祖父の指示に逆らって
スカーレットの心には、昼下がりの陽光をもってしても晴らすことのできない、重苦しい鉛の雲が垂れ込めていた。 それは、一通の羊皮紙に署名したという、誰にも言えない秘密の重さであり、何よりも、彼女の背後にある合理主義の壁――祖父ヘンリーの冷徹な命令――の威圧感だった。
貴族院議員の孫娘として、「非合理的な場所に近づくこと、得体の知れない連中と関わること」を禁じられた。だが、彼女の持つ「中世の火魔法使いめいた荒々しい発現」は、もはや彼女自身の所有物ではなく、魔法契約という冷たい鎖で協会に繋がれてしまった。
アシュフォードの町並みは、産業革命の謳歌を響かせている。ウィリアムの工場から立ち上る羊毛の匂いと、キャンベル工場のボイラーから吐き出される、鉄と石炭の乾いた熱気。人々は時間を守り、蒸気機関の安定したリズムに沿って生活している。
この「正しい」世界の中で、一歩一歩、町はずれの古びた会計事務所へ向かうスカーレットは、まるで水の中に沈む石のように、周囲の軽やかな合理性に抗いながら足を進めていた。
(おじいさまは、私を、アシュフォード家を守る「正しさ」の型に嵌め込もうとしているのに……)
彼女が向かう先は、その「正しさ」を根底から揺るがす、秘密の巣窟だ。 その会計事務所は、目立たない路地の奥にひっそりと佇んでいた。外壁は時代遅れのレンガで、窓の木枠は少し埃っぽい。キャンベル家の工場から聞こえる蒸気機関の規則的な音が、ここへ来ると急に遠く、異質なもののように感じられる。
スカーレットは意を決して重い木製の扉を開けた。
「あら、スカーレットちゃん、よく来たわね」
受付にいたのは、この前と同じペネロペ・シャドウだった。 最凶の魔女を自称するその女性は、帳簿の山を前に、表向きの会計事務所の事務員として、人当たりの良い笑みを浮かべていた。だが、その瞳の奥には、彼女の「最凶」の自称とは裏腹の、底知れぬ優しさが潜んでいる。
ペネロペは万年筆を置き、優雅に立ち上がると、スカーレットに耳打ちするように声を潜めた。
「実はね、スカーレット。協会の皆で賭けをしていたのよ」
「賭け?」
スカーレットは、祖父の厳しい命令を胸に抱えてきた身には、その言葉の軽さに目を見張った。
「そうよ。あなたは、あの合理主義の化身、貴族院議員のヘンリー卿に、あれほど厳しく言い含められた直後に、私たちのような『得体の知れない連中』のところへ、律儀に来るかどうか、ってね」
(この人はどうして私とおじいさまのやり取りを知っているのかしら)
ペネロペはにこやかに、しかしどこか悪戯っぽい調子で続けた。
「今回の賭けは、私の勝ちだったわ。あなたは来るってね。だって、あなたのおじいさまが、この世で最も魔法嫌いで、私たち協会を煙たがっているのは、皆、よく知っているもの」
スカーレットの心臓は、驚きと戸惑いで小さく震えた。 彼女にとって、祖父の怒りは世界の終わりであり、魔法協会への訪問は背徳的な行為であった。しかし、彼らにとっては、それは単なる賭けの対象に過ぎなかったのだ。彼女の重苦しい葛藤も、この秘密の社会では、まるで子供の遊びのように扱われている。
スカーレットの目の前でのペネロペの優しさは、同時に世界の分断の残酷さも示していた。彼女が背負う秘密の重さは、ここではあまりにも軽く、そして外の世界ではあまりにも危険な爆弾であった。
「さあ、奥へ。ルーサーとバイオレットが待っているわ。今日はまず、あなたの荒っぽい火魔法を、どうやってこの合理の世界にふさわしい炎に変えていくか、その最初の授業よ」
ペネロペは、スカーレットの背を優しく押した。 彼女が足を踏み入れた部屋は、外の会計事務所とはかけ離れた、星図と古道具が並ぶ、別世界だった。 スカーレットは、合理主義の盾を振りかざす祖父の愛と、非合理の秘密を課す協会の保護の狭間で、制御不能な「火の力」と共に、いよいよその異端の道の第一歩を踏み出したのだった。
ペネロペに背中を押され、スカーレットは覚悟のもと奥の部屋へと足を踏み入れた。




