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後日談 それでも愛している

 「ええ…はい。わかりました」


 ユウカが廊下を歩いていると、ヴァルブルガが受話器の前に立っていた。彼女はため息を吐きながら、複雑な表情で受話器を置いた。


 見慣れたものよりもかなりアンティークな木製の壁掛け電話はダイヤルを回すのが楽しいが、ユウカ自身は電話をかける相手がいないから、あまり使ったことはない。


 「ヴァル、どうしたの? 落ち込んでいるみたい」


 ユウカが声をかけると、ヴァルブルガはハッとしたように頬に手を触れた。自分の顔色の悪さを見抜かれたことに驚いているようで、化粧のチークを入れ忘れたのかと心配したようだ。


 「大したことではないの。ただ今日、お客様がいらっしゃるからユウカにも事前に伝えておかなきゃならないわね」


 「へー。どんなお客様が来るの?」


 ユウカはこの屋敷に世話になっている身として、積極的にヴァルブルガの女主人としての仕事を手伝っていた。例えばテーブルクロスやカーテンの色、銀食器はどんなものを使うか、献立はどうするかシェフと相談したり、花はどういったものを飾るか。


 アルベルトもヴァルブルガも優しいからメイドのようなことはしなくていいと言ってくれるが、何もしないでいるのが嫌で手伝っている。ヴァルブルガの相談に乗るのが主な役目だが。


 「私の母が疎開先から首都に戻ってくるの。終戦後のごたごたで忙しくて、会えていなかったから。ここに寄るそうなの」


 「ヴァルのお母さんかぁ! 楽しみだね」


 ユウカは笑ったが、ヴァルブルガは「ええ、そうね」と言いながらも顔は暗いままだった。


 「あれ? あんまり、楽しみじゃない…?」


 ヴァルブルガの表情から何か間違ってしまったのかユウカは不安になる。


 「母は私が志願して戦場に行ったことを怒っていたから。それに…ちょっと難しい人だし」


 「そう…なんだ…」


 あまり親子関係が良くないのかもしれない。ユウカも母とは何度も喧嘩したことがあるが、やはり子を愛していない親などいない気がする。でも、どうやらヴァルブルガの事情は複雑そうなので深くは聞かないことにした。


 ヴァルブルガの母は昼食を一緒に取るために屋敷に寄る。玄関前にはタクシーが停められて、中からファーのついた豪奢な外套を着て、真っ赤なルージュを引いた女の人が出てきた。


 髪の色はヴァルブルガと同じく黒で、顔立ちもどことなくヴァルブルガに似ている。顔には深い皺が刻まれていたが、若い頃には今のヴァルブルガに似て美人だっただろうことが予想できた。


 「ヴァリューシャ! 少し痩せたんじゃないの。でも元気そうでよかったよ」


 ヴァルブルガの母はヴァルブルガの姿を見つけると駆け寄ってきて、齧り付くようなキスの雨をヴァルブルガの頬に降らせた。


 挨拶にキスをする文化圏からやって来ていないユウカにとってはちょっと衝撃的だった。ヴァルブルガは嬉しそうに、しかしユウカの目の前で行われていることにちょっと気まずそうにしていた。


 「義母上、お久しぶりです」


 ヴァルブルガの母は隣に立っていたアルベルトとも軽いチークキスを交わしていた。一通り挨拶が終わると、ヴァルブルガの母はユウカに視線を向けた。この屋敷に世話になっている身として、挨拶しなければとユウカは握手のために手を差し出そうとした。


 「ヴァリューシャ、新しくメイドを雇ったの? だめよ、アシーム人は手癖が悪いのよ。私の近所の奥さんはこんな黄色い猿を雇ったから宝石を盗られちゃったのよ」


 ユウカはその言葉に固まってしまい、手を引っ込めた。この世界に来てからこんなにあからさまに侮辱されたのは初めてだった。


 戦場でも、従軍娼婦と間違えられないようにとアルベルトやエメリヒが気を遣ってくれていた。やはりそういう噂が流れているのではと思っていたが、実際に耳に入ることはなかった。


 「お母さんやめて。彼女はメイドじゃなくて、私の友人で屋敷に滞在してもらっているの。それに彼女は盗みなんて絶対にしないし、アシーム人差別もやめて。 それに彼女は日本人よ」


 「ニホン? どうせ小国でしょう?」


 ヴァルブルガの母の言葉に、アルベルトは眉間に皺を寄せ、ヴァルブルガは悲しそうにした。そして早く食堂に行くように、それとなく案内していた。ヴァルブルガは通り過ぎる時、小声で「ごめんなさい」とユウカに伝えた。


