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10話 悪妻は執着に気づかない

 ヴァルブルガは涙を止めた後に申し訳なさそうにエメリヒに上着を返した。自分が自白剤で喋ってしまったことがいまだに信じられないようではあったが、もう震えは止まっていた。


 スパイ容疑が一応は晴れたことに安堵しているだろう。ヴァルブルガが後方の病院に転属になったと告げたときに、彼女が頑固に前線を志望するので少々揉めたという報告がシューマン大尉から上がってきていた。


 アルベルトはヴァルブルガを戦場から遠ざけたかったが、医療に従事したいという彼女の夢を聞いてしまった今、後方の安全地帯に送ることで妥協した。このご時世、医療従事者は徴用されてしまう。


 それならせめて、軍属でアルベルトの力が及ぶ範囲にいて欲しかった。


 「ヴァルブルガ」

 

 ヴァルブルガが部屋を出て行こうとするのをアルベルトは呼び止めた。


 「はい、なんでしょう」


 先程尋問されたばかりだからか、小動物のようにびくびくと震えていた。彼女はただでさえ小柄なのに戦場に来てから痩せてしまって、腰を抱いたら折れそうだった。


 初夜の時も壊してしまわないか、心配で硝子細工を扱うかのように丁寧に優しくした。それでも痛がって、どうやら夫婦生活に苦手意識を抱いてしまいそうだったので、彼女が落ち着くまでは無理強いはしないと慎重にことを運んでいた。


 それなのに、アルベルトが待っている間にヴァルブルガは離婚届を置いて出て行ってしまった。これならもっと愛の言葉を惜しまず、逃げられないようにしておくべきだった。


 アルベルトはポケットから金の指輪を取り出し、ヴァルブルガの指に嵌めた。彼女が離婚届とともに置いていったものである。


 「これは…もう、私にはつける資格がないんです」


 ヴァルブルガは申し訳なさそうに眉を下げた。ヴァルブルガはアルベルトが離婚届を破り捨てたなんて想像もしていないのだろう。それほどまでに妻に愛情を伝えていなかった自分に怒りが湧いてきた。


 「戦場にいる間だけでもつけてくれ。身の安全のためだ」


 兵士たちはヴァルブルガが通るだけで姿勢を正す。兵士たちに彼女を見る目の奥に欲が宿っている。指輪にはロズベルグ家の家紋である薔薇の紋章が彫られている。代々ロズベルグ家の女主人に受け継がれるもので、指輪をしていれば一目で既婚者だとわかるし、紋章を見ればアルベルトの女であることがわかるだろう。


 「…わかりました。でも、この指輪を本当に必要としているのは…ユウカじゃありませんか?」


 ヴァルブルガは目を潤めながら、アルベルトを見つめていた。ヴァルブルガも従軍聖職者として戦場に来たユウカが兵士たちからどんな目で見られているのか、知っているのだろう。

 

 アルベルトも聖教会から預けられた、異邦人の少女が従軍娼婦と間違われないように、いつもユウカには部下をつけていた。


 「それはお前のものだ」


 エメリヒさえこの場にいなかったら、首筋に噛み跡くらいつけて周りを牽制したかったが仕方がない。ヴァルブルガに必ず指輪をつけるように念押しして帰した。


 夜になれば補給部隊が駆けつける予定なので負傷者と一緒にヴァルブルガを後方の野戦病院に移送できるだろう。


 ヴァルブルガが帰ると執務室には思い沈黙が落ちた。


 「エメリヒ、ヴァルブルガの腕から少し血が出ていた。もう少し上手くできなかったのか」


 アルベルトはいつも飄々としている副官を見つめた。エメリヒはアルベルトの母校、諜報などを教え込む情報機関の軍学校の後輩であった。アルベルトが屠殺者という異名を獲得したのはこの優秀な副官のおかげでもあった。


 「いや、上手くやってたでしょ。飴と鞭、良い警察官と悪い警察官。綺麗にはまりましたね」


 注射器の中身は自白剤などではない。ただの栄養剤である。時にはただのコーヒーでさえ自白剤のような効果をもたらすことがある。自白剤を使用するには外界から遮断して、眠らせず飢えさせた極限の状態にするのが一般的だ。


