「あはは」と薄い笑いを浮かべる。
「残念、はずれ。正解はね、軍が開発した真実の血清という、いわゆる自白剤かな」
またエメリヒが暗い笑みを浮かべた。この人は嘘を見破るというか人を尋問するのが趣味なのかもしれない。絶対に楽しんでいる。
エメリヒが上着を脱いで、ヴァルブルガに被せて袖を縛る。ヴァルブルガの視界は真っ暗になった。
「何を…!」
ヴァルブルガは戸惑って上着を外そうと腕を動かそうとしたが、がっちりと掴まれてしまって動かせなかった。
「動くな。針が折れちゃったりしたら危ないし、ちょっとショッキングだろうから視界を塞いだのは優しさだよ」
恐怖で体が硬直してしまった。捲られた袖の感触と、腕に注射針が刺さる感触がする。
「話してくれ、ヴァルブルガ。あなたが嘘を吐き続けられるような器用な女じゃないことは私がわかっている」
アルベルトの優しい声が響く。ヴァルブルガは恐怖で体が震えた。自白剤を打たれてしまった。どうしようと頭の中がぐちゃぐちゃににる。
前世と今世の記憶が混ざり合って、記憶の断片が浮かんでは消える。凄まじい寒さの冬の空、冷たい土、十字架、鉄条網、父の後ろ姿。
「スパイじゃないです。敵国の言葉を話す私を信じてもらえないかもしれませんが、この国のために命を捨てる覚悟です。忠誠を誓います! 私は自分から志願して前線に残りました。私は敵じゃないって信用してもらう為に」
涙が溢れてきた。エメリヒの上着を涙で汚してしまい申し訳ないという気持ちが膨らんだ。恐怖が身を包んでいた。
「サラマンダー作戦は、聖女のユウカが活躍するって…前世の記憶…予知夢…神様からお告げがあったんです」
「内容は」
アルベルトが耳元で囁いた。
「占領地と捕虜の奪還作戦だって…。ユウカが兵士たちの士気を上げるって…」
詳しいことは小説には書いていなかった。何々戦線だとか、どの部隊がどこにいるだとか、そう言った泥臭い戦記のような情報は書かれなかった。女性向けライトノベルの体裁を保つために。だから、これ以上はヴァルブルガは何も知り得なかった。
「助けて、お父さん! お父さん! お父さん!!」
雨が降っているような気がした。涙で視界が滲んでいた。遠くから「これじゃ、俺たちが悪いことしてるみたいですね」というエメリヒの声が聞こえた。そして腕に刺さっていた注射針の感触が消えて、視界が明るくなった。
「全部、でたらめだな」
アルベルトが低い声でそう言った。ヴァルブルガは全て正直に話してしまった。それを信用されないならもうどうしようもなかった。絶望が身を包んで涙と震えが止まらなかった。
「私は全部正直に話しました」
ヴァルブルガは震える声で喋った。
「いや、サラマンダー作戦の内容が全部でたらめだった。サラマンダー作戦は立案されたが却下された幻の作戦だ」
情報が漏洩しても漏れた場所がわかるように、一部の上層部以外、サラマンダー作戦やケルベロス作戦と言ったように名前や内容を変えて通達されているらしい。
「身辺調査の結果も怪しいところはなかったですし、直属の上官や同僚たちからは、ピストルで自動車を止めて負傷者を救出した功績から勲章に推挙されてます」
エメリヒはもう暗い笑みを浮かべていなかった。
「でたらめの情報をつかまされて残念でしたね。でも、ボツにされた作戦ですからこれで被害がでたわけではありませんし。それにしても、よくよく考えてくださいよ。ユウカとかいう人を殺したこともなさそうな、お嬢さんを作戦に参加させるとか正気じゃないですよ」
エメリヒの言葉で、ヴァルブルガが前世できゅんきゅんと胸をときめかせながら読んでいた小説が「正気ではない」と一蹴されてしまった。
「将官夫人ですし、神様のお告げとやらと戦場で錯綜していた情報で混乱してしまった…ということにしておきます。ご婦人、怖い思いをさせて申し訳ありませんでした」
ヴァルブルガはエメリヒの笑顔を見てもう誰の笑顔も信じられないかもしれないと思ってしまった。