 「ユウカ、大丈夫か」


 ヴァルブルガとその母が食堂に入って行ったあと、アルベルトが気を遣って尋ねてくれる。


 「私は大丈夫。ヴァルのお母さんって、ちょっと強烈だね…」


 他人の母親を悪くいうこともできなくて、ユウカはかなりマイルドな表現を使った。「すまない」とアルベルトは真摯に謝罪してくれた。


 この世界はユウカがいた世界より文明のレベルが低いので、きっとまだ人種差別も根強く残っているのだろう。そう思って納得した。


 食堂では、ユウカも客人としてヴァルブルガの母と共に食事をしなくてはならなかった。アルベルトは「あんなことがあったのだから、無理する必要はない」と直前ではあるが、部屋に食事を運ぶことを提案してくれたが、ユウカは断った。


 ヴァルブルガの──友人の母親なのだから、できれば仲良くしたい。きっと話せば分かり合えるはずだから。


 ヴァルブルガの母はユウカが席につくと、先程ヴァルブルガが言った「メイドではなく、友人」という言葉が本当なのだと気づいたのか、嫌そうに眉を顰めたが何も言わなかった。


 思いの外昼食は和やかに進んだ。天気はどうとか、お仕事の方はどうですか、など。当たり障りのない話が中心だった。ユウカはこの国の常識に疎いので、邪魔にならないように相槌だけ打って静かに食事をした。


 そして話題は終結したばかりの、先の大陸戦争の話へ移って行った。


 「まったく、馬鹿な娘だよ。戦場に行くなんて! あんたが戦場にいるって聞いて、私は胸が張り裂けそうだったよ」


 ヴァルブルガの母はヴァルブルガを見つめながら、涙を滲ませた。


 「ずっと神様に祈っていたよ」


 ヴァルブルガの母の泣き声はまるで歌っているかのようだった。ユウカはヴァルブルガの母がヴァルブルガが生きて帰ってくるようにずっとお祈りしていたんだと思った。


 戦地にいる娘を案じるしかない母親の偉大な愛の片鱗に触れたような気がした。きっとユウカのような見た目に偏見はあるだろうけど、悪い人ではないのかもしれない。彼女はヴァルブルガの母親だから。


 「もし、負傷するくらいなら殺してしまってください。女の子が不具にならないようにって」


 カチャ、とフォークとナイフが皿に当たってその後静寂が訪れた。ヴァルブルガは笑みを浮かべたままだったが瞳だけは険しく固まっていた。


 「な…なんですか、それ!」


 ユウカはフォークとナイフを置いて、立ち上がっていた。


 「あなたそれでも母親なんですか! 」


 ヴァルブルガの努力を否定されたようで、ユウカは怒りに身を任せて叫んでいた。ヴァルブルガが負傷者たちを優しく看護していたことを知っている。あの懸命な仕事ぶりを見ていないのに、なぜこんなことが言えるのだろう。


 噂でしか聞いたことはなかったが、ヴァルブルガは前線でも看護師として活躍したと聞いたことがある。それに何より、母親が娘が生きていて欲しいと願うのではなく、殺してしまってくださいと願うなんて。


 「私らがどれだけ泥水啜って生きてきたか知らないだろう。子供を産んだこともない小娘が、私に母親とは何たるかって説教する気?」


 ヴァルブルガの母はキッとユウカを睨みつけた。その迫力は猛獣のようだったが、それでもユウカは引かなかった。次の言葉を続けようとした時だった。


 「ユウカ、落ち着いて」


 ヴァルブルガも席から立ち上がってユウカを宥めようとしていた。


 「義母上、妻と彼女は少し気分が悪いようなので席を外させていただきます」


 アルベルトがそう言うとヴァルブルガの母は「フンっ」と鼻を鳴らした。ユウカはヴァルブルガとアルベルトに連れられて自分に与えられた部屋に戻った。デザートは部屋に運んでくれるように、アルベルトが使用人に言いつけていた。


 「怒鳴っちゃったのは、私も悪かったけど。でも私、何か間違ったこと言った?」


 ユウカの手はまだ怒りで小刻みに震えていた。これで迷惑をかけて屋敷から追い出されることになってしまっても構わない。だって自分は友人のために立ち上がったのだから。という清々しさにも似た感情に包まれていた。


 「間違ってはいないわ。怒ってくれてありがとう、ユウカ」


 ヴァルブルガが優しく手を握ってくれた。ユウカは前にもこんなことがあったと思い出していた。アルベルトが逃亡兵を処刑した時だ。あの時ヴァルブルガはユウカも間違っていないけどアルベルトも間違っていないと言った。

 

 でも今回は、ユウカは間違っていなくてヴァルブルガの母が間違っていると思う。


 「母は、私のこと心配してたのよ。私が子供を産めない体になったら、アルベルトに捨てられて路頭に迷うって思ってるのよ」


 ヴァルブルガは仕方がなさそうに眉を下げた。


 「私はヴァルブルガがどんな姿になっても最後まで添い遂げるつもりだがな」


 アルベルトがそう言ってヴァルブルガは嬉しそうに微笑んだ。でも、ヴァルブルガが仕方がないと受け入れている様子は彼女が涙と悲鳴を飲み込んでいるように見えてならなかった。