 ヴァルブルガは最初に自白剤を見せられることで、強烈なイメージを植え付けられた。そして自白剤を打たれてしまったと思い込むことで、喋ってしまったというわけだ。


 「それにしても、前世の記憶、神のお告げ…か」


 アルベルトは熱心な聖教会の信者というわけではない。一応、代々敬虔な信者の家系だから信仰しているがかなり世俗的な方だろう。


 ユウカが奇妙な現れ方をしたというのはある程度信じても良いかもしれない。ユウカはフリードリヒ帝国人の特徴ではない容姿をしているし、ただ聖域に立ち入った一般人だった場合、帝室も聖教会もあそこまで騒がないだろう。


 「予言通り聖女が現れたんだから、神のお告げもあるかもしれませんね」


 エメリヒが顎を撫でながら思案しているようだった。国防の最前線にいる軍人たちが「予言通り聖女が現れたから、彼女がきっと国を救ってくれるはず」と盲目に信じてはいけない。


 アルベルトはユウカが国を救うなどとは一切信じていなかった。きっと国を救うのは無数の国民たちの団結である。たった一人の少女が国を救うのは荒唐無稽だし、一人に責任を押し付けているように思えてならない。


 ただ、問題なのはヴァルブルガが予言を信じてしまっているということだ。前線の疲弊した兵士たちは何かに縋りたくなるのかもしれない。ヴァルブルガの精神状況を思い、やはり彼女を前線に留めた兵士たちが恨めしくある。


 血と硝煙の匂いなど彼女に知ってほしくはなかった。花と香水の甘い軽やかな香りに包まれて、残酷なことは何も知らないでいて欲しかった。


 エメリヒの言った通りヴァルブルガは医療従事者の勲章に推挙されている。そのため彼女の──リリエンタール看護少尉としての活躍がアルベルトのもとにも届いていた。


 衛生兵に混じって銃弾が飛び交う中、負傷者を這って救出したこと。衛生班に所属する救護のための軍用犬シェパードが負傷者を救出に向かったが撃ち殺された際に、ヴァルブルガは帽子を脱いで立ち上がり、大声を上げながら負傷者に近づき、負傷者を救助したという。


 その間、銃声は鳴らなかったそうだ。女が戦場にいるという異常が敵の判断を鈍らせたのだろう。彼女は「女が立ち上がった」というところを見せて、味方の士気を高めた。


 他にも、包囲されそうになったときに拳銃で脅して自動車を止めさせ多くの負傷者を救い出したこと。ヴァルブルガの仕事は献身的で慈悲深く多くの兵士たちが母性や恋情を彼女に抱いていることは容易に想像がついた。


 アルベルトは自分の中の薄汚い独占欲が膨れていくのを感じていた。彼女が愛国的に仕事を行う様に、誇らしさと彼女がやりたいことをやらせてやれなかった罪悪感があるのと同時に、戦場で看護婦なんて辞めてしまえと思う。


 どうして今が平時ではないのだろうかと情勢を恨みたい気持ちもある。ヴァルブルガが多くの兵士たちの目に留まるのが嫌だった。優しく手を握って痛みが引くように慰めてやる。妻がそういったことを、自分以外の人間にやっていることに嫉妬してしまう。


 ここは女に飢えた戦場で、ヴァルブルガが兵士たちの汚い欲望に晒されていることが耐え難かった。


 指輪をまさかユウカに必要だと言うとは思っていなかった。ユウカにも彼女が望まぬ結果にならないように、気を遣っている。

 

 ヴァルブルガは同じ女としてユウカが欲望に晒されて危険だと感じているのに、なぜ自分も同じく危険な立場にいることに気づかないのだろう。彼女の笑みや優しさがどれだけの人間に勘違いされているのか無自覚だ。


 ちょっとふわふわしたところがあるとは思っていたが、危機感がなさすぎる。アルベルトはヴァルブルガの姿を思い返しながらため息を吐いた。

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