 「お母さんは、シャンパンと葉巻を出しておけば怒りは収まると思う」


 「わかった。ヒューベルトに手配させる」


 アルベルトは使用人にヴァルブルガの母に早めにデザートを出して食後に葉巻を勧めるように言いつけていた。ユウカはそのあと部屋で大人しく食事をとり、ヴァルブルガの母とは会わなかった。


 ヴァルブルガの母が帰る時、ユウカは窓から見送りの様子を見つめていた。ヴァルブルガの母は会った時のようにヴァルブルガに今生の別れかというほどキスを浴びせて抱きしめていた。


 「ヴァリューシャ、もうちょっと仕送りを増やせない? ほら、最近物価が高いじゃない」


 蜂蜜を舐めたかのような甘ったるい声で、ヴァルブルガの母は強請っていた。ヴァルブルガはアルベルトと顔を見合わせアルベルトは「心ばかりですが」と言って仕送りを増やすことを了承した。


 それを聞いてユウカはまた怒りが湧いてきた。あの母親は仕送りをさせているのだ。それだけでも腹が立つのに、どうしてアルベルトもヴァルブルガもあの人の言う通りにするのだろう。


 お金が足りないなら、つけている指輪やネックレス、上等な毛皮を売ったらいいのに。ヴァルブルガの母の身なりはとてもお金に困っている人には見えなかった。


 「あんなのおかしいよ。私の世界ではああいう人のこと、毒親って言うの!」


 ユウカはヴァルブルガとアルベルトに訴えたが、ヴァルブルガは困ったように笑うだけだった。


 「お母さんは私のこと、愛しているけど同時に嫌ってもいるの。いえ、憎んでいるかもしれないわ」


 「そんな人とは早く縁を切った方がいいよ」


 ユウカはそう言ったがヴァルブルガは首を振る。憎んでいるはずの娘にお金を無心するなんて、やっぱりおかしい。


 ユウカはヴァルブルガのことをとってつけたかのように「ヴァリューシャ」と愛称で呼ぶあの人が嫌いだ。ヴァルという愛称は友人たちが呼ぶもので、ヴァリューシャは家族しか呼ばせな愛称らしい。


 「でも、私はお母さんのこと愛しているの」


 ヴァルブルガの言葉に、ユウカは絶句した。愛称の呼ばせ方で線引きされているのも悔しかった。あんな母親より、私の方がヴァルのこと思っているのに! と心の中で叫んだ。


 「だってお母さんがいなければ、私はここにいないんだもの。死んでいたかもしれないわ。アルベルトと結婚することもなかったし、ユウカと出会うこともできなかった」


 確かにあの人がヴァルブルガを産まなければ、育てなければここにはいないだろう。でも育てた恩を返せというのは、やはりユウカの元いた世界では毒親だった。


 「でも、やっぱりおかしいよ」


 ユウカは必死にそう言った。


 「お母さんから、私は大切な人を奪ってしまったの。死んだとしても償いきれない。だって、私が殺してしまったんだから…!」


 そこでヴァルブルガは堪えきれなくなったように泣き出した。アルベルトは静かにヴァルブルガの肩を抱いてゆっくり背中を摩っていた。


 「お父さんを、私が密告してしまったの」


 ユウカはヴァルブルガを泣かせてしまったと混乱した。ヴァルブルガから語られる独裁国家とヴァルブルガの何気ない言葉が形として父を密告するようになってしまった話は現実感がなかった。でも彼女の涙がそれは現実だと言っていた。


 ヴァルブルガは「急に泣いてしまって、ごめんなさい」とまるで過去のユウカのようなことを言った。ユウカとヴァルブルガの位置が反転してしまったかのようだ。


 ヴァルブルガは少し部屋で休むと言って、部屋から出て行った。部屋にはアルベルトとユウカだけが残される。


 「アルベルトは大事な奥さんが、死んだ方がいいって言われて何も思わなかったの? なんであの人にお金なんて渡しちゃうの」


 ユウカは少し八つ当たりするように尋ねた。


 「何も思わないわけない。私も常々あの女は金の話しかしないな、と思っている」


 アルベルトはヴァルブルガに酷い言葉を浴びせられた時、内心は腑が煮えくり返っていたが怒りを抑え込んだと話してくれた。


 「正直、あの女のことは許していないが。それでも彼女があの女を愛していると言うんだ。なら、私は雑には扱えない」


 ヴァルブルガがどんな姿になっても添い遂げる。彼女の愛着対象を雑には扱わない。彼女の人生、過去ごと受け入れる。そのアルベルトの深い愛情をユウカは見た気がした。

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